第2話悪夢

 がしゃん。

 グラスの割れる音が響いた。グラスは遥に向かって投げられたものだ。咄嗟にそれを避けたので、グラスは遥に当たること無く壁にぶつかり粉々になって砕け散った。

「てめぇ! 生意気に避けてんじゃねぇよ!」

「……」

 グラスは避けても、中に入っていた酒までは避け切れなかった。遥が身に着けていた高校の制服は、日本酒の独特の鼻を刺すようなにおいに染まってしまった。クリーニングに出さないといけない。明日は、卒業式だからどうしてもこれを着なければいけないのに。遥は悔しさを覚え、ぎゅっと拳を握り、グラスを投げた自分の父親を睨んだ。

「何だその目は!」

「っ!」

 炬燵から這い出た父親が、遥の色素が薄く茶色に近い美しい髪を乱暴に掴んで引っ張った。その衝撃で遥は床に派手に転ぶ。父親は遥の髪を掴んだまま、酒のせいでがらがらになった声で怒鳴った。

「お前の顔を見ていたら、あのクソ女のことを思い出すんだよ!」

「い、痛い……」

「男のくせに女みたいな面しやがって! お前もクソなんだよ! 無駄に生まれて来やがって! クズガキが!」

 遥は自分の母親のことを知らない。祖母から聞いた話によると、父親が会社員をやっていた時に、未成年だった母親に手を出して妊娠させてしまったらしい。母親はどうしても産みたいと希望して遥を出産した。だが、学生だった母親の両親が結婚に反対したため、父親と母親は結婚をすることは出来なかった。

 遥は施設に入れられる予定だったのだが、そこで「私が育てるよ!」と手を上げたのが祖母だった。それ以来、祖母は遥を我が子のように可愛がり、病で他界するまでずっと遥の将来を気にかけ続けた。

 一方、父親は遥に対して興味を抱くことは無かった。それどころか未成年を妊娠させてしまったことが会社で広まり居場所を失くしてしまった父親は早々に退職し、それ以来は酒に溺れる人生を送っていた。

「あーあ! お前さえ居なければ人生上手く進んでたのになぁ!」

「う……」

「お前の人生も潰してやるから覚悟しておけよ! お前も不幸になれ! 不幸にな!」

 そう言って父親は遥の髪から手を放し、酒を買うために外に出て行ってしまった。おそらく行先は近くのスーパーだ。取り残された遥は、頭を押さえながら起き上がり、ばくばくと鳴る胸を両手で押さえた。

 ――このままじゃ、俺の人生は潰されてしまう。

 遥は急いで自室に入り、箪笥の一番下の引き出しを開けた。その引き出しには仕掛けが施されていて、底が二重になっている。そのスペースに遥は祖母が亡くなる前にくれた現金三万円を緊急用に隠していたのだった。

「おばあちゃん、使わせてもらいます……!」

 早くしないと父親が帰ってきてしまう。それよりも先に、逃げなければ!

 遥は三万円を通学用の鞄に突っ込んで、玄関でさっき脱いだばかりの靴を履いて制服姿のままスーパーとは反対側の道を選んで駆け出した。


「っ……! は、は……」

 目を覚ますと、茶色い天井が目に飛び込んで来た。

 夢だ。そう認識するのに数十秒かかった。

 遥は震える手で自分の胸を押さえた。大丈夫、全部過ぎたことだ、と自分に言い聞かせて、よろよろと起き上がる。同時に目覚まし時計とスマートフォンのアラームが鳴った。遥は二つのアラームを止めて、汗で湿ったシャツを脱ぎ捨て新しいものに着替えた。

 久しぶりに、あの日のことを思い出してしまった。父親の怒鳴り声、臭い酒、飛び出した夜の住宅街。すべてが、夢であってほしい出来事だが、実際に遥が体験したことだ。

 父親の支配から逃れるべく家を飛び出した遥は駅に向かい、住んでいた場所から十駅ほど離れた駅の切符を買った。そして、現在住んでいるこの街にたどり着いたのだ。卒業式に参加できなかったのは残念だったが、もしあの時に逃げ出さなければ、自分の人生はきっと潰されていただろう。そう考えると恐ろしい。遥は、フラッシュバックで痛む頭を押さえながら次の職場に出かける用意を進めた。ここから徒歩で十五分ほどの小さなカフェでのアルバイトだ。

 遥は鞄から財布を取り出し、中から少しぼろぼろになったポチ袋を取り出した。中には、この街に逃げ出す際に使った緊急用の現金の残りが大切に仕舞われている。

「おばあちゃん、行ってきます」

 ポチ袋をぎゅっと握りしめて、遥は目を閉じる。次の仕事も頑張ろう、そう強く胸に誓った。


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