第5話不思議な体験
「ここです」
「お邪魔します」
先に部屋に入った遥の真似をして、モーヴは履いていた黒い靴を脱いだ。靴下まで黒い姿を見て、遥はまるでモーヴ自身がカラスみたいだ、と思った。
「あの、適当に座って下さい。狭くてすみません、本当に……」
「いえ、狭いだなんて言わないで下さい。貴方の大切な生活空間ですから」
モーヴはそう言いながら、敷いてあった座布団の上に膝を立てて座った。正座をするのはどうやら無理のようだ。せめて座椅子でもあればくつろいでもらえるのに……そう思いながら、遥は緑茶を淹れるためにコンロで湯を沸かしていた。
「……」
「……」
室内に沈黙が流れる。
気まずさを感じた遥は、モーヴに旅行の話を振ることにした。一番無難だし、荷物が少ない秘密を聞き出せるかもしれない。
「モーヴさんは、旅行に慣れておられるんですか?」
「……慣れている、と言えばそうかもしれません」
「へぇ! 俺なんか旅行なんて修学旅行くらいしか行ったこと無いんです! 憧れるなぁ。ここに来る前は何処を旅していたんですか?」
「パリです。フランスの」
「へぇ……え!? パリ!? 海外ですか!?」
思いもよらない答えに、遥は手元の急須を落としそうになった。てっきりメジャーな日本の観光地を巡っていたのだと思っていた。まさか、海外だとは予想もしていなかったのだ。
「海外かぁ……素敵だなぁ。美術館とか、えっと……塔がありますよね。行かれたんですか?」
「どうだったかな。あまり覚えていません」
少し俯くモーヴを見て、ああ、これは触れてはいけない話題だったのかもしれないと遥は思った。旅先で嫌なことやトラブルがあったのかもしれない。場の空気を作ることに頭がいっぱいになって、無意識にモーヴの心に踏み込みすぎてしまった。
また流れる沈黙に、慌てながら遥は急須に沸騰したばかりの湯を入れる。その時、慌ててしまったせいで、熱湯を数滴、左手にかけてしまった。
「あ、熱い!」
「遥さん?」
モーヴは立ち上がり、薬缶をコンロに戻す遥の元に向かった。そして、少し赤くなった遥の左手を見て目を見開く。
「怪我を! 怪我をされたのですね!?」
「いえ、このくらい水で冷やせば……」
怪我だなんて大袈裟です、そう言おうとした遥の左手をモーヴは素早い動作で取った。そして、それをまるで宝物を扱うかのように優しく握り囁いた。
「心優しき少年の傷を癒したまえ……」
「モーヴさん? 何を言って……」
きらきら、きらきら。
まるで呪文のようなモーヴの言葉に反応して、遥の包まれた左手が金色に光り出した。突然の現象に遥は息を呑む。いったい何が起きているのか、遥の頭は混乱状態だった。
遥が驚きのあまり手を引っ込めようとした瞬間、ぱあん、と光が弾けて消えた。ゆっくりとモーヴが遥の手を離す。遥は急いで自身の左手を見た。
「っ……!?」
遥の左手に刻まれていた小さな赤い火傷の痕は、綺麗に消えていた。
――どういうことだ? 何が……何が起こった?
遥は視線を左手からモーヴに移す。モーヴは目を細めて穏やかな声で言った。
「治って良かった。痛くは無いですか?」
「……モーヴさん」
「治癒の魔術はあまり使わないので、成功するか不安でしたが……一安心です」
「モーヴさん、貴方は……」
何者ですか、そう訊ねようとした遥だが、目の前に飛び込んで来た異様な光景に言葉を詰まらせる。
いつの間に部屋に入って来たのだろうか。
モーヴの頭の上に、カラスが一羽乗っかっていた。カラスは翼を広げてモーヴをつつく。
「あれ? お前、帰ったんじゃないの?」
頭の上にカラスが居るというのに、モーヴは特にそのことを気にする様子を見せない。それどころか、カラスに向かって、まるで知人と会話するかのように話しかける。
「もう帰って大丈夫だよ? この国の人たちは噂通り親切だ。居心地も良いし、しばらく滞在するよ」
すると、カラスはくちばしをカチカチと鳴らし――流暢な日本語で話し出した。
「モーヴ様! このような事態にならないか心配で私はここに残ったのです!」
――か、カラスが、喋ってる!?
ぽかんと立ち尽くす遥をよそに、モーヴとカラスは会話を続ける。
「このような事態って何?」
「魔術ですよ! 魔術! 今、そこの人間に魔術を使われましたよね!? なんてことをするんですか!」
「魔術ぐらい、誰だって使うよ。この前……フランスのバーで手のひらから花を出したらものすごくウケたし」
「あれは魔術をマジックと勘違いした人間が勝手に喜んでいただけです! 今回のとはレベルが違いすぎます! 普通の人間は怪我を簡単に治療出来ないのですよ! 人間界に来る前にちゃんと勉強したのですか?」
「えっ? そうなの? そんなの旅行のパンフレットに書いてあったかなぁ……」
モーヴは首を傾げながら遥を見た。遥はびくりと肩を震わせる。モーヴは笑顔を作って自身の頭の上のカラスを指差した。
「すみません。どこからか入り込んでしまったみたいですね。すぐに追い出します」
「モーヴ様!」
「か、カラス……日本語、喋ってる……」
「え?」
モーヴは目を見開いて遥に問う。
「遥さん、こいつの言葉が聞こえるんですか?」
しかし、遥の耳にその言葉は届かない。人間の言葉を話すカラスを目の前にして、正常な心で居るというのは不可能だった。
遥はマスターの言葉を思い出す。お化けが出そうなアパート。そのお化けこそ、このカラスのことでは無いだろうか。
「う……」
頭がくらくらする。耳鳴りも酷い。
遥は立っていられなくなり、へなへなとその場に腰を下ろした。そして、重くなる目蓋に身を任せ、ぷつんと意識を手放した。
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