第2話 神隠し

『――――いいかい? もしも、白くて透明な光る蝶々を見つけても、決して捕まえようなんて思ってはいけないよ。

 もし見つけても、見なかったことにして、直ぐにその場を離れるんだ。

 でないと、あの世でもこの世でもない何処かへ連れて行かれてしまうからね。おばあちゃんの友達の、ミヨちゃんのように…………』



 それは。

 小さい頃に、何度もおばあちゃんから聞かされた話だ。

 縁側で。お風呂で。おこたで。

 何度も、何度も。

 耳に出来たタコで、タコヤキが出来そうなくらいに、何度も。


 おばあちゃんが、今のあたしよりももう少し小さかった頃。

 おばあちゃんのお友達のミヨちゃんは、


「白くて透明な光る蝶々がいる」


 そう言って、何もないところに手を伸ばしたと思ったら、その直後。忽然と姿を消してしまったのだ。

 透明人間にでもなったみたいに。

 実はミヨちゃんは幽霊で、一瞬で成仏しちゃいました、みたいに。

 突然、消えてしまったのだ。

 その場には、おばあちゃんとミヨちゃんだけじゃなくて、他にもお友達がいたんだけれど、みんな同じことを証言したという。

 ミヨちゃんは、その後。

 二度と姿を現さなかった。

 今もまだ、ミヨちゃんの行方は分からないままだ。


 そう。つまり。


 ミヨちゃんは、神隠しにあってしまったのだ。



 知っていたのに。

 あたしはそれを、知っていたはずなのに。

 白くて透明な光る蝶々は、ヤバイやつなんだって。

 どうして、もっと早くに思い出さなかったんだろう。

 どうして。

 蝶々を見つけた時に、思い出さなかったんだろう……。



 呪いの蝶々に会う前のあたしは、幸せの絶頂にいた。

 …………絶頂は言い過ぎたかも知れない。

 絶頂の一歩手前、くらい?


「今日の晩御飯はコロッケだよ」


 って、朝。学校へ行く前に、おばあちゃんが教えてくれたから。

 おばあちゃんのコロッケ、本当に美味しいんだよ。もう、大好き。愛してる。

 楽しみ過ぎて、ずっと口元がだらしないことになっていたみたいでね。クラスのみんなだけじゃなくて、先生からも顔が気持ち悪いとか言われる始末。

 でも、そんなこと言われても困る。

 引き締めよう、引き締めようと思っても、口元が勝手に緩んでいってしまうんだから。これはもう、あれだ。地球の重力のせいなんじゃない?

 うん。そうに違いない。

 自然現象なんだから、仕方がないのだ。


 学校が終わった後のあたしは。

 何処までも続…………いや、家まで続くお花畑の中をスキップしていた。

 もちろん、脳内的な意味で。

 通学路の途中に、お花畑なんて実際には存在しないからね。田んぼや畑はいっぱいあるけど。

 スキップも、何とか思いとどまった。危うく、うっかり、本当にやるところだったけど。まあ、あたしもほら、中学二年生なわけだし。さすがにね。誰も見ていないとはいえ、通学路をスキップで帰るのはちょっと気恥ずかしいというか、ね?


 現実のあたしは。

 この間、田植えが終わったばかりの水田に挟まれた細い道を歩いていた。軽トラック一台分の幅の、所謂農道というやつ。でも、ちゃんとアスファルト舗装されている道だ。

 足取りは軽い。弾むように。

 コロッケで浮かれているのもあるけれど、おニューの水色スニーカーも、あたしの心と足元を浮き立たせてくれた。

 今日はクラブがお休みだから早く帰れて。お天気も良くて。お日様はポカポカで。たまに吹き抜ける風も強すぎず弱すぎず、優しく頬を撫でていく感じで。砂埃が目に入ったりすることもなくて。

 あたしは今、コロッケと世界に祝福されている!

 まさに、そんな感じだった。


 蝶々を見つけるまでは。


 蝶々に手を伸ばして、瞬きを一つして。

 目を開けたら、蝶々はどこかへ消えていた。


 代わりに。


 なんか、でっかいお魚さん、みたいな何かが目の前にいた。

 目の前、といってもキスが出来そうなほどの至近距離とかじゃなくて、1メートルくらい先?

 顔は動かさずに、目線だけを動かしてお魚モドキの全身を確認する。

 何だろう、これ?

 あたしよりも少しだけ背の高いお魚さんには、人間の足が生えていた。大人の男の人の足っぽい。筋肉質でがっしりしていて、でもすね毛はない。ツルツル。

 手は、生えてない。


 パクっと開いたお口の中には、ギザギザの歯じゃなくて、見慣れた感じの歯が並んでいる。歯磨きの時に鏡の中にお見かけするのと同じような歯。

 お魚のお口の中に、人間の歯が生えている。

 あたしの頭くらいはスポっと入っちゃいそうなくらい大きなお口なので、本数は大分割り増しされている。ちなみに歯の大きさは人間サイズ。


 お魚のお口の中に、ズラッとびっしり生えた人間の歯。


 品種改良に失敗……というよりは、悪い魔女に呪いをかけられてお魚にされちゃった人間が、呪いを解いて人間に戻ろうとして失敗しちゃったみたいな感じ?


 まあ、兎に角…………気持ち悪い。


 お魚の方も、あたしを見ているみたいだった。

 あたしを見て、ギラッと目を光らせる。

 スーパーで目当ての特売品を見つけた時のお母さんと同じ目。

 ハンターの目だ。

 お口の端から、微妙に泡立った透明な液体がどんどん溢れてくる。

 むはぁっ と。

 生暖かくて生臭い息を吹きかけられる。

 悲鳴を上げるより前に、回れ右をして走り出した。

 始めの一歩で転びかけて、足元の状態がかなり悪いことに気が付く。

 土砂降りの後のあぜ道のように、足元がぬかるんでいる。

 それでも、何とか体勢を立て直して、ダッシュ続行!


 さっきまでアスファルト舗装された道路の上にいたのに。

 ああー! 泥はねがー!

 おニューの水色のスニーカーがー…………。

 うう。アスファルトが恋しいよう。


 スニーカーの惨状を思って嘆きつつも、必死で足を動かす。

 お魚さんは、逃げるあたしの後ろを、着かず離れずの距離で追いかけてきているようだった。

 ハアハアと、変質者を思わせる荒い息遣いが聞こえてくる。

 生臭い息も健在!


 やめて!

 吹きかけないで!

 どっか、行ってー!!


 半泣きで、どこか逃げ込める場所がないか視線を彷徨わせて。

 今更のように気が付いた。


 自分が、見知らぬ世界に迷い込んでしまったことに。

 迷い込んだというよりは、世界の方が勝手に変わっちゃったって感じなんだけど。あたし的には。

 あたしが立っていた場所は変わっていないのに、瞬きの間に世界の方が変わってしまった感じ。


 明るい昼の世界から、薄暗い夜の世界に。


 ほら、演劇とか舞台とかで、自分は同じ客席に座ったままで動いてないのに、幕が下がっている間に舞台装置とか背景とかを変更して、幕が上がったら昼から夜に様変わりしていた、みたいな。



 そこは。

 薄暗くて仄明るい場所だった。

 空には、太陽も月も星もない。

 辺りを飛び交う、ホタルみたいな不思議な光だけが、唯一の灯りだった。


 どうやら、ここは沼地のようで、あっちこっちに蓮の葉っぱ見たいなのが浮かんでいるのが見えた。あと、なんか他にも生き物がいるのか、たまに小さな水音が聞こえてくる。

 底なし沼じゃないといいんだけど。


 ホタルモドキは水場が好きみたいで、水音がした場所にたくさん集まっている。

 早めにそのことに気が付いて、ホタルモドキがいない場所を選んでいるおかげか、何とかグチャグチャとはいえ地面があるところを走れている。


 沼に落ちたら、お終いだ。

 絶対に、逃げられない。


 足が生えているとはいえ、相手はお魚さんだ。水陸両用の可能性が高い。水の中では、圧倒的にあたしが不利!

 沼に落ちたら、あのお魚だけど人間の歯が生えたお口で食べられちゃう!

 あのお口に食べられるのは、鋭い牙で引き裂かれるよりも、何か嫌だ。


 ああ、もう、本当に!

 どうして、こんなことになっちゃたんだろう?


 脳内で、何かに向かって問いかける。

 問いかけて、思い出した。


 白くて透明な光る蝶々のことを。


 頭の後ろの方で、さっき見た、目の前を横切る蝶々の姿が再生されて。

 それと一緒に、小さい頃に散々聞かされたおばあちゃんのお話が、やっぱり脳内で再生される。蝶々の映像に合わせて。


 白くて透明な光る蝶々を見つけて、消えていなくなっちゃったミヨちゃんのお話。


 どうして。

 どうして、今頃になって思い出しちゃったの?

 走って脳の血行が良くなったせい?

 もしかして、恥ずかしがらずにスキップしてたいら、蝶々を見つけた時に思い出していた?


 どうして、どうして。

 今頃、遅いよ!

 手遅れっぽいよ!



『ミヨちゃんは、神隠しにあった』


『ミヨちゃんは、二度と戻らなかった』



 そのフレーズだけが、交互に脳内でリピート再生エンドレス!


 あたし。

 あたし、神隠しにあっちゃったの?

 もう、お家に帰れないの?


 もう。

 おばあちゃんのコロッケ、食べられないの?


 熱い滴が頬を伝って。

 視界がぼやけて。

 それから。


 あたしは、何でもないところで躓いて、盛大にぬかるみの中にダイブした。


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