第20話ペンギンの親子

「うわぁ! 水槽、すっごく大きいね!」

「そうですね!」

「こんなに大きなものを見るのは初めてだよ! 素晴らしい技術だ!」

 三メートルを優に超す巨大な水槽の前で二人は立ち止まる。その中で泳ぎ回っている魚たちはどれも美しく、優雅にヒレを翻して、まるで自分たちの存在を客にアピールしているかのようだった。

「綺麗だなぁ……」

「ええ、とても……」

 しばらくその場に留まって、二人は目の前の幻想的な光景に見とれていた。手は、繋いだままで。お互いの体温を、分け合ったままで――。

 ――あ、あれ? これじゃただ水族館を楽しんでいるだけだ……。

 本来の目的は、モーヴの初恋を探すことなのに、これではまるでただのデートだ。遥はくいくいとモーヴのジャケットの裾を引っ張った。

「モーヴさん、どうです?」

「うん? どうって、何が?」

「初恋ですよ! 見つかりそうですか?」

 モーヴは、うーんと目をつぶる。

「分かんない」

「え、ええっ!?」

「実を言うと……これかな、って思うことはあった。けど、確証が持てない」

 ――っ。

 遥の胸がずきんと痛んだ。そうか、もしかしたら……と思うことがあったのか。まったく気が付かなかった。遥は心の中で力無く笑った。

 ――けど、これで良いんだよね。モーヴさんが幸せになってくれたら、それが俺の幸せだから……。

 遥は笑顔を作ってモーヴに言う。

「モーヴさん、そろそろイルカショーを見に行きましょう。きっと楽しいですよ!」

「ああ、あの賢い哺乳類だね! 良いね、行こう」

 こうやって楽しい時間を過ごせるのは、今日がもう最後かもしれない。遥は無意識に繋いだ手にぎゅっと力を入れた。


「ではここで、イルカちゃんの大ジャンプですー!」

 トレーナーの合図を読み取ったイルカが、プールの中から飛び出してざばんとジャンプする。その場に居た観客のすべてが歓声を上げて、大きな拍手を送った。

「遥、見て! やっぱりイルカは賢いなぁ……」

「ふふ、そうですね」

 イルカはトレーナーを背中に乗せてすいすいと泳ぎ出した。わあ! と湧く客席。楽しそうなモーヴの笑顔。

 ――駄目だ。全然、集中できない……。

 心がもやもやして、それが遥を支配していた。モーヴに幸せになって欲しいと思う反面、もっとモーヴと一緒に居たいという感情が消えない。

 ――駄目だ……こんなんじゃ、駄目だ……。

 遥がきゅっとくちびるを噛んだその時、モーヴがそっと遥の肩を叩いた。遥は隣に座っているモーヴを見上げる。モーヴは微笑んで遥に言った。

「ちょっと、出ようか?」

「え? でも……まだショーの最中ですよ?」

「まぁ、ちょっと……ね?」

 詳しいことを言わないモーヴを不思議に思いつつ、遥は「はい」と頷いた。そして、二人してイルカショーの会場を後にする。しばらく歩いたところでモーヴは遥を振り返り、頬を掻きながら言った。

「ごめんね、遥。僕を楽しませようとして、我慢していたんだね……」

「えっ? 我慢?」

 そんなことはしていない。疑問を浮かべる遥にモーヴは言う。

「イルカって、光沢があってなんだかぬるってした感じがあるよね。遥は、そういうのが苦手なんだろう?」

 深海魚が苦手だ、とモーヴに言ったことを遥は思い出す。けれど、イルカは平気だ。愛嬌がある顔をしていて、可愛いとも思う。遥はモーヴに訊いた。

「どうして、俺が我慢しているって思ったんですか?」

「だって、遥……まったく楽しそうじゃ無かったから……」

「っ!」

 違う。そうじゃない。

 楽しめなかったのは、イルカが苦手なんじゃなくて、余計なことを考えてしまっていたからで……モーヴのことを考えていたからで……。

 遥は、この場から逃げるようにモーヴに背中を向けて走り出した。

「遥! 待って!」

 モーヴは慌てて遥を追いかける。客の大半がイルカショーを観ているためか、館内は先ほどよりも空いている。そんな空間を、遥はただ走った。

 ――俺は馬鹿だ! よりにもよって、モーヴさんに心配かけて……っ。

 胸が苦しくて、どうにかなってしまいそうだった。もう、自分のことが分からない。頭の中がこんがらがって、もう、何も分からない……。

「遥っ!」

「っ……!」

 モーヴの長い腕が、遥を捕らえた。手を掴まれたと思った次の瞬間、背後からぎゅっと抱きしめられる。

「遥……どうしちゃったの? 急に走り出すから驚いたよ……」

「う……」

「どうしたの? 僕に教えて?」

 ――言えない。貴方のことが好きだなんて……言えない……。

 気を抜けば溢れてしまいそうな涙を必死で堪えていると、ふと、目の前にペンギンの姿が飛び込んで来た。

「あ……ペンギン」

「ああ、知っているよ。ペンギン、飛べない鳥だね」

 遥はスミレの言葉を思い出す。確か、ペンギンのコーナーでは――。

「見て、遥」

 モーヴが小声で遥に言った。

「あのペンギン、ほら……毛むくじゃらのやつ、あれが子供なんだろう? その隣に居るのがお父さんとお母さんかな? 親子みたいだね」

「……親子のペンギンを見ることが出来たカップルは、永遠に幸せになれるそうですよ」

 そう、そんなジンクスがあるとスミレは言っていた。カップルなら、幸せになれる。そうでなければ、何の意味も無い。遥は俯く。それに対してモーヴは嬉しそうに笑った。

「良かった。それじゃあ、僕ら、ずっと幸せだね」

「……え?」

 遥は思わず振り返ってモーヴを見た。モーヴは紫色の瞳を細めて、柔らかく微笑んでいた。まるで天使のようだと遥は思う。このまま、天使の住む空に連れて行かれるのではないかと思わせるような微笑みだった。

「モーヴさん……どういう意味ですか……?」

「遥、ここを出ても良い? 行きたい場所があるんだ」

 遥の問いには答えず、モーヴは穏やかな声でそう言った。

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