第3話カラスと男性

「おはようございます」

「あら、おはよう遥ちゃん。早いわね」

 カフェに着いた遥は、客席に座って新聞を広げていたマスターに向かって頭を下げた。頭はスキンヘッド、口元には髭、さらに黒縁の眼鏡をかけているマスターは怖そうな印象を持たれやすい。だが、話してみるとユーモアがあり面白く、見た目とは真逆の優しい人物だ。

 この街に当ても無くたどり着いた遥を拾ったのがこのマスターで、カフェの前でしゃがみこんでいた遥に「可愛い子ね、どうしたの?」と手を差し伸べてくれたのだ。遥の事情をすべて知った上で、働く場所と住む場所を提供してくれたマスターに、遥は感謝してもしきれないほどの恩を感じている。

 遥はスタッフルームに入ると、黒いエプロンを身に着けて鏡を見ながらしっかりと髪を整えた。小さいけれど、常連さんたちで全席が埋まることもあるカフェだ。日々、清潔にしていないとカフェの評判に関わってしまう。

 遥はスタッフルームから出て、まだ新聞を読んでいるマスターに声をかけた。

「マスター、表を掃除してきます」

「あら、ありがとう。なら、ついでに裏にゴミを捨てて来てくれる?」

「分かりました」

 いっぱいになっていたゴミ袋を手に、遥は店の裏のゴミ置き場にそれを捨てるために向かった。幸いなことに、このカフェ周辺にはカラスが少なくゴミを荒らされる被害はほぼ無い。なので、カラス避けのネット無しでゴミ袋を出すことが出来た。しかし――。

「あ、あれ?」

 カア、カア。

 今日は様子がおかしい。いつもならこの時間にカラスなんて見かけないのに、カラスの鳴き声が響いている。

 カア、カア、カア。

 遥は不気味に思いながらゴミ袋をゴミ捨て場に置き、そろりそろりとカラスの声をたどった。もしかしたら、近くの店が出したゴミが荒らされているのかもしれない。そう思いながらカラスに気付かれないように忍び足で鳴き声の方に足を進めた。

 気が付けば遥は、飲食店街を通り抜けて公園にたどり着いていた。ベンチと砂場しかないこぢんまりとした公園だ。その公園の砂場に、カラスが居た。それも、一羽や二羽ではない。十羽、いや、二十羽……もっと居るかもしれない。カラスの濡れたような艶のある黒い羽が、砂場を覆いつくしていた。

「な、何か死んでいるのか?」

 動物の死骸にたかっているのかもしれない。そう思った遥が思わず息を呑んだその瞬間、遥に気が付いたカラスが大きな鳴き声を出した。それは他のカラスにも伝染していき、やがて大合唱へと変わる。その気味の悪さに、遥は一歩後退った。その耳に、低く、だが良く通る声が響く。

「大丈夫、消えて良いよ」

 カア、カア。

 まるでその言葉を理解しているかのように、すべてのカラスたちは翼を広げてあっという間に晴れ渡った大空に飛び立った。遥はしばらくぽかんとその場に立ち尽くしていたが、砂場の真ん中に座り込む男性を見つけて肩を震わせた。

 男性の身体にはカラスの黒い羽根が無数にくっついている。下手をしたら口の中にまでそれが入っているかもしれない。想像しただけで嫌な気分になり眉をひそめた遥だ。ここは関わらずに立ち去ろう、そう思った瞬間、顔を上げた男性と目が合った。男性は微笑み目を細めた。

「やあ、こんにちは」

「……こんにちは」

 聞き取りやすい澄んだ声で男性は言った。遥はその男性が日本語を話したことに驚いた。何故なら、カラスの羽まみれのその人の風貌が日本人離れしたものだったからだ。

 肩の長さまで伸びた金色の髪。それには艶があり、まるで絹のようにさらりとしている。そして、瞳の色は赤に近い紫色だった。すっと通った鼻筋に整ったくちびる。それらを併せ持つ男性からは、異国の風を感じさせられる。

 身に着けているジャケット、シャツ、ズボン、靴はすべて黒色で、それらは地味さを感じさせること無く、男性のスタイルの良さを引き立てている。

「良い天気ですね」

「は、はい……」

 男性は立ち上がり、髪やジャケットに付いているカラスの羽根を払い除けながら遥に言う。

「今、何時ですか?」

「あ、えっと……」

 遥は腕時計をしていない。スマートフォンはスタッフルームの鞄の中だ。

「すみません、今は時計を持っていないので分かりません」

「ああ、そうですか……」

 残念そうに男性は眉を下げた。そんな仕草も様になっていて、同性である遥も思わずどきりとした。

「僕も、時計を向こうに忘れてきてしまってね」

 黒い羽根をすべて払い終わった男性は、ゆっくりと遥の元まで歩いた。背が高い男性は、遥を見下げるかたちで口を開く。

「とにかく、僕はお腹が空いています。どこか、食事が出来る場所を教えていただけませんか? 可愛い人」

「か、可愛い?」

 可愛いだなんて、祖母とマスターにしか言われたことが無い。きっと社交辞令だと自分に言い聞かせながら、遥はにこりと営業スマイルを見せた。

「なら、うちのカフェなんてどうですか? コーヒーとサンドウィッチがおすすめですよ?」

 男性は驚く。

「なんと……! その細い腕で店を経営しているとでも……?」

「いえ、違います。俺はただのアルバイトで、料理とかはマスターが……ああ! そうだ! 店だ! もう開店時間かもしれない!」

 カラスに気を取られて、すっかり忘れていた。ゴミを出すだけなのに戻るのが遅いと、マスターに心配をかけてしまうではないか。遥は男性の手を取り走り出す。

「とにかく、ついて来て下さい!」

「え? あ、ちょっと……!」

 困惑する男性を引っ張って遥は走り出す。そういえば誰かと手を繋いだのなんていつぶりだろう。走りながら遥はそんなことを思った。

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