屋上の天使

彼方

本文

一目見て、天使だと思った。

「こんなところにいたら危ないですよ」

人気の無い病院の屋上。どこまでも続く澄んだ青を背に、天使は笑って僕を見ていた。緩く下がった眉と目尻と、淡い桜色に染まった頬。そして弧を描く瑞々しい唇。柔和な笑みを構成するそのどれもが、この世の物とは思えない程に美しく、僕の目は一瞬で奪われる。緊張に縫い止められた身体は指先すら動かせず、石のように固まった僕は天使をただ見つめることしかできなかった。

「ねぇ、ここから何が見えるの? 」

覗き込んでいた顔を引っ込めた天使が僕の隣に腰掛ける。そうして問いかけてきた声はあどけない子供のようだった。

「ねぇ、私の声聞こえてる? 」

「聞こえてる、けど……特に何かが見えるって訳じゃないよ」

「そうなの? こんなに高い場所に居たから何か見てるのかなって思った。案外つまらないんだね」

ぷうっと膨らんだ頬はそれでもなお美しさを保っていた。けれど、返された言葉のあんまりな素っ気なさに、彼女は天使ではなく人間なのだと僕は漸く理解した。

「いや、君こそ何でこんなとこに居るんだよ。ここ立ち入り禁止の筈だけど」

「だって君、いつもここに上がっていくから何か凄いものでも見られるのかなって」

参った。いくら病院の奥まった場所にある階段を使うとはいえ、ここにくる時は周囲に気を付けていたつもりだったのに、まさか見られていたなんて。それも恐らくは複数回。思わず頭を抱えると、隣から鈴を転がすような笑い声が聞こえてくる。

「大丈夫、看護師さん達には秘密にしておくから。その代わり、たまにここで会って話そうよ。話し相手が居なくてつまらなかったし」

冗談じゃない、と僕は勢いよく顔を上げる。ここにいたのは他人とお喋りなんかをする為じゃないというのに。

胸に沸いた怒りのままに隣を見ると、そこには何か楽しい事を前にしたかのように笑う彼女の姿。はにかむようなその微笑みはやはり綺麗で、どうしたって反抗する気にはなれなかった。

「……わかった、いいよ」

せめてもの意趣返しにと、たっぷりと間を取ってから了承を返す。瞬間、彼女の顔に満面の笑顔が咲いた。

「ありがとう! 本当に嬉しい」

やっぱり、綺麗だな。何度目かの感想が頭を過るも、意地でも口にはしないと決めて僕は彼女から顔を反らす。秘密を暴かれた悔しさもあったが、心底嬉しそうに笑うその笑顔はこの時の僕にはあまりにも眩し過ぎた。

見上げた青に手を伸ばせば、指先から溶けていけそうな気がして。このまま溶けてしまえばいいのにと、僕はこの時願っていた。


それからというもの、僕は時折彼女と屋上で話をした。どうしてか、示し会わせた訳でもないのに、屋上へくる度に彼女も必ず現れた。肝心の話の内容はといえば、入院生活の不平不満や看護師とのやりとりといった他愛の無いことばかり。けれど、そんな他愛の無いことだけが僕らの共通点で、話は思いの外盛り上がった。 互いに治療やリハビリがある為、一日に屋上で過ごせる時間は然程長くはない。それでも、彼女と接するその僅かな時間はとても温かなもので、気づけば再会を心待ちにしている僕がいた。

「それであの看護師が凄く怒ってさ。ただトイレに行ってただけだってのに」

「何それ、タイミング悪いなあ! 」

どれ程小さな話題でも、僕が話せば話すほど彼女は笑顔をみせた。そんな彼女に釣られてか、最初は会う度に顔をこわばらせていた僕も段々と笑顔を浮かべるようになっていた。

「今日もリハビリ頑張ってたね。ちゃんと毎日やれてるじゃん。大丈夫、君の頑張りは皆が見てるよ。私もね」

温かい彼女の言葉が、優しい笑顔が、僕の支えになっていった。彼女との僅かな逢瀬を重ねる度、空っぽだった僕の中は幸せな記憶で満ちていった。

──そうして、いつしか僕は忘れていた。屋上に来るようになった理由を。

「でさ、今度の検査結果が良ければ、もしかすると退院出来るかも知れないって先生が……あ」

しまった、と僕は口を噤む。この日、僕はらしくもなく受かれていた。だから、ついそれを口に出してしまった。

どれ程話が弾んでいても、僕らは決して互いの病状に関しては話題に乗せることはなかった。正確に言えば、彼女が話すことを拒否していた。一度話をした時にやんわりとだが、けれど確かな拒絶を受けたのでそれ以来自然と病状に関しては禁句になっていたのだ。

故に、もし退院出来たらという仮定すらもこれまで話題にはならなかった。視聴したテレビ番組や流行の街や服といった事は語り合うが、いざ自分が退院したらそれらにどう接するか、といった領域にまで踏み込みはしない。僕らの世界はあくまでも病院の中で完結させていた。

その暗黙のラインを、僕はついに踏み越えてしまったのだ。

「その、多分僕はもうすぐ退院すると思う。だからここにももうすぐ来られなくなるんだ」

意を決して話したものの彼女の顔が見ていられず、いつかのように顔を背ける。

「そっか。寂しく、なるね」

聞こえてきた声へと顔を向ければ、静かに笑う彼女がいた。儚くも寂しげで、それでも美しい微笑みだった。

「あのね、私ももうすぐ退院するの」

「それ、本当? やったじゃんか! 」

「だから、君が言わなかったら私がそれを言おうと思ってた。もうすぐ、お別れだねって」

思いもよらなかった嬉しい報告に喜びが浮かぶも、続いた彼女の言葉に打ちのめされる。退院がこの時間の終わりとイコールなのだと今更ながらに気付かされた。

込み上げてくるものを溢さぬよう僕は空を見上げる。悟られていただろうが、少しでも動揺を隠そうと深呼吸を繰り返した。この時間に約束は無い。次にいつ会えるのか、それとも会えないまま退院を迎えるのかは、僕らのどちらにも分からなかった。

だから、今しかないと思った。全てを伝えるのは、今のこの時にしかないのだと。

「僕さ、本当は死のうとしてここに来てたんだ」

ごくり、と僕は生唾を飲み込む。喉が上下し、音がやけに大きく聞こえた。

「退院はできるけど、治りはしないんだよね。僕の病気。生きてる限り、付き合っていかなきゃ行けない。だから、何で僕がこんな病気にって思って、ここで飛び降りてやろうって思ってた。けど、中々踏ん切りが付かなくてさ。来ては戻ってを繰り返してたあの日、君が現れた」

見上げる空はあの日と同じく、どこまでも続く澄んだ青。手を伸ばせば、指先から溶けていくような気がした。

「天使かと思った。お迎えが来たんだって。結局は違ったし、僕もまだ生きてるけど、それは君に出会えたからだと思ってる。君がいたから、僕は前に進もうと思えるんだ。僕にとって君はやっぱり天使だった」

僕は固く手を握る。このまま空へ溶けようとは、もう思えなくなっていた。僕は空を見上げたまま、込み上げてくるものを堪え続ける。二人の間に長い沈黙が落ちた。言うべき言葉を僕はもう分かっている。けれど、この時間を終わらせたくなくて、その言葉を喉の奥へと押し込み続けた。

「私のこと、そんな風に思ってくれてたなんて知らなかった。私はやっと君の生きる力になれたんだね」

緊張を孕んだ沈黙を挟み、聞こえてきた彼女の声は意外な程静かで、そして力強かった。振り返って見た彼女の顔には笑みが浮かび、やはり美しく、そして眩しかった。

「大丈夫。君は、この世界を自分の足で歩いていける。空を見上げて、歩いていけるよ」

微笑みを湛えた口が優しく言葉を紡ぐ。あまりにも温かな声に、堪えていたものが静かに頬を伝っていった。

「ねえ、約束しようか? 」

彼女の頬を雫が伝う。僕らは二人して泣きながら笑っていた。

「次に会う時まで、君は自分の足で前に進み続けて。その先でまた、会って話をしよう」

「ああ、約束だ。必ずまた会おう。そしてまた話をしよう」

彼女の手が僕の手に触れる。遠慮がちになぞる細い指先に、僕も指を絡め、そして強く手を繋いだ。僕の手の方な温かいからだろうか、漸く触れられた彼女の手はどうしてかやけに冷たかった。


結局連絡先も交換せぬまま退院の日を迎え、僕は慣れ親しんだ自宅へと戻った。退院後の生活は食事や運動などの注意事項に添って変化させるべき習慣は山程あり、到底今まで通りとはいかない。変わり果てた日常に否応なしに放り込まれ、それでも身体を適応させようと僕は躍起になっていた。生きているだけで充分な身だ。与えられる日常にこそ感謝と幸福を抱くべきで、変化を疎むなど烏滸がましい。心臓が動き、呼吸をし、生きている。僕にはそれだけで充分幸せなのに。

そう自分自身に言い聞かせようとして、胸の奥が擦過傷のようにじりじりとした痛みを覚える事がある。痛みが顔を覗かせてくると、意識を剃らそうとして僕はよく空を見上げた。青の中に落ちていき、身体が溶けていく感覚が懐かしく、何度も繰り返すうちにそれは無意識の行動となっていった。

気付けば空を見上げるようになって暫くが経ち、差し伸べられる手や声が煩わしくなった頃、僕はまたあの青に溶けてしまいたいと思うようになっていた。


退院後初の受診日を迎えた日、若干の緊張を供に僕は病院へと向かう。暫くぶりに足を運んだ病院はやはり忙しない様子で、入院中に見ていた景色がそのまま残っているかのようだった。変化する前の日常に戻ってこられたような気がして、僕は酷い安心感を覚えた。

診察を終え、病院をぶらりと歩いていると馴染みの先生と鉢合わせた。久しぶり、生活はどうだい。そんな話に花を咲かせていると、不意に僕は彼女の事を思い出し、その後について聞いてみたくなった。この先生が担当医であったかは定かではなかったが、なんとなく聞きたくなったのである。要は唯の勘だ。上手く行けばその後の彼女の連絡先が分かるかもしれない調子の良い事ばかりを考え、彼に課せられているだろう個人情報の守秘義務など頭に無かった。

「ああ、彼女か。覚えているよ」

そして告げられた言葉に、僕の思考は停止した。

「君が退院してからすぐだったかな、彼女が亡くなったのは。もう長いこと入院しててね、外泊すら出来ないままだったよ」

亡くなった? 誰が亡くなったっていうんだ。長く入院していて、外泊すら出来なかったのは、誰だ。

──ああ、君は、本物の天使になってしまったのか。

その後どうやって歩いたのか、先生に別れの挨拶をしたのかすら靄が懸かった頭には残っていない。気が付くと、僕はどこまでも続く澄んだ青空の下にいた。

立ち入り禁止の屋上に人気は無く、立っているのは僕だけだ。周囲を見渡しても、僕の他には誰もいない。誰も。無論、彼女も。

いや、違う。これから先の何時にここを訪れようと、二度と彼女には会えないのだ。何故なら、死んでしまったのだから。

僕は茫然と空を見上げる。とりとめの無い思考の断片ばかりが、頭の中で浮きあがり、そして沈んでいく。

どうして、彼女は死んでしまったのか。退院すると言って笑っていた彼女が、何故。

「……違う」

過ったのは儚くも寂しげな笑みと、彼女の言葉。思考の断片が唐突に一つに繋がる。彼女は退院するとは言っていたが、病気が治るとは一言も言っていなかった。

まさか、最初から彼女は自分の結末を知っていたのか。その上で、退院を喜ぶ僕を気遣って、嘘を。

その仮定は、僕の胸を烈火のごとく焼き尽くした。疼く痛みに膝を付き、胸を押さえて僕は喘ぐ。一目見て、天使だと思った。そして、姿だけでなく心までも美しい人だった。そんな彼女に、僕はなんて残酷な嘘を吐かせてしまったのか。

口から懺悔の言葉が溢れ、無様に地面へ落ちていく。どれ程言葉を紡ごうとも聞く人はもうこの世にいない。それでも言わずにはいられなかった。一体何故、どうしてと。

神様とやらはあまりに酷い。どうして僕ではなく、彼女を連れていったのか。どうして僕と彼女を出会わせたのか。

(「今日もリハビリ頑張ってたね。ちゃんと毎日やれてるじゃん。大丈夫、君の頑張りは皆が見てるよ。私もね」)

(「私のこと、そんな風に思ってくれてたなんて知らなかった。私はやっと君の生きる力になれたんだね」)

どうして彼女はあんなにも優しい言葉をくれたのだろう。こんなどうしようもない僕に。

(「だって君、いつもここに上がっていくから何か凄いものでも見られるのかなって」)

脳裏を過る幾つもの彼女の言葉。その中の一つに小骨が喉に刺さったかのような引っ掛かりを覚えた。確証はない。だが、そこに求めている答えがあると確信していた。もう二度と逃すまいと必死に思考を手繰り寄せる。何だ、僕は何に引っ掛かった。

(「だって君、”いつも”ここに上がっていくから」)

きっと、彼女は最初から気づいていたのだ。僕が死のうとしていたことに。けれど、それは恐らく何度も屋上へ行く僕の姿だけが理由ではない。

彼女は何度も屋上に行く僕を見ていた。立ち入り禁止の、人気の無い屋上に行く僕の姿を。何度も目撃出来る程に、彼女もまた屋上へ向かおうとしていたのだろう。それは一体、何故か。

──彼女も、僕と同じだったのだろうか。 あの時彼女も、死のうとしていた?

たどり着いた結論はどこまでも仮定でしかなく、今となってはもう確かめる術もない。そうであって欲しいとも思っていない。寧ろ僕の勘違いであれば良いと、今はただ願うしかない。

いつの間にか流れていた涙を拭い、地面を踏み締め立ち上がる。見上げた空はやはり青く、このまま手を伸ばせば空の中へと飛び立ってそのまま溶けていけそうだ。僕は見上げたまま一歩、そして一歩と足を進めた。幾らか進んだ辺りで足を止め、空へ伸ばそうと手を動かす。

けれど少し持ち上げたところで躊躇うように手は止まり、暫しの逡巡の後、徐に下ろして拳を強く握った。上げていた顔も下ろして前を向くと、錆びた高いフェンスの向こうに、どこまでも続く街並みが見えた。変わってしまった日常がある、僕の生きていく世界だ。

今でも青に溶けてしまいたいと思っている。けれど、今はもう出来そうになかった。彼女との約束を思い出した今の僕には。

胸に疼く多くの痛みを抱えて、僕はあの日常をこれからも歩き続けていく。時折空を見上げて、彼女を思い出しながら。

そうして歩き続けて辿り着いたその先で、彼女はきっと待っていてくれるから。

僕は空を見上げた。どこまでも続く澄んだ青と、その向こうにいる彼女を。今の僕に出来る、満面の笑顔で。


僕は生きる。一人で立って、歩き続ける。この空の下を。

いつか彼女に会うその日まで。

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