第14話 オオカミたちからの逃走

 あたしの後ろをギグシーブはついてくる、離れないように見張るように。


 これだけ注意をそらさずに見張られたら身動きが取れないじゃない。不用意に氷の玉は吐き出せないわね。あたしが吐き出した瞬間を狙ってくるかもしれないし、体当たりなんかをしてきて、無理やり吐かせにくるかも。


 あたしは口を強く結んだ。


 こうしてあたしは背後を警戒しながら歩いた。ムリッタのところまで行けば会話ができるし、そこまでの辛抱よ。


 万が一、なにかがあってこの蜜をあたしが飲んだらどんなことが起こるのかしら。あたしの願いっていっても……うーん、なんだろう。


 あたし自身の体に変化が起こるモノなのはわかるわ。でも想像もつかないわね。それに今はムリッタを無事に連れ戻すことしか考えられないし。


 あたしたちのあいだを草を踏む足音だけが響いている。森のなかの霧は一段と濃さを増しているように感じた。この深い霧に乗じて襲ってきたら、あたしは飛び上がってうっかり吐いてしまうかもしれないわ。気をつけないと。


 ハーブのところへ着いたとして、もしムリッタが食糧にされていたらあたしは……いや、だってその時点で取引もなにもなくなるわ。そうなったらあたしは、この口に含んでいるパジワッピーのあめ玉を飲み込むしかないわ。襲われないようにできるだけ早く。


 そんなことを考えているあいだに、ルップウォーラの泉まで来た。あたしはそこを通り過ぎようとしたとき、後方から低い唸り声が聞こえてきた。


 あたしは立ち止まり慎重に振り返ると、ギグシーブは泉の水をペチャペチャと飲んでいた。安堵したあたしは小さくため息をひとつ吐き、近くの長椅子に座った。


 あたしはギグシーブが変な行動を起こさないように注意深く見ていた。大きな犬といえばそう見えなくもない。こうして森を歩いているとただの犬の散歩みたいに思えてくる。なにもしてこなければね。


 オオカミの牙とか、とがった耳を見ていると、野で生き抜いていく強さみたいなものをひしひしと感じる。そんなケモノに襲われたりしたらひとたまりもないわね。いつでもあたしを襲えるという余裕からきた行動なんだわ、きっと。


 飲むのを止めブルンブルンと体を震わすとあたしを目で促した。あたしは長椅子から立ち上がりまた歩き出した。


 ガサッと目の前で音がしてそこへ目を向けた。リスが2匹で追いかけっこをしている。どちらとも競争するように地面を駆け抜けて木に登って行った。


 あたしとオオカミが競争すれば必ずオオカミのほうが速いわ。たとえばここで逃げたとしてもすぐに追いつかれてしまう。素で逃げることはできないわ。ムリッタなら逃げ切れるかもしれないけど、あたしが走ったところでたかが知れているのよ。


 はあ、いっそのこと、この口に含んでいるパジワッピーの蜜を飲んで変身でもしたいわ。できるなら。


 しばらく進んでいくと目の前に広がる丘が見えてきた。霧のカーテンを潜り抜けていくとハーブの丘が現れた。


 オオカミたちがハーブの周りに集まっていて、まんなかに体格の小さいムリッタが待っていた。


 あたしに気づいてムリッタが尻尾を勢いよく振っている。少し跳ねるようにピョンピョンと動き回ると、その行動をオオカミたちのひと吠えで制止させられた。


 あたしはハーブの咲いている丘まで進みムリッタを見下ろした。


「シャルピー戻ってきてくれたんだね」

「元気だった?」


 白い気体が口から少し流れ出る。あたしは氷の玉を含んだまま話した。


「ぼ、僕は大丈夫さ」


 ムリッタは元気よく尻尾を振って答えた。あたしは頷き、いつの間にか目の前に座っているギグシーブを不機嫌な態度で見据えた。ギグシーブは鋭い目つきを対抗させている。そして唸り声を出した。


「……ムリッタ、通訳」

「あ、ああ忘れてたさ、えーっと。さあ、蜜を持って来たんだろ渡してもらおうか」

「すぐにはダメよ、あたしたちが安全なところまで離れないとね」

「なにぃ?」

「蜜を渡した瞬間に、あんたたちがあたしたちを襲ってくるかもしれないじゃない。油断できないわ」

「フンッ、俺さまたちがそんなことするわけないだろう。なあ」


 ギグシーブはほかのオオカミたちに意見を求めた。オオカミたちは相槌をするように唸ったり吠えたりした。


「わからないわ。でもそうしてもらえないかしら、欲しいんでしょう、この蜜が」


 あたしは口に含んでいるものを人差し指で示した。

 恨めしそうにギグシーブはあたしの口もとをにらんだ、そしてかぶりを振り言った。


「……ああ、いいぜ離れても。ただし俺さまが見える範囲までだ。そこまで行ったら俺さまがひと吠えして合図してやる」

「うーん、まあいいわそれで。それじゃあ、あたしがそこまでムリッタと一緒に行ってそこで、蜜をあんたに放り投げるから、それでいいわね」

「ああ、構わないぜ」


 あたしはムリッタと共にあとずさりをしながらギグシーブたちとの距離を取っていった。慎重に1歩1歩を踏みしめながら後退していく。


 あいつらに背を向けて歩いたりしたら、すぐに襲われてしまって終わりになるわ、だから落ち着いて行動するのよシャルピッシュ。


 霧でオオカミたちが見えるか見えないか辺りまで遠ざかった。木と木のあいだを過ぎた辺りでギグシーブは吠えた。(ワオオォー……)と、どこまでも響くような甲高い声があたしの耳を直撃した。あたしは硬直したように立ち止まるとムリッタを呼んだ。


「ムリッタ、ちょっと来て」

「シャルピーなにさ」


 あたしはポケットに入れてある透明の紐を見せて言った。


「これをこの道沿いの両端にある木にくくりつけてきて」

「ん? この透明な紐みたいなものを、木にくくりつけるの?」

「そう、ひとつの木に紐の端をくくりつけたら、もう片方の紐の端を、道を挟んだ向かい側にある木にくくりつけるの」

「うん、いいけど。僕、シャルピーみたいに手を使えないよ。どうやってくくりつけるのさ」

「それは大丈夫。ムリッタが紐の端を咥えて木に近づけば、勝手に結ばれるはずだから」

「へーそれなら僕にもできるさ……でも短いよ、この紐」

「それもへーきよ。木にくくりつけたらもう片方の紐の端を引っ張れば伸びるから」


 あたしは紐の両端を摘まんで伸縮させて見せた。


「それと、この1本の紐を木にくくりつけたら、ほかの2本はそうね……木をふたつ飛ばしで取りつけて来て、さあやって」

「うん、わかったさー」


 ムリッタは1本紐を咥えると後方の木にくくりつけに行った。咥えた紐の端を木に持って行くと、つる植物が巻きつくみたいに木をシュルシュルと回って結んでいく。そのあと道を挟んだ向かい側にある木にくくりつけてから戻って来た。それをさらに後方の木に2回くりかえりて戻って来る。


「シャルピー、くくりつけてきたさ」


 ピンっと張った弦楽器のような紐がうっすらと見える。

 あたしは口から氷の玉を吐き出すと手のひらに乗せて言った。


「うん、ありがと。あたしがこの蜜をギグシーブのところへ放り投げるから、投げたらあたしたちはこの道をまっすぐ走って逃げるの、パジワッピーの花のところまで、いい」

「うん、僕、追いかけっこは得意さ」

「じゃあ、いくわよ」


 ムリッタは態勢を低くして尻尾を振っている。


「せーの、それっ!」


 あたしは思いっきりギグシーブに向かって氷の玉を放り投げた。放物線を描いているのを見届けずにあたしたちは走り出した。木にくくりつけた紐でつまづかないように1、2、3と飛び越えて勢いよく走る。


 後方から唸り声や遠吠えが聞こえてきた。


 ギグシーブが命令を出して子分たちを追わせているんだわ。


 走りながら少し振り返ってみる。オオカミの群れがあたしたちを追って勢いよく迫ってくる。


 仕掛けた罠は効かなかったのかと思った瞬間、オオカミたちは転がるように宙を舞った。ふたたび起き上がるとまた宙を舞って地面に叩きつけられていた。あたしは少し安心して全力疾走で森を駆け抜けていった。


 ルップウォーラの泉を通り過ぎてパジワッピーの丘が見えてきた、ムリッタは余裕だけどあたしは息切れがしている。


 もう少しで出口。もう少しでパジワッピーの花のところへ。


 霧のカーテンを潜り抜けると太陽の光が照らしているパジワッピーの丘へと着いた。あたしは立ち止まって膝に手を置いて息を整えた。


「はぁ……はぁ……」


 あたしは額の汗を袖で拭う。


「やったー! 助かったさー」


 ムリッタは尻尾を振ってピョンピョンと跳ねたり、クルクルと丘を走り回っていた。


「ふう……」


 どうにかうまくいったようね。


 そのとき、後方の草むらが勢いよく揺れ動くと、オオカミ2匹があたしたちに飛び掛かって来た。


 不意を突かれてあたしは尻餅をついてしまった。とっさに地面の土を草ごとつかんで投げようとした瞬間、上空から剣が1本降ってきてあたしの目の前の地面に突き刺さった。それに驚いたオオカミたちは逃げるように森の奥へと帰って行った。


「しゃ、シャルピー大丈夫?」

「……だ、大丈夫よ」


 あたしは立ちあがり服についた埃を手で払うと、目の前に突き刺さっている剣をよく見てみた。その剣はハートレルの物だった。


「大丈夫か」


 後ろから声が聞こえた。振り返ってみるとハートレルが渋い表情で立っていた。


「ありがと、大丈夫よ」

「そうか」


 ハートレルは突き刺さっている剣を引き抜くと一振りして背中に戻した。そして去り際に言った。


「最後まで油断するな」


 そのまま彼女はパジワッピーの花のもとへと戻って行った。


 風が吹き、背中のマントがヒラヒラ揺れる。その背中を見ていると、どこか一貫した思いがあり、どんなことも屈しない凛々しさがそこにあった。あたしたちはそのあとについて行った。

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