第9話朝を迎えて

「おはよう遥! 良い朝だね!」

「……ふぁ。おはよう……ございます」

 寝ぼけまなこで欠伸を零しながら遥はモーヴを見た。彼は爽やかな笑顔を遥に向けている。枕が変わっても爆睡出来るタイプって羨ましいな、と遥は思った。

 すっきりした顔をしているモーヴに対して、遥の頭はまだぼんやりとしている。何故なら、昨夜はぐっすりと眠ることが出来なかったからだ。

 遥は布団も枕も一組しか持っていない。なので、一枚の布団の上に二人で並んで眠ることになったのだが――。

「枕が一個しかないなら、僕の腕で寝たら良いよ」

「……は?」

 枕は初めからモーヴに譲るつもりだった。なので、ごく自然に遥は直接、布団の上に頭を置いたのだ。そんな遥に、モーヴはごく当たり前だという調子で言った。

「腕枕で寝たら良いよ。おいで」

「え……いや、大丈夫です! 俺はこのまま寝ますから」

「枕無しで寝たら、首が痛くなるよ? ほら、遠慮しないで……居候の僕が言うのもなんだけど、遥の細くて可憐な腕に僕の頭を乗っけるわけにはいかないだろう? だから、僕の腕を遠慮なく使ってよ」

「えぇ……」

 腕枕って、恋人同士でやる行為なんじゃないのだろうか、と疑問を浮かべていた遥の手を引っ張りモーヴはあっという間に遥を自分の腕の中に閉じ込めた。急に布団に引きずり込まれて驚きを隠せない遥に、モーヴは微笑む。

「あったかいね」

「……っ」

「おやすみ、遥」

 そう言ってモーヴは目を閉じた。遥はモーヴの腕の中から抜け出そうと身体をよじるが、モーヴの腕の力が強くて動けない。視線を上に向ければ、目をつぶったモーヴの顔が飛び込んできて――何故だか分からないが、遥の心臓がどきどきと大きな音を立てた。

「も、モーヴのさん! 俺は首痛めたりしないんで! モーヴさん!」

「……すー。すー」

 返事の代わりに聞こえてきたのは、規則正しいモーヴの寝息だった。遥はがっくしと肩を落とす。この様子では、簡単に目を覚ましてはくれそうにない。腕の中から抜け出すことを諦めた遥は、遠慮がちにモーヴの腕の上に自分の頭を置いた。

 ――なんでイケメンは良い匂いがするんだ……!?

 床につく前にシャワーを交代で浴びた二人は、同じシャンプーとボディソープを使っている。それなのに、モーヴからはほのかにそれらとは違う甘い匂いが漂っていた。まるで高級な柔軟剤のような、鼻にすっと通る柔らかい香り。それが余計に遥の胸をせわしなく鳴らした。

「……あーあ、もう」

 遥はそう呟いて目を閉じたが、落ち着きを失くした心臓のせいで横になってから数時間、まったく眠ることが出来なかった。


「……モーヴさん、元気ですね。良く眠れましたか?」

「ああ、もうばっちりだよ! 遥という抱き枕もあったし、快眠出来た」

「……抱き枕」

 ははっ、と遥は力無く笑った。あれだけどきどきして緊張していたのは自分だけだと思うと馬鹿らしくなる。早く、異界人との距離感を掴まないと心臓が持たないな、と思いながら朝食を用意するためにコンロの前に立った。だが――。

「あ……」

「ん? どうしたの、遥」

 口を開けたまま固まる遥に、モーヴが首を傾げる。遥は頬を掻きながらモーヴに言った。

「すみません。何か買って来ないと……朝食になるようなものが何も無くて」

 深夜のコンビニのアルバイトがある時は、帰りに朝食を買って帰っている遥だが、シフトが無い時は基本的に朝食を取らない。なので、今、朝食に使えそうな食材をストックしていなかった。

 モーヴは「それなら……」とぱちんと手を叩く。

「泊めてもらったお礼に、僕が用意するよ」

「え、いや……」

「大丈夫。任せて!」

 そう自信満々に言うと、モーヴはローテーブルの上に人差し指を置き、すっと大きく円を描いた。すると、どうだろう。描かれた円の中に二枚の皿が現れたかと思うと、その上にこんがりと焼かれたトースト、ふわふわのスクランブルエッグ、香ばしい匂いを放つウインナーがふわりと宙から出て来て勝手に盛り付けられた。

 遥は目を丸くして「うわぁ……」と言葉を漏らす。

「こ、これは……魔術というやつですか?」

「うん。まぁ、簡単なやつだけどね」

 モーヴが次に出て来たナイフとフォークを手で掴みながら言う。

「僕の城で作らせた料理をこっちに飛ばしただけだよ。シェフも魔族だから、瞬間的に料理を用意することなんて容易いんだ」

「え? これ、魔界の料理なんですか!?」

 見た目は人間界のものだ。どこのカフェでも出て来そうなモーニングのような朝食……どの辺が魔界仕様なのだろう。例えば、タマゴ……ニワトリではなく、ドラゴンみたいな珍しい生物が産んだものなのかもしれない。

 少し食べるのが怖い。そう顔に出ていた遥に、モーヴは安心させるように微笑んだ。

「大丈夫だよ、遥。使っているのはこの世界と同じ食材だから」

「え……?」

 どうして魔界に人間界の食材があるのだろう。そう思った遥の心を読み取ったようにモーヴは説明する。

「ブームなんだ」

「ブーム?」

「そう、人間界ブーム。数年前から、魔界でこっちの世界のドラマとか映画が放送されるようになったんだ。そうしたらどうだろう。魔族たちはあっという間に人間の虜さ」

 モーヴは苦笑する。

「すぐに皆、要望を出した。人間界のものをこの世界に入れてくれって。僕たちは何度も会議をしてね……経済が活性化するなら、まぁ、良いんじゃないの? ってことになって食文化、ファッション、建物……いろんなものの文化を魔界に取り入れることにしたんだ。特に人気なのが日本だね。和服って言うの? サムライって人が着ている服を真似して街中を自主的に警備するボランティアも居るんだよ」

「うわぁ……ちょっと見てみたいですね、魔界の文化」

「え? 気になる? じゃあ、行ってみる?」

「はい?」

 思いがけないモーヴの発言に、遥は驚く。

「い、行けるんですか? そんな簡単に……魔界に」

「行けるっちゃ行けるよ? どうする? 行く? 今日とかどう?」

 魔界のことは気になる。だが、少し怖い。遥は笑みを作ってやんわりと断った。

「まずは、モーヴさんの初恋を探さないと。魔界のお話はそれからですね」

「あぁ、遥、君はとっても優しいね……」

「そんなんじゃないですよ。あの、そろそろご飯を食べませんか? 魔界で作られたお料理、食べてみたいな」

「そうだね、食べよう」

 手渡されたナイフとフォークを一度テーブルの上に置いて、遥は手を合わせた。

「いただきます」

「そっか、日本人はそうやって食事の前に手を合わせるんだね。とても素敵だと思うよ」

 モーヴはそう言って遥と同じように手を合わせ「いただきます」と呟いた。

 遥はそんなモーヴを見て、ふっと笑みを零した。日本の文化を実践している魔王というのは何だか新鮮で、どうしてだか心が温かくなる。それに、誰かと「いただきます」を一緒に言って食事をするのも、このアパートでは初めてのことだった。

 ――なんだか、楽しい。

 心をぽかぽかさせながら、遥はスクランブルエッグを口に運んだ。それはほんのりと甘い味がして、口の中で簡単にとろけてしまう不思議な食感だった。

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