第45話 果実と蜜の引き寄せるチカラ

 風の音が聞こえて耳をくすぐる。その澄んだ風が頬をなでる。静かで心地よい風。わずらわしいものを体から取り払ってくれるような、そんな風。


 早く起きてって言っているみたいに、あたしを急かしてくる。

 あたしはゆっくりと目を開けた。冷たい地面が体を抱いている。あたしはその地面に倒れていた。


 ゆめ? お姉ちゃん……。


 あたしはポケットからエネギュリにもらった本を取り出して開いてみた。


 姉はこちらを見てうれしそうに微笑んでいる。パジャマにエプロンを掛けて、料理をのせた皿をテーブルの上に並べている映像があった。


 これがあたしの目的。


「起きなきゃ……」


 あたしは本を閉じてポケットに入れた。そして、両手を地面につけてゆっくりと立ち上がった。


 不思議なことに、さっきまでとてもお腹が空いていたのにそれが満たされている。

 

 顔を上げると、まっすぐな広い道が続いている。薄暗い空には星がまばらに光を放っていた。あたしの背中を風が押した。早く歩けと急かしてくる。あたしは手をギュッと握りしめて歩き出した。


 負けない。絶対にやり遂げるわ。


 この1歩1歩を踏みしめて、最後まで歩き続ける。たとえ負けたとしても、まっすぐな心は汚さない。壊さない。


 目の前にあるのはただの道。その大地をただ歩いて行くだけだわ。


 倒れたときの体の痛みはなく、なんだか体が軽くなったような気がする。さっきまでの重みがなく、自然に動いてくれる。


 ふふ、不思議なものね。さっきまで欲に負けそうになっていたのにさ、生き返ったみたいに体が軽いし、欲に支配されていないわ。


(グ―……)


 ん? あたしのお腹が鳴ったのかな? 残念だけどお腹が減っていても、もうクリスタルメサーチアを食べようなんて思わないわよ。


(グル……)


 え? ちがう!? あたしの後方からなにかが聞こえて来る。唸り声のように。


 あたしは後ろを振り返った。


 薄暗い向こうにいくつもの白や黄色の目が光っていた。そこから、荒々しい唸り声がこだまのように聞こえてきた。


(ガルルル……)(グルルル……)


 ケモノたちの足音も聞こえてきた、こちらへ向かって走ってきている。


 ケモノの群れ!? に、逃げなきゃ!


 あたしはそれらに背を向けて走った。ドドドドォーという地鳴りが地面を揺らすように迫ってくる。


 追いつかれる!


 あたしはポケットから目くらまし玉を取り出した。走りながら後方へ耳を傾けて音だけに集中した。目の前まで近づいてきたときに、目くらまし玉を使うように。


 ケモノたちの足音は直ぐに大きくなった。それと共に狂ったような唸り声も大きくなった。


 あたしは目くらまし玉を後方へ投げた。すると弾けるように白く黄色い光が辺りを包み見込んだ。音はなくただ光るだけの玉。


 ケモノたちの足音が段々と遠くなっていった。唸り声も小さくなっていった。


 そのあいだにできるだけ遠くへ逃げる。走って走って、走り抜ける。


 風が向かい風になりあたしの進行を邪魔してくる。その一帯が、ケモノたちと手を組んであたしを陥れようとしているみたいに。


 風がビュービューと音を立てる。逃さないと言っているように風があたしの体を包み込んでくる。風圧が壁のように立ちはだかり、走っている足が思うように進まない。


(ガルルル……)


 ふたたびケモノたちの唸り声が聞こえてきた。それと同時にケモノたちの足音も近づいて来る。


 あたしはふたたびポケットから目くらまし玉を取り出した。(ガオォォ……)轟音のような唸り声が地面を叩く足音と共に襲い掛かってくる。


 ……速いわね。あたしが狙われているってことは、あたしが獲物だから? それともクリスタルメサーチアのせい? それともその果実と同じ匂いを放つパジワッピーの花の蜜のせい?


 ケモノたちにとって、こんな強力な食糧が目の前にあるのに追ってこないはずはないわ。ここにクリスタルメサーチアやパジワッピーの花の蜜を放り出して、それらをおとりにして逃げようかって思うわ。でも、やらない。


 パジワッピーの花の蜜をあたしが飲めば助かるかもしれない。願いの叶う花の蜜を飲めば。でも、飲まない。だって、姉の体を治したいから。


 治せる可能性が少しでもあるなら、あたしはそれに賭けるわ。


 (ギャアアオー!)すぐ後ろにケモノたちがいる。あたしは目くらまし玉を後ろへ放り投げた。


 カッと光る。太陽がすぐそこにあるみたいに、その場が眩しい光に包まれた。唸り声や足音は消えて静かになる。この照らされているあいだにあたしはまたケモノたちから距離を遠ざけた。


 まだなの遠いわね。……ちょっと待って。このままケモノたちを引き連れて帰ったら、どうなるのかしら。ケモノたちが勢いに任せてあたしたちを襲って来る。ポノガは食べられないけどあたしとグレスティーガは食べられてしまうってわけ?


 あたしが早く逃げたとして、洞穴まで帰る。そこで、ポノガから腕輪を外してあたしはポノガを持ったまま、グレスティーガに駆け寄って腕輪を使う。


 それで守られるはず。腕輪があたしの周りに透明な壁を作るから、その者に近寄って使えばその者も守られるはずだけど、ポノガならまだしも、グレスティーガはあたしより大きいからわからないわ。


 (ギャアアオー!)(グゥアアアー!)ケモノたちがふたたび迫ってきた。


 目くらまし玉があとひとつしかないわ。もっと速く走りなさいよ! なんで人間の足ってケモノより遅いのかしら。まったく。

 

 はぁ……はぁ……疲れたわ。額から汗が流れ出る。その汗が風によって流されていく。


 狂った唸り声が耳を走るたびに、あたしの足が前へ押し出される。背中から冷や汗が流れ出ていく。両側から聞こえて来る唸り声は、あたしを逃さないように、見えない罠を仕掛けてくる。その罠につまづきそうになり、上体が揺れる。体が言うことを聞かなくなったように、前のめりになり、そのまま転びそうになった。


「ぐっ!」


 なんとかあたしは踏みとどまり、また走り出した。走っても走っても、ケモノが追って来る。

 後方が雪崩のような地響きを立てながら迫ってくる。その揺れにあたしの足はもつれそうになった。


 あたしは最後の目くらまし玉を取り出した。後方を見ると、道の幅を埋め尽くして、ケモノたちの壁が迫ってきている。


 肉食獣にまじって草食獣もいる。このクリスタルメサーチアって食べ物は、どんな動物でも引き寄せる力があるのね。その生き物が食欲をそそる匂いを個別に放っているんだわ。それぞれ違う好みの匂いを。


 吊り上がった鋭い目。とがった鋭い牙。蛇のように舌をうねらせて、よだれを垂れ流しながら走ってくる。


 弱肉強食じゃなかったの? 肉食獣は隣に草食獣がいるからそっちを襲いなさよ。なんでこっちなのよ。まったく。


 あたしは手に持っている目くらまし玉を握りしめた。


 これが最後……。これを投げたら、もうあたしを守るものがなにもない。でも、あたしは最後まであがいて見せるわ!


 あたしはケモノの壁を爆弾で壊すみたいに、目くらまし玉をその壁に投げつけた。


 パーっと昼間より明るくなり、白と黄色の光。太陽みたいな眩しさがその一帯に広がった。その光に背中を押されながらあたしは走った。


 心臓の鼓動が速い。疲れた。息苦しい。……はっ? あれは、崖? いや違う。あの下に洞穴がある。着いたわ。


 早く行ってポノガから腕輪を外して身につけないと。


 (ギャオオオウー……!)ケモノの怒りにも似た唸り声は大地を揺るがしていた。


 ザッザッザッと自分の足音を聞くたびに、心臓の鼓動が破裂しそうになる。


 苦しい……早く行かなきゃ。


 あたしの思考と裏腹に、体はあたしを停止させようとしてくる。これ以上走ると壊れてしまうから走るなって言っているみたいに。


 もう少しなの。我慢してあたしのカラダ。


 えっ? 急に目の前を白い子ウサギが飛び出してきた。あたしはそれを拾い上げて走った。あっ! 体がバランスを崩し。足がもつれて、そのまま突っ込むような体制で地面に叩きつけられた。


 あたしは子ウサギを抱きながら後方へ振り向いた。


 黒い雪崩が轟音と共に迫ってくる。薄暗いなかにケモノたちの壁が押し寄せて来る。目を光らせて、唸り声を上げて、我さきに我さきにと押し寄せて来る。


 大きな1匹のオオカミがその群れのなかから飛び出して、あたしたちに迫ってきた。


 鋭い牙。大きな足音。凄みのある巨体。獲物を狩る強食。


 オオカミは目の前まで来て、あたしたちに飛び掛かってきた。


「きゃああぁー!」


 子ウサギをぎゅっと胸に抱きしめて、庇うようにオオカミに背中だけを向けた。

 視界に映し出される世界がゆっくりと動いている。あたしの終わりを告げる最後の時のように。

 

 ……ごめん、お姉ちゃん……約束を破って。あたし、元気に帰れそうもないわ。あたしはただ、お姉ちゃんの体を治して、いつもの何気ない生活に戻りたかっただけなの。


 何気ない生活に……。

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