【4千】うんこを流す【KAC20227】

平蕾知初雪

【KAC2022】お題:出会いと別れ


「ケンちゃん、またうんこ? 毎日うんこ出るね」

「一日一回なら普通だろ。あ、掃除道具かなんか使う?」

 床に手を付く形でトイレの便座をまじまじと覗き込んでいた俺は、備品棚を塞いでいることに気づいて立ち上がった。

「大丈夫」

 ジュンヒはおおらかに笑んで首を振る。

 このシェアハウスにはワンフロア毎にトイレがあり、男子用トイレでも必ず2つ以上の個室がある。俺が毎日のように膝を折ってじっくりうんこを観察していたとして、さほど迷惑にはならない。


「新しい人来たんだね。いま下で初めて見た。日系のアメリカ人だって。もう会った?」

 いや、と言いながら、俺は再びうんこを観察すべくしゃがんだ。


「ねえ、わたしもうんこ見ていい?」

 唐突なジュンヒの申し出に、俺はやや面食らう。

「えぇ? 別にいいけど、物好きだなぁ」

「やった。ケンちゃんも人にうんこ見られるのは嫌かなと思って。前から気になってたけど言えなかった」


 俺は少し身体を右にずらした。空いたスペースにジュンヒが身体をねじ込んでしゃがむ。韓国生まれの彼は俺と同じ26歳のはずだが、その横顔は俺よりも若々しく見える。学生だからだろうか。


 俺も再び洋式便座の中に佇むうんこに視線を向けた。

 ジュンヒの言う通り、普通なら自分のうんこを他人に見られるのはまあ厭なものだろう。だが彼に限ってはそうでもない。1年近くを同じ屋根の下で過ごしたルームメイトであるから、というより、好奇心旺盛な幼子にねだられた気分で、なんとなく承諾してしまった。


「うん、普通だね」

「俺は他人のうんこって見たことないけど、これって普通かな」

「あ、そういえばそうだなぁ。わたしも自分以外のうんこと出会うのは、このうんこが初めて」

 小学校のトイレなどで流し忘れたうんこを見たことはあったが、細部までは覚えていない。そもそも観察する前に流していたと思う。あれは好奇心を刺激するよりも、一刻も早く無かったことにしたくなる類のものだ。


「ときどきすごく大きくて長いうんこ出たとき、ケータイで写真撮りたくならない?」

「わからないでもないかな」


 傍から見たら、この姿勢での井戸端会議はさぞ奇妙な光景だろう。などと思った瞬間、まるで見計らったようにトイレの扉が開いた。思わず振り返ると、小柄な若い男性がきょとんとした顔で立っている。

「あ、彼がさっき言ってた人ね。名前はヴィクさん」

「ああ、新しい人?」

 何気ないふうを装い、俺とジュンヒはどちらともなく立ち上がる。俺もジュンヒも見栄を張るタイプではないが、今ばかりは常識的で無害な男であるとアピールしたかった。訪れたばかりの異国のシェアハウスで早速奇人と変人に出くわすなんて、彼があまりにも不憫だ。


「ヴィクです。よろしくおねがいします」

「俺は北斗です。でもみんなケンて呼ぶから、呼びやすいほうでいいですよ」

 言いながらさりげなくうんこを流し、俺とジュンヒはそそくさとトイレを出た。ヴィクさんは用があってトイレの扉を開けたのだから、さすがに気を遣うシーンだろう。

 ジュンヒがトイレ脇の扉を開けてバルコニーへ出たので、俺もそれに続いた。ここは一応喫煙所だが、今は無人だ。


「わぁ、暗いなぁ。いま4時くらい? 冬至っていつだっけ」

「知らないけど、よくそんな言葉知ってるなぁ。大学で教わるの?」

「珍しい言葉は漫画で覚えてるかもね」

「へえ」

 寒さのせいで無駄話もはかどらない。そのままなんとなく、二人で外を眺めた。




 田舎から東京の大学へ進学し、俺はそのまま都内の会社に就職した。父は自営で料理屋をしていたが、店を継げと言われたことは一度もない。むしろ都会で働けるならそうしたほうがいいという考えのようだった。


 就職して1年経った頃、俺は大腸がんを患った。

 大腸の手術後、膵臓に転移したがんはStage3まで進行したらしい。


 死期を悟って、俺は絶望した。

 治療に専念できるようにとの上司の計らいで、会社に籍を置いたまま無期限休暇という措置を取られることになったが、それも丁重に辞退して退職した。残り少ない人生を謳歌してやると、自暴自棄に意気込んでいたのだ。

 それからは不良ぶってパチンコをしては負け、キャバクラに行っては逆に気を遣って帰ってきたりと、あまり楽しいとは言えない日々を過ごした。


 しかし結果的に、俺は完治した。めでたく完治してしまった。もちろん喜ぶべきことだが、会社を辞めたことは深く後悔した。


 俺の場合、これまでの人生で困難に遭遇するということがほとんどなかった。人生経験が足りなかったとも言える。

 だからがんを宣告された当時の俺は、先のことを見据えるということがまったくできなかったのだ。いま振り返るとそれがとてつもなく恥ずかしい。案外、高齢の伯父のほうが俺と似た境遇に陥っても先走らないもので、治療が長期に渡る場合の医療費を計算したりしていた。


 がんから立ち直って間もなく、激しい腹痛と下痢が数日続いた。またかと思いながら検査したところ、今度はクローン病だという。

 一応、国が指定する難病であるらしい。だが、病理で初めてそれが判明したほど自覚症状は乏しかった。

 消化器科で渡されたリーフレットには、口内から胃腸、肛門にかけて炎症を起こす病と書いてある。言われてみれば思い当たらないでもないが、何度か腹痛に伴う嘔吐があったから、胃液で口の中が荒れてヒリつくのだと思っていた。腹痛と下痢以外はその程度だ。

 そんな軽度の症状であったから、やはりすぐに腹の調子も治まり、現在まで2年近く寛解状態が続いている。

 といっても持病は持病なわけで、無職のままリスクだけが増えたわけだ。俺は頭を抱えたが、父はやはり帰って来るなと言った。

 つっぱねられたのではない。がん再発の懸念にクローン病まで加わっては、設備の整った病院などろくにない田舎よりも都会にいたほうが便利だろう、とのことだ。

 そもそも帰ったところで、田舎にはろくに職もない。


 ひとまずは食べるために、俺はアルバイトを始めた。平日は通院や検査が入るため、夕方以降や土日に働ける飲食店を選んだ。

 学生時代から借りていたアパートは去年解約し、家財は可能な限り現金に換え、身軽になって板橋のシェアハウスに居を移した。

 単純に家賃が安かったからというのもあるが、以前のアパートは駅から遠いのがネックだった。昔は自転車があればいくら駅から離れていても構わなかったが、今は自力で病院へ行けないときのことを想像するだけで怖い。


「うんこの血ってそんなに見つけにくいの?」

 ハウスに来たばかりの頃、ジュンヒに尋ねられたことがある。

「わかりにくい血便ていうのは、トマトの皮みたいで……血の混じったうんこが普通のうんこに覆われてることがあるんだよ。色も綺麗な赤じゃないから、便器が狭かったりトイレが暗いとよく見えない。前住んでたアパートのトイレはそれが嫌だったな」


 俺が日々うんこを観察することを、このハウスの住人はもはや気にも留めない。こちらの勝手で申し訳ないが、ヴィクさんにもいずれは慣れてもらう。



 夜、飲み物を取りに1階の共有スペースに向かうと、ジュンヒとヴィクさんがリビングテーブルに向かい合って座っていた。

「ケンちゃん、ヴィクさんの部屋ドミトリーなんだって」

 ジュンヒを含む多くのメイトは個室を借りているが、俺はずっと格安のドミトリー室を利用している。大部屋はホステルのように数週間利用して出て行く者のほうが多い。長期の住人は俺だけだったから、なんとなく自分専用の部屋のような気がしていた。

 それも気楽でいいのだが、慣れるとむしろその状態が退屈に思えてくるもので、俺は素直に正真正銘のルームメイトを歓迎した。


「でもわたしは少しだけ。いち週間です」

 ヴィクさんはたどたどしい日本語で、来週個室がひとつ空くから、ドミトリーはそれまでの仮住まいだと説明した。

 俺は首を傾げる。

「誰か出ていくのかな。ジュンヒ、聞いてる?」

 俺が問うと、ジュンヒは鷹揚に笑いながらひらひらと手を振った。

「わたしだよ~!」


 俺は思わず、間抜けのように固まってしまった。

「え? 大学はまあ、冬休みだろうけど、どうすんの。バイトとか……」

「もうわたし、休学して韓国に帰るの。あんまり遅くなると結婚できなくなるから、お姉さんが早く兵役終わらせて! ってヒステリーで」

「だからそれ、笑いごとなのかよくわかんないんだよなぁ」


 このハウスに韓国人は多い。彼らは母国語で話すから、何を盛り上がってるのか俺にはわからないが、後から日本語で「軍隊にいたときの話でさ」と聞かされると、笑ってもいいのかと悩む。

 ただ、ジュンヒが未だ兵役へ行っていないことと、いつかは必ず徴兵されることは知っていた。


 ジュンヒが日本を発つ日、俺たちは最後に池袋で食事をすることにした。

 うどんセットに付いていた海老天を齧りながら、彼は何でもない風に言う。

「大変だけど、わたしの国はもうずっと戦争中だから仕方ないよね。韓国の男性には当たり前のことだし」


 ジュンヒとはそれ以来会っていない。まだ軍に所属しているのかも知らない。


 あのときから俺の中でほんの少し、戦争が他人事ではなくなった気がする。

 もしかすると、俺が生まれてから今日まで一日の休みもなく、世界のどこかに戦争や紛争は在るのかもしれなかった。ただ俺が知らないだけなのだ、いつも。


 シェアハウスを出た今でも、トイレでうんこを見ていると、ジュンヒと話したことをよく思い出す。

 どれほど悲惨なニュースが流れてきても、俺は戦争反対というフレーズは酷く無力だと感じるようになってしまった。

 反対もなにも、それは今も彼らの故郷で起こっているじゃないか。それを一体どうしろと言うのか、どうしても正しい道がわからないのだけれど。

 俺は未だに、先のことを考えるのが下手だと思う。









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【4千】うんこを流す【KAC20227】 平蕾知初雪 @tsulalakilikili

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