天使と別れた日
三宮優美
出会いと別れが私にもたらしたもの
その頃の私は、人生に疲れ果てていた。
鉛色の空の下、荒涼とした異国の景色を掻き分けながら、どうしようもない程の疲労感によって痛みが麻痺した体を引き摺り、私は仲間の待つ兵舎へと帰還している途中だった。
ミーミーと小さな鳴き声が河川敷の方向から聞こえた。
小隊の生き残りは、私と同期の戦友、それに言葉の通じない外国人の傭兵の三人だけであった。傭兵の男は死にかけて私に背負われていた。戦友は酷い火傷を負い顔全体を包帯で覆っていた。喉が焼けてしまった彼は二度と得意のオペラを歌うことは出来ないだろう。
口煩い指揮官はとっくに死んでしまったので、隊列から一時的に逸れる私を咎める者は居なかった。
川路を降りてみると、レンガ造りの橋下の草むらに薄汚れた子猫が一匹いた。まだ目も開いていない白い猫は、何かを捜すように物哀しい声で鳴き続けていた。
空は雨模様だ。このままこの場所に放っておけば、子猫はあっという間に体温が奪われて、死んでしまうだろう。
私はその子猫を兵舎に連れて帰ることにした。
比較的軽症だったので、救護室を早々に追い出された私は、皆んなが戦死してしまった為に同室の者が誰も居なくなった自室に戻ると、用意した温かい湯で子猫を綺麗に洗った。そして、支給品の粉ミルクをぬるま温に溶いて子猫に与えた。
腹を減らしていたのか、子猫はミルクをたんまりと飲んだ。私が作ったミルクを全てを飲み干した子猫は、やがて私の膝の上で眠り始めた。窓の外からは静かに雨音が聞こえ続けていて、子猫の微かな寝息に重なった。
確かに上下する子猫の小さな腹に手で触れてみると、驚くほどに熱い。生命の温度が、恐る恐ると子猫に触れる私の指先から、冷えた身体に巡って染み入る様だった。不思議に湧き出る喜びの感情に、私は一人微笑んだ。
私はその雌の子猫に『エンゲル』と名付ける事にした。
エンゲルはすくすくと大きく育った。輝くような白銀の毛並みと、美しい青い目を持つエンゲルは兵舎の人気者になった。上官達は猫を飼う私の行為を見逃してくれた。人懐っこいエンゲルの存在は、終わりの見えない戦場で、兵士達の癒やしになっていた。
私は出撃命令の度に、兵舎に待機する兵士にエンゲルを預けて戦場へと向かった。
砲弾が飛び交う空の下、塹壕の中に隠れながら、私は祖国でも神でも無く、エンゲルに祈りを捧げた。必ず生き延びてお前の元へと帰ると、ライフルを強く抱き私はエンゲルに誓った。
延々と続く爆撃の為に、ろくな食料も届かない不潔な塹壕の中では、赤痢と悪性の風邪が蔓延し、同期の兵士達は次々に消えていった。悪辣な戦況の前線に、兵学校を出たばかりの年若い少年達が補給されて入ってきた。未だ幼さの残る彼らの面影は、故郷で待つ弟を思い出させた。
長らく文すらも交わしていない。祖国に残る家族達が無事でいるかどうか、私はもうそれを願えなくなっていた。長い戦場での生活で擦り切れた私の心は、愛していたはずの家族の存在すらぼんやりと希薄にしてしまっていた。
だから、年端も行かない少年達が、泣き声を押し殺し掩蔽壕で震えていても、残酷な凶弾に次々と倒れても、私はもう何も感じる事はなかった。
実の所、私はとっくに戦う理由を喪失していた。ただ、早く兵舎に戻り、エンゲルの柔らかくて温かい体を撫でたかった。愛しげに私を呼ぶ、鈴の音の様な鳴き声を聞きたかった。
長い戦闘から私が帰還すると、エンゲルが私を待つ兵舎は焼け果てていた。所在地が連合軍に漏れ、襲撃を受けたらしい。
生き残った兵隊達に聞きまわっても、エンゲルがどうなったかは分からなかった。
こんな折にも猫の事だけを捜し回り嘆き続ける私に、隊員達はついに頭がおかしくなったのかと呆れ果てた。
果たしてそうかもしれない。私はとっくに狂っていたのだ。
エンゲルが居なくなって、私は生きる意味を失ってしまった。しかし、まだ戦争は続く。私にとって何の意味もなさない戦争は終わらない。
次の戦場でもう死んでしまいたいと願った。しかし、私は狡猾に逃げ回り、残忍に殺し続けて生き延びる。
理由も見いだせないのに、何故戦い続けるのか。いよいよ心のない人形に私は変わってしまったのだろうか。そうなる事を望まれていたはずだった。祖国の為、冷徹で最強の兵器に私はなりたかった。しかし今は、若かりし日のそんな夢も目標も、全てどうでも良くなっていた。
砲撃や突撃の叫び声、悲鳴と怒号の飛び交う戦場の爆音の中、私の頭の中は空虚で静かだった。
敵兵達の突撃に機関銃を向けて撃ち、沢山殺す。突撃命令で塹壕から飛び出して沢山殺す。恐怖も何も無い。何も感じない。私には何も無くなっていた。
戦場で片腕を失った私は、国へと帰還することになった。私の役目は終わった。
このまま無様で無意味な人生を続けるつもりも無かったが、自死する前に、私はどうしても最後にもう一度エンゲルに会いたかった。
帰還の前日、私は病院を抜け出し、あの焼かれてしまった旧兵舎のあった場所へと向かった。
何故かずっと、まだエンゲルが生きているという予感があったのだ。だから、今まで私は死ぬことが出来ずに生き延びたのだろう。
罪の意識に耐えきれず、死ぬつもりだった私の人生に意味を与えてくれた小さな命に、もう一度だけ会いたい。それが罪深い私が未だ生き続ける理由なのだ。
私は兵舎跡地の裏にある森の中を彷徨い、夜闇を歩き続けて、連合軍に奪還されたはずの地区に、隠された集落を見つけた。
夜道の真ん中で、まるで光り輝く様に見える白い猫が、立ち尽くす私を見つめていた。間違いなくその猫は、エンゲルだった。
そこで、私は意識を失った。
見知らぬ寝床で目覚めた時、目の前に十歳程の幼い少女が居た。
私を看病してくれていたらしい少女は、薄汚れた白猫を膝に乗せていた。毛並みは汚れていたが、その宝石の様な青い目を見間違うはずはなかった。私は涙を流した。泣いたのは一体何年ぶりのことだろうか。
エンゲルは生きていた。エンゲルは襲撃の中兵舎から逃げ出し、森の中で彷徨っている所を少女に拾われたらしい。私は何度も少女に「
猫を抱く少女の姿が私には天使の様に見えた。この様な純粋で美しい存在を守る事が出来ていたならば、私が戦い続けた意味はあったかもしれないと、私は未だにぼんやりとする意識の中で思った。
エンゲルを失ってから、私はずっと悪夢の中を彷徨っている様だった。いや、エンゲルの存在が狂った私を何とか現実に繋ぎ止めて居たのだ。
──しかし、この悪夢は、夢と現実どちらなのだろうか。
撫でようと手を伸ばした私に、エンゲルは威嚇の声を上げた。そして、エンゲルは私の手を引っ掻いた。私は呆然とする。
猫というのは、記憶が長く続く生き物ではないらしい。
エンゲルは私を忘れてしまったのかと考え、絶望的な気持ちになる。お前までもが私を見捨ててしまったら、私は何もかも失ってしまう。本当に何もかも。
しかし、私を睨み低く唸り声を上げるエンゲルの様子をしばらく眺めているうちに、エンゲルは私の犯した深い罪を感じ取り許してくれないつもりなのだと、私は考え始めた。神がエンゲルを通じて、私を断罪しているのだと。
エンゲルに向けられた敵意は私にとって、酷く辛いものであり、同時に圧倒的な解放感を与えるものだった。
私はやっと、贖罪を得る事が許されたのだと思った。私の瞳から涙が止めどなく流れる。それはまるで魂を洗い流して行く様に私には感じられた。
私の魂の奥底にずっと燻っていた、ドス黒く穢れた罪悪感の塊が、霧が晴れる様に消えていく。
私は少女に全てを打ち明けようと決心する。しかし、そこで私の心に混乱が生じる。
私は一体何を打ち明けようとしているのだろうか。
その時、武装した軍人が部屋へと突入して来た。軍人達はあっという間に村を蹂躙し、私の目の前で少女を撃ち殺した。私は彼らに連行される。忘れかけていた祖国の言葉で彼らは話しかけて来た。「貴方の任務は終わった。もう大丈夫だ」と。
ああそうか、ここに来た時に、私は祖国の軍へと救難信号を送ったのだった。
エンゲルは死んだ少女の顔をペロペロと舐めていた。そして、何かを悟った様に顔を上げると、驚くことに私の足元へと擦り寄って来た。ゴロゴロと愛おしそうに喉を鳴らしながら。
その瞬間、私は全てを理解した。
そうだ。本当の私はずっと自分の事が大切だったのだ。このまま、裏切り者の罪人として無意味に死にたくなかった。ただ生き延びる事に都合の良い理由が欲しかった。
私は可笑しな気分になって笑った。私が狂った様に笑っていても、寡黙な軍人達は何の反応も見せない。彼等はまるで人形の様だった。
私は湧き上がる衝動に任せて、擦り寄る猫を思い切り蹴っ飛ばした。蹴られた猫はギャッと悲鳴を上げて部屋の端まで飛んだ。
フラつきながら起き上がった猫は、恨みがましく私を一度見上げると、部屋を飛び出し、真っ暗な森の奥へと一目散に走り去っていった。それが私達の最後だった。
私とエンゲルは、その後二度と出会う事は無かった。
戦争は最終的に連合国側の勝利となったが、総力戦による損害は両陣営共に莫大だった。
祖国では革命が起き、新政権が樹立した。祖国は私が諜報員として長年潜入していた国と単独講和条約を結び、終戦前に戦争から離脱した。
私の長い罪の日々は一体何の為だったのか。天使を失ってしまった私が、それを懐疑することはもう無い。
その終戦からわずか二十一年後、再び戦争が始まったが、年老いた私は今も一人孤独の中で生き続けている。
天使と別れた日 三宮優美 @sunmiya777
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます