第29話魔界の勉強

「遥っち、そこ、間違ってる。そこは、謙譲語を使うのが正しいんよー」

「あっ、本当だ。じゃあ、こっちは……」

「そっちは正解! 飲み込み早いねぇー! 感心感心!」

 執務室の隅っこに置かれた机の上で、遥は魔界の言葉の練習をしていた。教えているのはボリーだ。家庭教師の経験があるボリーの授業は分かりやすく、面白い。遥はすっかりボリーの授業が楽しみで仕方が無くなっていた。

「……」

 そんな遥の様子を、モーヴは面白く無さそうに横目で見る。口では決して言わないが、ボリーに対して猛烈なジェラシーを感じている。鋭い視線を感じながらも、ボリーはそれを気にすることなく、遥に魔界語を教えていた。

「遥っちは真面目だなぁ。モーヴっちと、ちゅーすればなんの問題無くこっちの言葉が理解出来るっしょ? それなのに、自分から勉強するなんて……なんて良い子なのかしら! 俺っち涙が出ちゃう!」

 ボリーがわざとらしい泣き真似をしたその時、執務室のドアがノックされた。モーヴの代わりにボリーが「どうぞ」と言う。

 ドアを開けて入って来たのは、髪から身に着けているものまで真っ白な男性だった。そう、彼は――。

「シロさん。こんにちは」

「こんにちは、遥様」

 動きやすいということで、シロもまたクロと同じように鳥の姿では無く、人の姿で生活する時間が多いようだ。シロはからからと、ケーキや紅茶が乗ったカートを押して執務室の中に入って来た。

「そろそろ休憩をなさって下さい。魔王様、貴方様の分もございますので」

「ああ……君は実に出来る使い魔だね! どこかの黒い奴とは大違いだ!」

 モーヴはペンを置き、遥のもとに向かい、背後から遥を抱きしめた。

「遥ぁ……お仕事、終わらないよう……疲れたよ……癒して欲しいな?」

「ふふ。一緒に紅茶をいただきましょう? このお菓子は……ティラミスですか?」

 遥の問いに、シロがこくりと頷く。

「さようでございます。人間界でブームだと聞いたので作らせました」

「ブームか……そうですね、ちょっと前に流行っていましたね」

「ティラミスって何だい? 初めて聞いたよ」

「えっと……チーズとかクリームとかが層になっているケーキ……みたいなお菓子です」

「へぇ……」

「俺っち、食べたことがあるぜっ!」

 ボリーが自慢気に言った。

「コンビニスイーツな! あれ、超美味い!」

「ああ、確かに良く売れていましたね」

 コンビニでアルバイトをしていた遥は、懐かしい記憶をたどる。

 ――バイトを辞めて、この世界に来て、もう三か月か……。

 遥はそっと、身体に回されたモーヴの手に触れた。皆、元気かな。そんな思いが頭をよぎる。皆に祝福されてこの世界に来ることが出来た自分は、とても幸せ者だと思う。遥は笑みを浮かべて目を閉じた。

 そんな遥に、ボリーが「まさか……」と声を震わせながら言う。

「遥っち、まさか、ホームシック的な感じ……?」

「えっ?」

「俺っちが、人間界の話をしたから……帰りたくなっちゃった……?」

「いえ、そんなことは……」

 遥の言葉を最後まで聞かず、モーヴは悲鳴に近い声を上げる。

「駄目! 駄目だよ遥! どこにも行かせない! 帰らせない! ずっと傍に居てよ……お願いだから……」

「モーヴさん、俺はどこにも行きませんから!」

「モーヴっちの今の発言、ヤンデレっぽいぞー、ぐへえ」

「ヤンデレってなんですか?」

「知らない言葉だね」

「ふふふん。世の中には知らない方が良いこともー、面白いこともあるのだよ、諸君!」

 そう言いながら、ボリーはスプーンを使ってティラミスを食べ始めた。

「くふっ。この食感がクセになる!」

「クッキーも、ゼリーもあります。お好きなものをお取りください」

 それでは、と言ってシロは執務室を後にした。シロの背筋はいつもぴんと伸びていて、遥はそれを見る度に、見習いたいと気合が入る。

「では、皆さんー、お疲れ様の乾杯をしましょう! 乾杯!」

「ボリー、君が持っているのはカップじゃなくってティラミスの器じゃないか……」

「細かいことは気にしなさんな」

「……ふふ、いただきます」

 遥は紅茶のティーカップを取り、ひとくちそれを飲んだ。砂糖は入れていないが、甘い香りが鼻をくすぐる。いったい、何という茶葉なのかを、今度厨房で訊いてみようと思った。

「そうだ! 来月だっけ? 結婚式! おめでとうなー! お兄さん、また泣いちゃいそう……」

 そう。来月の始めに、遥とモーヴの結婚式が行われる。モーヴは盛大に行いたいと言っていたが、遥の希望でその規模は小さいものになった。モーヴは初め、不満そうだったが、最終的に愛しい遥の意見を通すことになったのだった。

 モーヴは自慢気にボリーに言う。

「そうだよ。ボリー、是非、参加してくれたまえ」

「もちのろんろん! あ、俺っち神官の役目を託されたのです。クロっちに!」

「はぁ? 何その話、聞いていないんだけど!?」

「神官?」

 首を傾げる遥に、モーヴが説明する。

「人間界で言う、神父さんのことだよ」

「ああ、なるほど! その役目をボリーさんがやって下さるんですね。ありがとうございます」

「良いってことよ!」

「良いってことよ! じゃ無いよ! 遥、よく考えてみてごらん? 僕らはボリーの言葉で愛を誓って、ボリーの前で近いのキスをするんだよ!? ああ、恥ずかしいったらありゃしない!」

「人前でいちゃこらするのは平気なのに、それは嫌なんかい!」

 まだ遥のことを抱きしめているモーヴに、ボリーは笑いながら言った。モーヴはくちびるを尖らせる。

「それとこれとは話が別なの!」

「はいはい。でも、決まっちゃったもんは仕方ないからな? 二人とも、式の本番の時に神官姿の俺っちに見惚れるなよ? あはは!」

 言いながらティラミスを完食したボリーは、執務室のドアを開ける。

「そいじゃ、後は若いお二人でごゆっくりー的な? ばいばい!」

 そう言ってボリーは出て行ってしまった。室内に、嵐が過ぎ去った後のような静けさが訪れる。

「……お菓子、食べようか?」

「そうですね。あっ、でも……」

「でも?」

 遥は恥ずかしそうに言う。

「タキシードが入らなくなったら困るな……採寸したのが今月ですから、来月まで体型をキープしないと」

「うーん。ま、今日だけは特別ってことで。ほら、甘い物は別腹って言うだろう?」

「……そうですね。ダイエットは明日からとも言いますしね」

 くすくすと笑い合って、二人はティラミスの入った器を手に取った。

「それじゃ、僕たちの明るい未来に乾杯!」

「ふふ。乾杯!」

 心の底から湧き上がる幸福感に、遥は目を細める。

 ――俺、この人と一生、生きていくんだ……。

 じわじわと実感がわいて来て、一滴の涙が溢れた。思わず遥は目元を拭う。幸せに満ちた遥の表情を、モーヴは黙ってただただ眺めていた。

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