第一章 痛みを知らない子供

1.1.古い記憶


 僕が覚えている一番古い記憶は、お母さんが泣いているところだった。

 どうして泣いていたのかは覚えていない。

 ただ、僕が何か聞いて泣かせてしまった、ということはしっかり覚えていた。


 あれは何を聞いたんだっけ。

 思い出そうとしても、思い出せない。

 今更聞く気にもなれないし、こういうのはそっとしておくのがいいってことくらい、僕でも知っていた。


 ……定期的に、このことを思い出す。

 忘れてはいけない、と言われているような気がしてならなかった。

 だが何を聞いたのか、何を思ったのか……僕は一切覚えていない。

 でも頭の片隅に……ずーっとこのことが残っているだけで……。


 他のことを考えよう。

 昔の古い記憶を辿っていけば、何か思い出せるかもしれない。

 自分の頭をコンコンッと叩いて記憶の引き出しから過去の出来事を思い出す。


 ……あれは僕が五歳の時だったかな? 

 お母さんと一緒に山へ遊びに行った時、架け橋を渡ったことがあった。

 そこから見える景色はとても綺麗で、小さかった僕でも感動を覚えた記憶がある。

 だからはしゃぎすぎてしまったんだよね……。


 架け橋の縄で作られた手すりは子供一人であれば容易に通り抜けられる。

 それで足を踏み外して、橋から落ちたんだ。

 比較的新しく作られた架け橋だったんだけど、縄で作られた手すりは大人用。

 子供が通ることを想定して作られてなかったんだよね。


 で、僕は谷底に真っ逆さまに落ちていった。

 お母さんの声が遠くなっていったけど、怖さは不思議と感じなかった。

 それがそもそも可笑しな話だったのかもしれないけど、浮遊感を楽しんでいた……んだよね、あの時。

 それで頭から地面に激突。

 何度か跳ねまわったけど、すぐにむくりと立ち上がってけらけら笑ったなぁ……。

 浮遊感と、地面に激突して跳ねまわった視界の回り様。

 あれが当時は本当に面白かった。


 そのあとお母さんがすぐに迎えに来てくれたんだよね。

 血相を変えていたけど、当時の僕は『もう一回!』って言ってお母さんを困らせた……記憶がある。

 普通、あの高さから人が落ちたら死んじゃうんだもんね。


 それを理解したのは、その事件から二日後だった。

 同じことがしたくなって、今度はお母さんに内緒で森の中へと入ったんだ。

 で……まぁ子供っていうのは時々容赦ない時があるでしょ?

 無邪気っていうか……命を何とも思っていないあの感じ。

 それで僕は一緒にあの浮遊感を楽しもうと思って、近くにいたリスを捕まえたんだ。


 そこからは……まぁ説明しなくても分かると思う。

 架け橋に辿り着いた僕は、リスを放り投げた。

 その次に自分も飛び、また先日と同じ浮遊感を楽しんでけらけら笑ってたかな。

 谷底について何度か跳ねまわった後、リスはどうなったか気になって探してみた。


 リスは臓物が飛び出て、肉が地面にへばりつき、体のあちこちがひじゃげて赤い血液が散らばっていた。


「……?」


 あの時は……リスが死んだって理解できなかったなぁ……。

 でも見た目が気持ち悪くなって、動かなくなったリスを見続けるのは嫌だったからそのまま逃げたんだっけ。

 さすがに怖かったなぁ。


 でもあのお陰で、自分と動物の体質は違うって理解した。

 他にも色々あったけど、まずはそれを思い出していこう。


 僕が小さかった頃のお話。

 そして、今に至るまでの……振り返り。


 頭の中で記憶を探していた彼は、目の前にくべてある焚火に薪を追加した。

 夜は寒く、とても冷えている。

 しかしその感覚すら感じ取りにくい彼は、隣で寝ている人物のために火を起こし続けた。


 ここは、故郷からずいぶん離れた山の中だ。

 獣が多く、魔物も多い危険地帯ではあるが、だからこそ身を隠すのにうってつけだった。


 手に持ったナイフを、自分の腕に思いっきり突き立てる。

 だが刃は通らず、逆に切っ先が欠けてしまった。

 掠り傷一つ負っていない手を見て、小さく嘆息する。

 ナイフをその辺に投げ捨て、また焚火を見ながら昔のことを思い出しはじめた。


「……どうしてこうなっちゃったんだろう……」


 まずはこうなってしまったことについて、思い出していきたい。

 それを語るには、小さい頃からの記憶を呼び起こさなければならなかった。

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