第12話優しいぬくもり

「お疲れ様ですー」

「お疲れー」

 深夜のコンビニのアルバイトが終わって、朝食を買って、いつも通りアパートに戻った遥の目に飛び込んで来たのは、ドアの前でしゃがみ込んでいるモーヴの姿だった。慌てて遥はモーヴへと駆け寄る。

「モーヴさん! どうしたんですか!? こんなところで!」

「ああ、遥、おはよう。良い朝だね」

 咄嗟に遥は青白くなっていたモーヴの手を握った。どのくらい、この場所に居たのだろう。握ったその手は氷のように冷たかった。

「中に! とりあえず中に入りましょう!」

 鍵を使って玄関のドアを開けて、遥はモーヴの背中を押して中に入るように促した。

「ありがとう。春とは言え、ちょっと寒くて参ってたんだ」

「朝晩は冷えます! えっと、どうしよう……」

 まずは冷えたモーヴの身体を温めなくてはいけない。何をどうしたら良いのか、とパニックになる遥にモーヴは微笑む。

「大丈夫だよ、遥。ほら……」

 靴を脱いで部屋に入ったモーヴは、ローテーブルに指で円を描いた。すると、二つのマグカップがすっと現れる。

「ココアだよ。一緒に飲もう」

「あ、ありがとうございます……」

 ほわほわと湯気を放つマグカップを、モーヴは両手で包むようにして持った。そうするとゆっくりではあるが、彼の手先の血色が良くなってくる。その様子を見て、遥はほっと息を吐いた。

「モーヴさん、どうして外に? 魔術で中に入れませんでしたか?」

 遥がそう言うと、モーヴは「出来るけど……」と口ごもる。

「出来るけどさ……留守の人の家に入るのは、泥棒と一緒だよ」

「泥棒だなんて……モーヴさんにそんなことを思うことは絶対に無いです!」

「それでも、さ。城の主が居ないところに勝手に入るのはマナー違反だよ。それより遥、君はどこに行っていたんだい? 買い物? こんな朝早くに出歩くなんて危ないよ」

「ああ、バイトに行っていたんです。コンビニの」

 遥の言葉に、モーヴは目を丸くする。

「え? 働いていたの!? 僕がお見合いなんてことをしている間に、仕事をしていたのかい!?」

「ええ、ここからちょっと歩いたところにコンビニがあるんですけど、そこがバイト先です。深夜枠だから、帰って来るのが今の時間くらいになるんです」

「ああ……なんてことだ」

 モーヴは自分の額に手を当てながら言う。

「そんなに細い身体で、しかも夜中に働いているだなんて……あれ? 遥、君はカフェで働いているんだよね? どうして、そんなにたくさん働いているんだい?」

「それは……老後のことが心配で」

「ろ、老後!?」

「貯金、しておかないと……何かあった時に動けないですから」

 蓄えの大切さを父親から逃げる時に身をもって実感した遥だ。若くて動ける間に、稼げるだけ稼いでおこう。そう心に決めて実行している。

 モーヴは少しだけ温まった手で遥の頭をぽんぽんと撫でた。

「偉いね、遥は」

「え、偉いだなんてそんなことは……」

「将来のことをちゃんと考えているんだ。偉いよ」

「でも……正社員じゃなくって、ただのバイトだし」

「そんなの関係無いよ。けど、そっか……正社員じゃないのが不安なら、いつでも僕が口を利いてあげるから」

「え? モーヴさん、こっちに知り合いが居るんですか?」

 驚く遥にモーヴは言う。

「いや、居ないよ。僕が言っているのは、魔界でってこと」

「ま、魔界!?」

「そう。遥は接客業に向いているみたいだから、そっち方面の仕事をね。良いだろう? 遥はもう成人しているんだから、家族の許可をいちいち取らなくても」

 家族。

 かつて居た、家族……。

 祖母との楽しかった思い出と、父親に支配されていた恐怖を同時に思い出し、遥は気分が悪くなった。それが顔に出たのだろう。モーヴが心配そうな表情で遥の頬に触れる。

「遥、どうしたの? とても苦しそうだ」

「あ……すみません、ちょっと横になっても良いですか?」

「もちろんさ。立てる?」

「はい……」

 そう返事をしたものの、頭がくらくらしてまともに一人では歩けない。遥はモーヴに支えられながら、なんとか布団まで辿り着き、その上に横たわった。ふうと息を吐くと、少し胸が楽になる。けれども、幾度も言われ続けた言葉がフラッシュバックして頭が、耳が、目の奥が痛くなった。

 ――お前さえ居なければ……。

 呪いのように思い言葉。苦しい、助けて――。思わず涙が零れそうになった時、右手がぎゅっと握られた。モーヴだ。モーヴが自身の体温を分け与えるかのように遥の手を握っている。

「遥……何かあったのかな? その……言いにくいなら、訊かないけど……」

「……俺、実は……」

 モーヴのぬくもりを感じながら、遥は自分の過去のことをぽつぽつと話した。母親を知らないこと、祖母に育ててもらったこと、父親から暴力を受けていたこと……カフェのマスター以外に、自分の身の上を語るのは初めてだった。可哀そうな奴だと思われたり、変わった奴だと思われたりするのが嫌だったから――けれども、モーヴにはすべてを安心して話せた。モーヴはそんなことは思わない。そうどこかで確信していたから、きっと話せたのだと、遥は自然と溢れてきた涙を拭いながら思った。

 モーヴは黙って遥の言葉を聞いていた。真剣な表情で、ずっと遥の手を握りながら。

「で、俺は父親から逃げて、この街にたどり着いたんです」

「……そっか」

 モーヴはそう呟いて、遥の手を離した。そして、横たわる遥の横に自身も寝転び、そっと手を伸ばして遥のことを抱きしめた。突然の出来事に驚き、遥の涙は引っ込んでしまう。

「あ、あの、モーヴさん……?」

「遥は、ずっと頑張っていたんだね」

 モーヴは柔らかい声で言った。その声は遥の胸に染み渡り、ぽかぽかと身体中に広がっていく。

「お家のこと、大変だったね。今でも思い出したらこんなに辛いんだから、そこで暮らしていた時はもっとしんどかっただろうね」

「……モーヴさん」

「けど、楽しい出来事もあって良かったね。遥のおばあ様はとても素敵な女性だったんだね、きっと」

「……とても優しい人でした」

「うん、そう思う。そういう優しい人に育ててもらったから、遥は優しくて強い人になったんだね」

 モーヴは大きな手のひらで遥の背中を撫でた。その心地良さに遥はそっと目を閉じる。モーヴが与えてくれるぬくもりが、心をふわりと軽くしてくれた。

「……遥。僕は、いつだって遥の味方で居たいから」

 力強くモーヴが言う。

「遥はたぶん……甘えるのが苦手だと思うけど、僕には遠慮なく甘えて良いからね? わがままも言って良い。たくさん頼れば良いよ」

「……わがまま?」

「そう。夜中に甘い物を買って来いとか、仕事を休んで自分に構えとか。いろいろ」

 あまりに具体的な例えに、遥はくすりと笑った。

「なんだか、実際に言われたことがあるみたいに言うんですね」

「言われたことがあるんだよ。困ったことに」

「……わがまま、聞いたんですか?」

「それは、まぁ……格好悪い話だけどね。ああ、でも仕事はサボりはしなかったな」

「ふふ……モーヴさん、それじゃあ一個だけわがまま言っても良いですか?」

「うん、良いよ」

 遥は目をつぶったままで、モーヴに言う。確かに自分は他人に甘えるのが苦手だ。頼るのも出来るだけそうはしたくないと思っている。だが、今だけはモーヴに甘えたくなった。モーヴに傍に居て欲しくなった。

「俺、今日はもうバイト無いから……寝ていたいんです。モーヴさん、俺が目を覚ますまで隣に居てくれますか? ずっと、抱きしめていて下さい……」

「そんなのお安い御用さ。ほら、もっとくっつこう。頭を僕の腕の上に置いて?」

「……はい。あったかいな」

 初めてこうして眠った時は緊張したけれど、今は深い安心感で包まれている。遥は、額をモーヴの肩にくっつけて全身の力を抜いた。

 ――あったかい。モーヴさん、あったかい……。

 モーヴの体温に包まれながら、遥は意識を手放した。

「おやすみ、遥」

 そんなモーヴの声が、遠くで聞こえた気がした。

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