秒速一,一二〇,〇〇〇センチメートル

登美川ステファニイ

秒速一,一二〇,〇〇〇センチメートル

 鼓動が聞こえた。

 あなたの命の音が聞こえた。

 星を隔てても、炎に包まれても、あなたの命は私の中で輝いている。その音の波紋は私の心を揺らし、いつまでも響き続けていた。


 彼との出会いは、5歳の頃まで遡る。

 木星帝国からの攻撃から逃れるため、私は田舎町に疎開した。その初日に私は迷子になり、公園で途方に暮れて泣いていたのだ。やがて泣き疲れた頃、一人の少年が私に声をかけてきたのだ。

「どうだ、ここならよく見えるだろう!」

 連れていかれたのは高台で、自分の家をここで探せという事だった。だが私は迷子になったことも忘れ、その景色に魅入られていた。海岸線が伸び、家が立ち並ぶ。岬の先端には宇宙空港があり、ちょうど火星への避難シャトルが打ち上げられていた。

 空気が震え、白煙の尾を引きながら空に上る。どこまでも高く、見えなくなるまで。

「いつか俺もパイロットになるんだ! 宇宙に行くんだぜ!」

 そういった彼の顔は今でも覚えている。夢と希望にあふれた幼い顔。恐らく私はその時すでに、恋に落ちていたのだ。


「ツカオはすごいね。私はパイロットになれなかった」

「お前だってすごいじゃねえか。外交官だろ? 木星と言葉で戦うんだ。戦争を止められるかもしれない」

 夕日に照らされながら、私たちは防波堤に座っていた。二人の間には隙間があり、手を少し伸ばせば触れ合うような距離だった。でも触れ合うことはなく、私たちはその距離感のまま話し続けた。

「知ってる? 秒速一,一二〇,〇〇〇センチメートル」

「何? 何の速度だ?」

「第二宇宙速度。この地球の引力を振り切る速度。パイロットなら覚えてないとだめじゃない」

「いいんだよ、俺は戦闘機のパイロットなんだから」

「何言ってるのよ、次世代機のスターホークは単体での大気圏離脱が可能なのよ。そのくらい知ってないと」

「俺は宇宙にはいかない。この地球を守るよ……お前と一緒さ」

 外交官になれば火星が主な勤務地で、ツカオともほとんど会えなくなるだろう。私は地球に残る気はなかった。そしてツカオに一緒に来て欲しいとも言えなかった。

「ペンダント、無くさないでね?」

 私は首から提げたペンダントをシャツの中から出した。薄く緑に光る量子蛍の発光物質。量子もつれの対となるペンダントはツカオが持っていた。

「分かってるよ」

 そう言いながら、ツカオはペンダントを着けていなかった。付けていれば、彼と私の心臓の鼓動が重なる時、互いのペンダントの量子が心臓のように拍動する。地球と火星の距離であっても。

「また会いましょう、平和になった世界で」

「ああ、そうだな」

 世界は平和になどならなかった。二か月後には火星にまで攻撃の手が及び、地球への攻撃は激化した。

 私はペンダントが鳴らない事を心配しながら、いつしか付けなくなり、そしてツカオの事も思い出さないようになっていた。


 久しぶりにツカオの事を思い出したのは、地球から火星に帰るために七年ぶりにタリアを訪れたからだ。私が子供の頃に疎開した町だ。

 美しい海。夕焼け。澄み渡った空。その風景は同じだったが、市街地は遊星爆弾によりほぼ壊滅していた。だがそのおかげで木星帝国の攻撃の標的から外れ、火星行きのシャトルを打ち上げる事が出来る。

 乗っているのは私たち外交官だけではない。八十名の火星からの移民も一緒だ。彼らは地球に出稼ぎに来ていたが、戦争によって難民になっていたのだ。

 地球人より難民を優先して救う事は、目に見えないものとの戦いだった。差別、恐怖、愛、悲しみ、利己と利他。様々な感情の渦巻く戦い。力を持たない人々のために、文官は剣ではなくペンと言葉で戦う。私はその道を選んだ。

「まもなく打ち上げ開始。現在シャトルに木星帝国軍の攻撃機が接近中です。Bゾーンにて対応中。本艦はこのまま発進シークエンスに入ります」

 ゾーンはA、B、C、Dに分かれる。Aは千キロ未満の距離である事を意味し、Bは七百、Cは四百、Dは二百でDangerを意味する。Bゾーンならひとまずは大丈夫だろう。

 しかし、死の覚悟はとうにしている。戦場でない場所など、もはやどこにも存在しないのだから。


「クーガーリーダーより各機へ。所属不明機を木星帝国軍所属機と断定する。三機で編隊を組んで各自攻撃に移れ」

「了解」

 クーガー2のツカオはレーダーを確認しながらドッグファイトスイッチを入れ速度を上げた。クーガー3、4が後方の左右に分かれてついてくるのを確認しながら、機首を上げる。

 敵機は六機編隊。いつものように無人機だろう。こちらは九機と数的には勝っているが、無人化で可能となる高速の機動は脅威だった。

 HUDにミサイル照準波の警告。約二〇〇キロの距離、中距離ミサイルだ。

 迎撃が必要だが、リンク情報でクーガー3のMR―AAMのREADY情報が来る。HUDで視線で応答、承諾。ただちにクーガー3から迎撃の中距離空対空ミサイル四基が発射される。

 二十秒でミサイルは着弾。その頃には彼我の距離は五十キロにまで接近。

 近接戦闘を用意。ツカオは加速した。


 シャトルは発進したが、警告は依然として続き、Cゾーン、四百キロ未満になっていた。敵が近づいている。

 撃墜される。その恐怖が脳裏をかすめる。

 それは死の恐怖だけではない。これはこの船だけの問題ではなく、難民という大きな問題なのだ。この船は希望だ。この船に乗った八十人を嚆矢に、今まで目を背けられていた問題を解決しなければならない。絶対に撃墜されてはいけないのだ。

 だが無情にも警戒レベルはDゾーンに引き上げられる。敵が近づいている。間違いなく、このシャトルが標的だろう。

 心臓が早鐘を打つ。私は胸のペンダントを押さえた。そして気付いた。量子が鼓動している。私の鼓動に合わせて。

「ツカオ……まさか?!」

 私は窓の外を見る。青い空と雲、そして遠くなった街が見える。戦闘機は見えないが、まさか、この空域の防衛パイロットはあなたなの?

 高鳴る胸の鼓動と量子の信号を、私はフライトスーツの上から強く握りしめた。


 クーガーチームは六機が撃墜された。そして敵機は二基残った。そのうちの一機をクーガー1、9が追っている。そして残るもう一機はツカオが追っていた。

 敵は機関銃で機体を損傷しているが、高速巡行にはあまり支障が出ていないらしい。シャトルに向かって一直線に進んでいく。

 ツカオはそれを追いかけ、彼我の距離が詰まっていく。ミサイルの射程に入った。SR―AAM、FOX3。最後の一発だ。

 十五秒後に敵機は破壊された。向こうの残る一機も片付いていたようだった。終わった……そう思ったが、無線が入る。

「超高高度から一機接近している。ブースターで上がっていたようだ。至急迎撃しろ! シャトルの針路に入ってくるぞ!」

「クーガー2了解、迎撃に向かう」

 燃料は残り少なかったが、片道分はある。やるしかない。そして俺は気づいた。高Gで疲労し息が切れているが、胸のペンダントが同じように鼓動していた。量子の鼓動。

「クホナ……お前なのか?」

 ツカオはスロットルを最大に上げ加速する。胸にめり込むペンダントの鼓動を感じながら。


「現在、本艦の針路上に所属不明機が接近中。防衛隊が対応しているため問題はありませんが、衝撃に備えてください」

 Dゾーンの警告はまだ消えていなかった。そして胸に感じるペンダントの鼓動は強くなる。間違いない。ツカオがいる……それも戦っているのだ。

 窓からシャトルの進行方向に戦闘機の影が見えた。もうすぐそこだ。このシャトルが落とされてしまう。

 ツカオ、助けて。

 クホナはペンダントに手を重ね、祈っていた。


 敵機を捉えた。このまま上昇する。敵もミサイルは搭載していないのが救いだった。これならやれるはずだ。

 一瞬、隣を飛んでいるシャトルの窓から人が見えた。

 クホナ?!

 一瞬の事だったが間違いない。クホナが乗っている。胸が痛い。お前の鼓動を感じる。俺はここにいる。お前もそこにいたのか。

 スターホークはシャトルを追い抜いて上に出る。俺は敵機に照準を合わせ、引き金を引いた。


 戦闘機はシャトルを追い抜き、そして攻撃を行ったようだ。爆発する敵機が見えた。しかしスターホークも被弾し、機体から火を噴いていた。

 ツカオ?! あなたなの?


 機体はもうだめだ。それに、俺も。腹に……穴が開いた。こうなることは分かっていた。しかし、シャトルは守れた。

 ペンダントの鼓動が胸を打つ。クホナ、俺は……やれたのか? お前たちの希望を守れたのか?

 ツカオは残り少ない燃料で更に加速していった。


 シャトルが上昇し第二宇宙速度で宇宙に上がっていく。戦闘機も、まるで一緒に宇宙に上がるかのように飛んでいた。しかし加速の最中にも機体部品が吹き飛んでいく。

 そしてクホナはツカオの言葉を思い出した。忘れたと思っていた、あの言葉を。


 いつか俺もパイロットになるんだ! 宇宙に行くんだぜ!

 子供の頃の夢だ。夢がかなった、一瞬でも。

 クホナ……お前はそのまま飛んでいけ。お前の……人類の希望を乗せて。俺はお前を守れた。それだけで良かったんだ……。


 戦闘機が爆散する。パイロットは脱出していなかった。生存は絶望的だろう。そしてペンダントの鼓動も止まった。

「ツカオ……」

 クホナは燃え尽き遠くなっていく炎を見つめ、動くことの無くなったペンダントを握りしめていた。


 シャトルは上昇して宇宙へと飛び出していく。向かう先の火星にも平穏はない。人のいる場所は、全て戦場だった。

 それでも人は希望と共に生きていく。苦しみの多い時代だからこそ、手を差し伸べることを忘れなかった。

 今日も戦闘機乗りが死んだ。明日も死ぬだろう。守るべき何かのために、命を懸けて。

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