2
日付が変わったらしい。
玄関ホールに置いてある時計の鐘の音が、耳に届いた。
「妹は気付いたのです。極上のプリンに、カボチャが使われていることを。だから、姉に譲ったのです。姉は別にカボチャに忌避感はないのですが、妹はカボチャが大っ嫌いなのでした。美味しそうに食べる姉の横で、妹は思います。今度買ってくる時も、極上のプリンは一つだけでいい、と。──ご静聴ありがとうございました、お嬢様」
横に視線を向ければ、彼女の目蓋は閉じて、小さく寝息を立てていた。
私の身体に回していた腕も、今は私から離れ、彼女の顔の傍で綺麗に並んでいる。
「……おやすみなさい」
呟き、ベッドから静かに出た。
辺りを見回して、いいものを見つけると、そこに近付いて手に取る。
彼女の机の上に腰掛ける、大きめの白熊のぬいぐるみ。
首にくすんだ赤のスカーフを巻いた、珍しい赤い目のその子を、お嬢様はストロベリーと名付けている。
『オルディと同じ目をしてるから、髪の代わりに巻いてみたの。これでオルディとお揃いね。可愛いでしょ?』
えぇ、可愛い。
彼女を起こさないように気を付けながら、ストロベリーを横に添える。
そしたら勢い良くストロベリーに抱きついたものだから、起きたのかと一瞬焦ったけれど、「オルディ……」と呟いたっきり何の反応もないから、吐息を溢して、やっと私は部屋から出る。
今宵は、雨。
一旦自分の部屋に戻って、外套を取ってこないと。
◆◆◆
ブレイクスミスの屋敷と、近くの町までは、少し距離がある。
屋敷に住む者が外出する時、それに外から来る客達は、必ず馬車で移動する。
普通の人間であれば、徒歩を選ぶと時間や労力が掛かるし、ブレイクスミスはもちろんとして、来客のほとんどは貴族だから。
……彼女ならきっと、戯れに徒歩を選んだとしても、途中で私にだっこを所望してくるんでしょうね。
そんな取り留めもないことを歩いている間考えて、あっという間に町に着く。
建物から漏れる灯りは少ない。
この町の住人達の朝は早いから、寝るのも早い。まぁ、遅くまで起きてる住人もいるにはいるだろうけれど。
──朝まで起きていられるのは、私と、これから会う彼だけだ。
疲れは特にないので、そのまま目的地に向かう。
静かに降る雨は弱く、私の靴の音を消しきることはできない。
起こしてしまったらごめんなさい、なんて心にもない言葉を呟いて。
辿り着いたのは、小さな本屋。
店の外の窓からは、真っ暗闇が広がっているように見えるけれど、小さな灯りが一つだけ目に入る。
彼だ。
ノックの一つもせずにドアノブに手を掛けて、そのまま開ける。この時間、彼は鍵を掛けていない。
中はやっぱり暗かった。それでも、目視できないほどじゃないし、どこに何があるかはもう覚えてしまっている。
店内に入りながら外套も脱いでいき、水滴まで中に入らないよう気を付けながら、一度外に向けて外套を
昼に来店したことがあるお嬢様曰く、コート掛けなんて普段はここに設置されていないらしい。
これは雨の日の夜、誰もが寝静まった夜にだけ、設置しているのだと。
……彼にも訊いてみたら、そう言っていた。
「早く閉めてくれないかな。寒い」
若い男の声が、耳に届く。
「失礼」
一言そう言って、ドアを閉めるとすぐ──狭い店内を駆けて声の主の元に向かう。
礼儀なんて今は知らない。棚と棚の間に、障害物はないのだし。
彼が、片付けてくれているから。
「──シリウス」
丸椅子に腰掛ける彼の後頭部が見えた瞬間、その名前を呼んだ。
「ミス・オールド」
私の名前を呼ばれた時には、彼のすぐ背後にいたものだから、挨拶の代わりにその後頭部を抱き締める。
「今夜も熱烈だね、ミス・オールド」
「何日雨が降っていなかったと? 東洋のおまじないを試そうか考えていたのよ?」
「それってどんなの?」
「……生首を布にくるんで、窓際に逆さに吊るすのですって。お嬢様の教育的によろしくないから、なかなか試せなくって」
「それは試さない方がいいね、教育的に」
ははは、と笑う彼の後頭部を離し、無理矢理私の方へ身体ごと向けさせる。
「……シリウス」
灯りは、彼の傍にある机の上に置かれた蝋燭のみ。
それでもはっきりと見える、私のこの目でなら。
私は人間ではない。
ほとんどの人間に、化け物と蔑まれる、卑しき身。
それでも、こんな私を愛してくれる人がいることを、私は知っている。
たとえば、彼だ。
夜闇に溶けてしまいそうな短い黒髪に指を絡めて、その紫色の瞳を間近で見るべく、顔を寄せる。
「シリウス、シリウス。──シリウスっ」
唇が触れそうな距離で止まって、何度も何度も名前を呼べば、彼の頬が仄かに赤く染まる。
「……ミス・オールド」
私の名前を口にすると、そっと、首を傾ける。
拒否じゃない、むしろこれは……。
視線を彼の首筋に向ける。
何にも覆われていない首には、無数の傷跡があって。
それらは全部、私が彼に付けたもの。
私が彼を愛した証。
「好きなだけどうぞ」
夜は、
「それなら、遠慮なく」
逢瀬は、始まったばかり。
まずはお夜食をと──その首筋に牙を突き立てた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます