第8話初恋を探して
「恋って、いったい何なんだろうね?」
ローテーブルに肘をついて、モーヴはふうと息を吐く。湯吞みの中の緑茶は二杯目だ。遥は乾いた喉を潤すことも忘れて、じっとりとした視線をモーヴに送る。そのことに気が付いていないのか、もしくは気にしていないのか、モーヴは話す口を止めない。
「恋……それは永遠の謎だと思うんだ」
「……」
「ああ、恋人が居たことが無いってわけじゃないよ? 僕って、モテるタイプだから。気が付けば隣に居たんだよね、女の子が」
「……へぇ」
「愛し合ったことも多々あるよ。ああ、この愛し合うの意味は、その、つまりベッドで……」
「理解しています。説明は省いてもらって大丈夫です」
遥はふうと息を吐く。どうして自分は「魔王様」の恋愛遍歴を聞いているのだろうと、どこか冷静に心の隅で思った。そんな遥にモーヴは目を丸くする。
「え? 遥にこの意味は分からないだろう? まだ未成年だし」
今度は遥が驚く。
「未成年? 俺はもう二十三歳ですよ」
「に、にじゅうさん……!? わ、若く見えるね……」
「童顔なんです」
「まぁ、そういうところも可愛らしいけれど」
モーヴは作り笑いではない笑みを遥に向けた。綺麗な微笑みを向けられて、遥は思わずどきりとする。もしかしたら、今の自分の顔は赤いかもしれない。本当に、容姿のことを褒められる機会なんてほとんど無いのだ。なので、ストレートなモーヴの言葉は遥の胸に突き刺さり、鼓動をばくばくと早くさせる。そのことを誤魔化すために、遥は慌てて口を開いた。
「で、モーヴさんはつまり付き合うための彼女を人間界に探しに来たってわけですか?」
「うーん。ちょっと違うね。僕が探しているのは初恋なんだよ」
モーヴは両手を組み、祈るようにそれを胸に当てた。
「遥は成人しているから露骨な表現で言うけど、僕は誰と寝ても心がときめいたことが無い」
「ぶふっ!」
湯呑みを傾け、喉を潤していた遥は盛大にむせた。モーヴは「大丈夫?」と遥の顔を覗き込みながら話を続ける。
「そもそもね、僕は間違った教育を受けたから、こんな感じになっちゃったんだと思うんだ」
「間違った、教育……?」
「そう。僕がまだ魔王になる前のうら若き頃……十六歳の時にね、僕らの一族はとある教育を受けるんだ。どんな教育か分かるかい?」
「いえ……分かりません」
首を傾げる遥に、モーヴは溜息を吐きながら説明する。
「それはね、夜の営みの授業さ」
「……は?」
遥は固まる。そんな授業って……ああ! と遥は手を叩いた。
「性教育を受けるってことですね?」
そう解釈した遥に対して、モーヴは首を横に振って否定した。
「性教育、ってのは七歳から教わるよ。僕が言っているのは実践さ。分かる?」
「実践って……」
「十六歳の時、手練れの魔族の先生に教えてもらうんだ……身体を繋げる方法を。実際にやってみて、さ」
「がはっ!」
何も飲んでいないのに遥はむせた。何だその教育は! 思わず叫びそうになった遥だが、自身の口を両手で押さえてぐっとこらえた。意味が分からない。モーヴの一族とはいったいどんな人たちで構成されているのだろう。遥は一度、深呼吸をして心を落ち着かせることにした。モーヴも「あーあ」と息を吐く。
「その先生がさ、めちゃくちゃ褒めてくれるんだよね。上手とか、気持ち良いとか」
「うう、出来れば聞きたくなかった……」
生々しい言葉に遥は思わず耳を塞ぐ。だが、どうしても想像してしまう――熱のこもった瞳で不敵な笑みを浮かべながら、誰かを抱いているモーヴの姿を。「気持ち良い?」なんて幻聴まで聞こえだした遥は、手元の湯呑みを傾けて一気に中身を飲み干した。
モーヴは遥の発言が気に入らなかったのか、むうとくちびるを尖らせる。
「男だもん、褒められたら嬉しくなっちゃうでしょ?」
「え……?」
「たとえ、それだけのテクニック的なものを持っていないって自分で分かっていてもさ、上手って言われたら舞い上がるでしょ? 遥も初めての時はそうだったんじゃないの?」
「……」
初めても何も、いままでそういう関係を経験したことの無い遥だ。だから、モーヴの気持ちは一ミリも理解できない。
言葉を探して沈黙する遥の額に汗が滲む。モーヴはその様子を怪訝そうに眺めていた。
「まさか、遥は罵られて元気になっちゃうタイプ?」
「……はい?」
モーヴは「なるほどー」と手を顎に当てながら言う。
「下手くそとか、お前じゃ満足出来ないとか、そっち系の言葉に反応するんだ?」
「は、はぁ!? 違いますよ!」
「良いんだよ? 人の数だけ好みがあるんだから」
「だから違いますって! 俺はまだ経験が無いから分からないだけですっ!」
そう叫んだ遥の額の汗の粒が大きくなった。
恥ずかしい。自分の経験の無さを暴露してしまった。遥は顔を真っ赤にして俯き、膝の上で手をぎゅっと握った。
「あ……」
気まずそうにモーヴは頭を掻いた。
「ご、ごめんね? 二十三歳って言っていたから、それなりに経験しているのかなって勝手に思って」
「……いえ」
「ぼ、僕の一族の普通とこの世界の普通を一緒にしてはいけないよね!」
「……そう思ってくれるなら有難いです」
「お、怒っている?」
「……怒っていません」
遥はすっと顔を上げてモーヴを見た。彼もまた、額に汗を浮かべている。魔王でも慌てることがあるんだな、と遥は可笑しくなってぷっと吹き出した。その様子に、モーヴは「え?」と声を漏らす。
「遥、どうしたの?」
「いえ……それより、その教育を受けて初恋が出来なくなったってのはどう繋がりがあるんですか? 聞かせて下さい」
「ああ、そうだったね……よし、話を戻そう」
モーヴは深刻そうな面持ちで話を続けた。
「僕はね、先生にたくさん褒められてとてもいい気分になった。魔術学や魔王学で褒められるのとはまた別の高揚感に包まれた。また、褒められてあの快感を味わいたい。いつしか僕はそう思うようになってしまった。だから、告白を受けたらすべてそれを受け入れた。来る者拒まず……状態。あ、二股とかはしてないよ? そこは誤解しないでね?」
「は、はぁ……」
「そんな感じで、一応、恋人は出来たんだけど、そこには大切な物が無かった……そう、恋心さ」
「こ、恋心……」
「そう。魔王を継いでそろそろ結婚を、って話になった時に気が付いたんだ。あれ? 僕って誰のことが好きなんだろうって」
「好き、ですか」
「うん。結婚は好きな人としたいって思ったんだ。だから、今まで付き合ったことのある恋人たちを振り返ってみた……そうしたらどうだろう、僕って誰にも夢中になっていなかったことに気が付いたんだ」
モーヴは緑茶をひとくち飲んで続ける。
「ただ褒めて欲しい、それだけを目的に恋人を作っていた。だから、本当の意味で誰も好きになっていない……初恋を経験していなんだ」
「つまり、今までは身体だけの関係しか経験していないから、真実の愛を知りたいということですか?」
遥の言葉を聞いたモーヴは「そう!」と感激に満ちた声を出して立ち上がる。
「初恋って、甘酸っぱくてレモンみたいな味がするんだろう?」
「レモンの味?」
それはファーストキスのことでは無いだろうか、と思った遥だが自分にキスの経験が無いので良く分からない。ここは深く発言するまいと口をつぐんだ。そんな遥にお構いなしにモーヴは瞳を輝かせて言う。
「恋は落ちるものだっていう噂も聞いた! 遥、僕も恋に落ちてみたい!」
「……そうですか」
ならご自由に、と言おうとした遥の目の前に座り直し、モーヴは力強く遥の手を取った。
「遥! 僕に協力してほしい!」
「協力? いったい何の……?」
「僕が初恋を見つけるお手伝いさ! この世界でね!」
勢い良く言うモーヴに、遥は「でも……」と口ごもる。
「俺は、恋愛経験が無いですから……お力にはなれないと思いますよ」
「なら、この世界での恋愛について教えて欲しい!」
「この世界の恋愛って……」
「この世界にはパワースポットとか、デートスポットとか、そういうエネルギーが溢れている場所があるんでしょ? そういうところに行けば、きっと初恋も見つかると思う!」
「……なんでそんなに詳しいんですか?」
「人間界用の旅行パンフレットに書いてあった!」
予習は完璧だよ、とモーヴは誇らしげに鼻を鳴らした。遥はその様子を見て大きく息を吐く。この様子では、この世界で「初恋」を見つけるまでは帰りそうにない。
「困っている人を助けることの大切さ、か」
マスターの言葉を思い出す。人助けは、遥にとってとても重要な行為だ。
――ま、見つからなかったらすぐに帰っちゃうかもしれないし……付き合ってみようかな。
遥はふっと微笑み、モーヴに告げた。
「分かりました。出来ることは少ないと思いますが、お手伝いさせて下さい」
「遥……!」
感極まったモーヴに抱きつかれ、遥はその場でバランスを崩して倒れそうになった。
――っ、近い!
誰かに抱きしめられたのなんて、幼い頃に祖母にしてもらって以来無い。久しぶりに全身で感じる他人の体温に、遥の胸はせわしなくばくばくと鳴り続けたのだった。
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