第37話 ケモノとの鬼ごっこ

 薄暗い森のなかを歩いて行く。ヴィヴォラの家から森の道を通ると薄暗さはより深く暗くなった。


 空を見ると星が小さな宝石を撒いたように輝いている。木々に邪魔されて空全体は見渡せないけど、星の光がこの暗さを和らげてくれる。


 オレンジ色の光で地面に生える草が浮かび上がる。踏み出すたびに草がザッザッと音を鳴らす。


 (ホーホー)森のどこからかフクロウの鳴き声が聞こえてきた。このさきは危険だとでもいうような警報めいたものに聞こえてくる。


 ポノガは尻尾をくねくねとさせながらあたしの前を歩いて行く。あたしを引っ張っていくみたいに。


「しかし、なんかーおいらたちのいた森とはまた違う匂いがするぜー、なあ、シャルピー」

「別に、森は森よ」


 ここが彷徨さまよい人の森。たしか道案内人がいて彷徨い歩いている人を道案内しているとか。歩いていれば、その人たちに出くわすかもしれないわね。


 進む方向は暗くなっていてなんの光りも見えてこない。道案内人はヴィヴォルのようにこの光る物体を放ちながら案内しているみたいだから、もし、そんなような光があったら道案内人がそこにいると思ったほうがいいかも。


 でも、こんなことをしているとあたしも道案内人にならないのかしら。ヴィヴォルの光を借りているけど、彷徨い人がいたら、あたしたちに近寄ってきて「道案内してください」みたいなことを言ってきたりしてさ、まさかね。


 上り下りの坂が続き、木の根が地面から見えているところをつまづかないようにして歩く。


 あたしたちの歩行を邪魔するものは特になくて、ときどき、ポノガはなにかを見つけるとそこへ突進していき、うなだれたようにもとの位置へ戻るを何回か繰り返していた。ちらりと見えたそれはネズミだった。


「あークソー、また逃げられた」

「ポノガ、さっきからなにやってんの?」

「あーネズミを捕まえて食糧にするんだ」


 そうだわ、ポノガは猫なんだよね。猫の習性ってやつだわ。野生で生き抜いていくには、そういったことも必要よね。


「なんであたしについてきたの? 別にあの家でムリッタと一緒に待っていればよかったじゃない」

「あー? わかってねーなーシャルピー。おいらはこき使われるのは嫌なんだ。ヴィヴォルの家で掃除させられたんだぜ、待ってるときに。だったら、こうやって歩き回ったほうがいいぜー」

「ふうん、危険かもしれないわよ、こっちのほうは」

「あー大丈夫大丈夫、おいら逃げ足は速いから」

 

 ポノガの黄色い目の光がなにかを捉えて走り出した。瞬間芸でも見るかのようにその場から消えた。それから、うなだれたようにまた戻ってきた。


「まあ、こんな感じにだ」


 ……ネズミ、捕まんなかったんだ。


 しばらく行くと、木々が開けたところにたどり着いた。草原のまんなかにはモミの木らしき植物が1本立っている。そこから見える道は左、まんなか、右と分かれていた。草原を揺らす風が木を渦巻くように吹いていた。


「ここがヴィヴォラの言っていた、1本のモミの木のようね」


 あたしたちはそこから左へ曲がった。そのとき、後方でガサッと音がした。


 あたしはとっさにその方向へ身構えた。目を左右に動かして辺りを確認する。しーんと静まり返った暗がりを見ていると背中から冷や汗が流れ出た。


「おいシャルピー、なにかいるぞ」

「えっ? なにが」

「ケモノの匂いがするぜ」


 茂みがガサガサと揺れた。


「行きましょ、ポノガ」

 

 あたしたちは少し小走りで左側の道を進んだ。茂みからなにかが抜け出した音が背中越しに聞こえてくる。そして、それは低い唸り声ともいうような野生の威嚇があたしたちに恐怖を与えてくる。


 あたしはポノガを呼んだ。


「ポノガ、こっちへ来て。あたしに捕まって」

「えー? なんでー、言っとくが、おいらはシャルピーより速く走れるぜ」


 ポノガは素早い動きであたしから離れた。


「知ってるわよ。でも、後ろにいるケモノがあんたより早かったら」


 すると、ポノガは急に速度を緩めてトボトボと歩き出した。


「それはー」

「あたしにはいいものがあるの。走って逃げるよりも」

「ホントかー?」

「早くしなさいよ、咬み殺させたいの」

「わかったよ、食われるときは一緒だー」


 ポノガはあたしの肩に素早く飛び乗ってきた。


「いったいわねー、爪立てないでよ」

「あ、ごめん」


 (ガアアッー!)あたしの背中を押すような威嚇が不安な気持ちをあせらせる。

 あたしは手首につけてあるハニレヴァーヌの腕輪に触れて(スノードーム)と念じた。


「おいっ! シャルピーなにやってんだ」

「おまじないよ。あんたは絶対にあたしから離れないで、いいわね」

「ああ、わかったぜ」


 背後からはケモノの唸り声と共に地面を駆けてくる音が段々と近づいたきた。あたしはなるべく追いつかれないように走った。ケモノとはどのくらいの距離があるかわからないけど、逃げ切れるならそれに越したことはない。


 このさきにあるという集落にたどり着ければ助かるかもしれない。そうすれば諦めて帰るかもしれない。今のあたしはケモノの唸り声で冷静に周りを見ることができない、振り返れない。


「ねえ、ポノガ。ケモノは後ろに見えてるの?」


 ポノガは首だけを後ろへ向けて一瞬爪を立てた。


「ああ、輪郭だけだが追って来てるぜ、どう猛な感じのやつがな」


 闇に向かって走っている。進んでも進んでも一向に見えてこない光。腕輪があれば別に走らなくても大丈夫かもしれないけど、油断しちゃいけないのよ、絶対。


「ああ……」


 ポノガが驚きとも取れない言葉をもらした。


「どうしたの?」

「熊だー!」

「くま!?」


 あたしの背中で冷や汗が伝う。このまま走っても追いつかれるのはわかっている。でも走る。ギリギリまで。なにか策はないかしらって考えたいけど、あせる気持ちと引き換えに逃げろという行動が本能的にそうさせる。


 逃げずにここで止まって、堂々と立ち向かえばいいじゃないって思うかもしんないけど、今のあたしには逃げるだけしか方法が見つからないのよ。


 大体、熊って人を食べるのかしら。魚とか蜂蜜を食べる印象があるけど……でも、お腹が空いていれば食べるのかも。


 はぁはぁ、疲れたわ、まったく。なんでこんな目にあわなきゃならないの。

 ……そうだわ、逃げるから追われるんだわ。立ち向かうのよ、あたし。


 あたしは走るのをやめてその場に立ち止まった。強い追い風が背中を通り越していく、殺気めいた見えない視線を感じながら、力強くこぶしを握りしめた。


「お、おい! シャルピー! 早く逃げねーと、なに立ち止まってんだよ!」

「うるさいわ、黙ってて!」


 あたしは風に逆らうように振り返り熊が来るのを待ち構えた。地面に生えている草ごと土を両手でつかみ取るとあたしはそれを握りしめた。


 風があたしたちに向かって吹き抜ける。辺りの草や木々が恐怖を感じているかのように揺れ動いていた。


「さあ、来なさいよ、ケモノ」

「シャルピー! どうしちゃったんだー! 逃げねーと」


 あたしは熊が暗闇からくるほうを見据えながら首を振った。


「ダメよ、逃げちゃ。これは逃げちゃいけないんだ」 

 

 ドスッドスッと音が近づいて来る。その度に地面が揺れている感覚があたしの足を震わせていた。


 暗闇からその影が現れた。あたしたちを見つけると勢いを緩めて、警戒しているように1歩1歩と近づいてきた。あたしたちから視線をそらさずに探るように地面を踏みしめていた。


 あたしたちの少し離れたところで、ウロウロと左右に行ったり来たりをしている。四つ足歩行のときであたし身長の2倍くらいはある。立ち上がると4倍くらいあるかもしれないその巨体。


 薄暗い空間に浮かぶ鋭くにらむようなふたつの目。ポノガはそれを見て爪を立てる。目の前にいる熊はあたしたちの隙をうかがっているように一瞬の隙も見せてこない。


 この薄暗さに乗じてあたしたちを仕留めようとしている。

 相手からすればあたしたちは獲物。せっかく見つけた食糧を逃すはずはない。


 (ガアアッー!)と熊があたしたちを威嚇する。空気が割れるような振動であたしの耳をつんざく。そのあと、なにかに怒っているみたいな熊の荒い息づかいがせわしなく聞こえてきた。


 にらみ合いながら、あたしはゆっくりと足を動かして後ずさりをし始めた。バレないようにゆっくりと。


 いつ襲ってくるかわからないから、ハラハラしている。あたしのなかの鼓動が蘇るように聞こえてくる。


 目をそらさないように少しずつ距離を取っていった。けどその離れた分だけ同じく縮めてくる。離れれば追い離れれば追いを繰り返していた。


「らちが明かないわ」

「お、おいシャルピー、どうやって逃げるんだ、おまじないしたんだろう?」


 ポノガはブルブルとあたしの肩で震えていた。


「ポノガ、あの熊と話せないの?」

「おいおいシャルピー、おいらは猫だ。ネコ科ならまだしも、熊は違うだろ。ちなみにさっきなんて吠えたかわかんなかったからよー」

「単純に意味のない威嚇だけのものかもしれないわよ。話しかけてみてよ」

「ええっ! おいらぁ、ちょっと。でかいやつが苦手で……」


 ポノガは前足をそろえて、あたしの肩で縮こまった。


「しょうがないわねぇ」


 そのとき(カアー!)と上空でなにかが鳴いた。カラスだ! 張りつめていた空気は緩み流れだした。なにかの呪縛が解けたかのように熊があたしたちに迫った。


 薄暗さで見えなかった熊がその全体像を浮かび上がらせる。


 あたしの上半身くらいある大きさの顔には鋭い両目。突き出た口からは白い牙をのぞかせている。あたしの息づかいでも聞くかのように、さきの丸い耳をピンと立てていた。


 ごつごつした太い木のような足を動かすたびに鋭利な刃物のみたいな爪が光る。巨大な岩のような体から放たれる威圧感はなに者も寄せつけない威厳が感じられた。


 体を覆う黒く細い針金のような毛が風に揺れている。


 熊はあたしたちの目の前に来て、前足を浮かび上がらせ立ち上がろうとする。あたしはとっさにつかんでいる片方の土を熊の顔に投げつけた。熊は(ガアアッー)と叫びにも似た声を出すと顔を振った。


「走るわよっ!」


 あたしはその場から駆け出した。ザッザッザッザッ、草を踏みつける音が流れる。それにまじって後方からドスッドスッドスッドスッと音が次第に大きくなっていくのが聞こえてくる。


「ポノガ、熊が目の前に近づいてきたら、言って」

「ああ、わかった」


 走っても走っても集落は見えてこない。まだ着かないのかしら、まったく。


 地面を揺らすような足音が近づいてくる。走っているときにその振動で足を取られないように気をつける。木の根や石ころなんかにつまづいたり、地響きにも似た唸り声に怯まないようにして。


 あ! あれは? ……前方には木々がなくなり、薄暗い空間が広がっていた。よく見ると、少し下った坂のさきが消えて、黒い闇が広がっていた。


「おい! シャルピー、もう奴は目の前だぜ」

 

 あたしは走りながら振り返った。目の前に熊の顔がある。その口から流れ出るよだれは、あたしたちがただの食べ物だと語りかけてくる。


「あんたは、これでも食ってなさい!」


 あたしは握っていたもう一方の土を熊の顔にぶつけた。熊は一瞬怯み顔を振った。熊との距離が遠くなっていく。


 前方に見える崖があたしたちの進行を阻むように立ちはだかった。


「おいシャルピー、崖じゃねーかー!」


 あたしは崖の手前で立ち止まった。はぁはぁという呼吸があたしの思考をあせらせる。薄暗さで底の見えない断崖絶壁が目の前に広がる。後ろを振り向くとまだ熊の影は見えてこない。


 ヴィヴォラに騙された? あたしに言われて傷ついたから、そのはらいせに嘘をついた。熊がいてあたしたちがそこを通れば襲い掛かって来るってわかっていた。そして、指示された方向へ走って逃げれば、この断崖絶壁があってあたしたちを逃さないことも。


 あたしの額から一筋の汗が流れる。


 (ガアアッー!)熊の重圧な声が辺りに響き、それと共に大地を揺るがすような足音が近づいてきた。


「おい! シャルピー、あっちに橋が見えるぜ!」

「どこに!?」

「ここから右に行けばあるぜ」

「わかったわ!」


 あたしは走り出した。薄暗いなかを駆け抜ける。崖に沿って走っていくと、頑丈そうな橋が見えてきた。


 橋の脇は高い壁のようなっている。近づいて行くと、石造りみたいな壁からなかがのぞけるように、いくつか、ひし形に繰り抜かれていた。


「おい! シャルピー、熊に追いつかれちまう、早く走れ!」

「走ってるわよ!」


 背中越しからドスッドスッとまじかで聞こえる。橋の入口まで来た。入口の正面からまっすぐな石造りの道が続いていた。ふたりほど並んで通れる幅で、熊の巨体では通れそうにない通路だった。


 あたしはそこへ飛び込むように入ろうとした、が、後方からドンと音がして足もとが揺れる。その振動で転んでしまった。獲物は絶対に逃さないというような、熊の意地があたしを転ばせた。


「いった……」


 石の硬く冷たい感触が両手に伝わる。


 ポノガはあたしから離れて橋の奥へ転がっていった。振り向くとあたしの足が入口の半分くらいで外に出でてしまっていた。


 あたしはそのまま顔だけを熊のほうへ向けた。熊は立ち上がり前足の片方を振り上げた。キラリと爪が薄暗いなかで光る。


 (ガアアッー!)と、その声と同時にあたしに向かってその爪が振り下ろされた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る