第2話 夏休みの日記 後編


 八月十八日(水)

  曇り時々晴れ


 はっきりしない空が広がる。

 私もクロも、目を覚ましたのは昼前で、二日続けてラジオ体操を休んだことになる。

 たっぷり寝たからか、ふらふらで帰って来たクロもすっかり元気になった。

「鈴、出かけないのか?」

 クロには関係ないだろうけど、私は今、学校の宿題をしている。

 長い夏休み――出される宿題も半端な量じゃない。

 既に休みは残り二週間なのに、宿題はほとんど片付いていなかった。

「そんなの、ミナエとやればいいだろ」

 言ったね?

 自慢じゃないけど、「友達と勉強会」と言って勉強が進んだことは、一度も無いのよ……。

「あ…」

「なんだ?」

 何て言おうか…。

 全く脈絡も何も無いのに、一昨日の話を思い出してしまった。

「仕事って、厳しい?」

「……」

 さっきまで騒いでいたのが嘘のよう。

 クロは口を閉ざし、目まで逸らした。

 ――言いたくない…?

「…ごめん」

 私は一言謝って、思い付きの質問を取り消した。

 空気がかなり気まずい。

 どちらも口を開かないまま、鉛筆と時計の針が動く音が続く。

 堪えられない。

 私はノートを片付けると、立ち上がった。

「外、行こう」

 私の言葉にクロは顔を上げ、笑顔で頷いてくれた。


 久し振りの木槿(むくげ)の広場。

 美苗は木陰で昼寝をしていた。

「ふわぁ~~~……あ、鈴ちゃん…と、クロ君だ。久し振りぃ~」

 欠伸をして挨拶。

 休みになってから、美苗と会う時はだいたい寝起きだったりする。

 夜、ちゃんと眠れているのかと、余計な心配をしてしまう。

 美苗は夏祭り以来のクロを見て、

「クロ君、前よりも背、伸びた? 成長期かな」

 なんて言ってる。

 ――そういえば、クロの目線が近くなったような気がする。

「あ! 鈴ちゃん、宿題の解答貸してくれないかな?」

 美苗が思い出したように声をあげ、聞いた……けど

「解答って、どれの?」

「? 全部だよ?」

 聞き返す私にけろっと答えた美苗…。

 ――ぬ…抜かされた……。美苗はまだだと思ってたんだけどなぁ……。

 軽くショック。

 止まっていても仕方ないし、さっさと持ちに行って貸しちゃおう。

「じゃ、取りに行ってくるね」

 入口に向かって歩き始めると、クロが反応した。

「どこ行くんだ?」

「ちょっと家戻るの」

 クロはぱたぱたと木槿の所から私の方へ来た。

「おれも行く」

「すぐ戻ってくるよ?」

「行く!」

 ――いや、そんな主張しなくても…。


 そして、二人で家に向かった。





 * * *



 家に着いた。

 門を開けようとした手が、ふと止まった。

 玄関の前には、中学生くらいの男の子がいた。傍らには何故か狐もいる。

「あの…うちに何か用ですか?」

 話しかけてみると、男の子は私達の方を見て言った。

「ああ。はじめまして。人間のお嬢さん。そして、シャルトリューズ・G・タンブラー君」

 クロの本名を知ってる!!?

「魔界の者…か」

 クロは警戒の目で相手を見ている。

 警戒されている側の男の子は、にっこりとして

「《ヒース》を取り戻す前に、挨拶くらいしておこうと思いまして」

と言った。

 どうやら《ヒース》についても知っているらしい。

 ……何だか不安になってきた。

「クロ…この人達知り合い?」

 クロは答えない。

 相手をじっと睨んでいる。

 男の子が笑う。狐色の柔らかい髪が小さく揺れた。

「そんなに警戒しなくても――ご心配なく。今日は挨拶に来ただけですから。紹介しましょう。僕はカシギ。そして――」

 カシギが傍らに座っていた狐を見遣る。

「妹のナユタです」

 狐が居たはずの場所には、いつの間にか、カシギにそっくりな女の子がいた。

 クロが口を開く。

「双子のカシギとナユタ……お前らが出てくるなんて――」

 言葉を探すように視線が泳ぎ、湧き出る謎のひとつを呟いた。

「《ヒース》って、一体何なんだ…?」

 カシギが嘲笑うように言う。

「おやおや。仕事の内容を理解していない上に、そんな事を敵に聞くとは。覚えてないんですか? あなたの小さい頃を…――」

 そこまで言って、二人は消えてしまった。

 クロが私の腕を引っ張る。

「鈴……後ろ…」

「あ…」

 言われるままに振り向くと、そこには美苗がいた。

 空はオレンジ色になりかけていた。

「クロ君て…何者?」

 美苗はそれ以上その事について質問することも、答えを聞くことも出来なかった。

 クロが――美苗が見たと思われる、さっきまでの記憶を消したから。


「もぉ~。鈴達がなかなか帰ってこないから来ちゃったよ」

「…解答、だったよね。ごめんごめん。今取ってくるから」

 解答を受け取ると、美苗は帰っていった。



 それから数日、何事もなく日は進み、

 私の宿題も順調に進んでいった。

 そして三十日――。


 * * *


 四、台風一過


 八月三十日(月)

  雨と強風


 クロの身長は私を抜いていた。

 今までのクロが「弟」なら、今は「兄」と言われてもおかしくない身長差だった。

「いきなりすごく伸びたね」

「ん。そろそろ来ると思うからさ」

「来るって…台風?」

 いま、私達の待ちには台風が近付いて来ている。

「違う。カシギとナユタ。もう忘れたのか?」

 ……そんな呆れ顔で言わなくても…。

 クロは身長だけでなく、髪も伸びていた。

 人間ではありえない急成長だったから、家族にも問い詰められたけど、そこはクロの能力で乗り切っている。

 私はまだクロの本名を呼べないでいる。

 呼ぼうとすると睨まれるし……。

「何で呼んじゃいけないの?」

 数日前に聞いた答えは、訳が分からなかった。

「まだその時じゃないから」

 …だって。

 「その時」っていつ?

 聞こうとした時には、窓から出ていった後だった。

 はぐらかされてばっかりで、何も知らないまま。ずるいよね…。

「何が?」

「えっ!?」

 何故か止まる時間。

 えっと……私、声に出してたっけ? 今の。

 クロも首を傾げている。

 二人とも状況が理解できていないみたい。

 この状況……前にもなかったっけ?

「……クロ?」

 恐る恐る聞いてみる。

「私、何か呟いてた?」

「いや、口は動いてなかった。…けど、鈴の声が聞こえた気がして……」

「反応したら、私からも《?》が返ってきた…てこと?」

 まとめてみたものの、分からない。

 無意識でも、人の心の声が聞こえてしまうって事なのかな。だよね?

 今更だけど……厄介かも。

「……」

 私を見ていたクロは、ため息をついて言った。

「鈴、おれがおれでなくなった時、その時は本当の名前を呼べ」

 いきなりそんな事言われても…。

 クロの目は、真剣だった。

 言ってることはよく分かんなかったけど。

「クロはクロでしよ?」

 そう言った私の言葉に、クロはかすかに目を丸くして、

「……そうだな」

 笑った。

「呼ぶときはシャルトでいい。この位、言えるだろ」

「うん」


 あの時、「訳分かんない」って顔してたけど、本当は――本当に嬉しかったんだよ。

 やっと認めてもらえた気がして。


 * * *


 夜になるにつれて、台風が近付いて来た。

 歩く道には、光は少ししか感じることができなくて、暴れる風と雨が足を止めようとする。

 町の中でもほとんどが山と空き地で出来ている場所に、長髪を後ろでくくり、風を避けながら辺りを見回す人影がいた。。

 クロだ。

 口からは呪文らしき言葉が聞こえる。

 突如、闇の中から現れた二人。カシギとナユタ。

「お久し振りですね、クロ君」

 カシギはクロを見た。

「あのお嬢さんは連れてこなかったのですね。まあ、お嬢さんの事を考えてでしょうが、あまり効果はなかったかも知れませんよ」

 クロの呪文が途切れた。

「どういう意味だ?」

 問い掛けにニッコリと微笑んで、カシギは説明を始めた。

「実はですね、クロ君――」

 ゆっくりとクロに歩み寄るカシギ。

「――《ヒース》というものは、君の中に眠っている、とてつもなく強大な力なんですよ。

 その力が一度だけ、目覚めてしまった事がありまして――」

 カシギが足を止めた。

 二人は、片方が手を伸ばせば届くほどにまで近付いていた。

 それでもクロは、じっと相手を見たまま動かない。

「街がひとつ、消えてしまったんですよね」

 カシギが右手を振り上げる。

 大粒の雨が一瞬の内に霧散した。

「その為に君の周りでヒースの話はされなくなったのですが……本当に覚えていないんですか?」


「ヒースを目覚めさせたのは――クロ君自身なのに…」


 雨が降り続いている。

 カシギは口を閉じた。

「それで話は終わりか?」

 クロの言葉にカシギは頷いた。

「とりあえずは…ですがね」

 カシギの手がのびた。

 どんな衝撃的事実でも、今のクロに確かめるすべは無い。

 クロが呪文を叫ぶ。

「《フラン》!!!」

 カシギの袖に火が付いた。



 その頃私は夢を見ていた。

 もう一人の私が台風の中を走っていく。

 後押しするように、風が後ろを付いてくる。

 町の山に近い奥の方――何かが光って消えた。




 * * *





 カシギの袖の火は、雨ですぐに消えてしまった。

 辺りを見回し、頭上に目をやると、木の上にいるクロを見つけた。

「残念でしたね。今のような術では、火傷ひとつ負わせる事は出来ませんよ。

 さぁ、どうしますか?」

「どうもこうも……教えてもらったからって『はいそうですか』って渡す奴がいると思うか?

      …ぅわっ」

 強風にあおられて、クロは飛ばされた。

「クロを助けて!!」

 思わず叫んでしまった。

 後ろについて来ていた風がクロに向かって飛ぶ。

 ぞわり…と悪寒が走った。

 ナユタが近付いてくる。

「たかが人間の小娘が、私達の邪魔をするの…?」

 ナユタの周りが黒い。

 うっすらと笑った顔が怖い。

 黙っている時の大人しい感じとは打って変わった彼女に、風と話す以外何も出来ない私は……その場から逃げ出した。



 木の上に引っ掛かる形で落ちたクロは、動くに動けず、取りあえず追って来た風を見た。

「――何でお前がここにいるんだよ」

『え……鈴さんに、「クロを助けて」って言われたからです』

「おれより鈴を守れっ! 何で言われるままにコッチ来てんだっ!!?」

 怒鳴った拍子に枝が悲鳴をあげて折れた。

 落ちかけた体を、風が拾い上げる。

『だから今から行くんでしょう?』

 風がふわりと笑った。



 「クロを助けて」と叫んで、ナユタに追われて、森の中に逃げ込んで……。

 地の利のおかげか、まだ追い付かれずに済んでいる。

「もぉ~! 風でもクロでもいいから早く戻って来てよ~!!」

 一瞬、暴れていた風が止まった。

「(この感じは……)!」

 私は木の後ろに隠れた。

 ちょうどその時、クロが飛ばされた時よりももっと強い風が吹いた。


 ………


  バシャッ


 ……


 空から降って来たクロが、ナユタの上に落ちた。

「く…クロ…?」

「…鈴!」

 どう声を掛けたらいいんだろう……。

 とりあえず上から退いてあげようよ――と、クロの下、ナユタを指し示した。

「……ん?」

 素直に下を見て、

「うわっ。誰だこれ!??」

 ナユタの上から飛びのくクロ。

 やっと動けるようになったナユタは、罵りながら起き上がった。

「何て事してくれたのよ。このまっくろくろすけ!」

「だ~れがまっくろくろすけだ!!」

「まあまあ、そこらへんで落ち着いて、二人共」

 声がした。

 ナユタが振り向く。

「お兄ちゃん…」

 そう、そこにはカシギがいた。

 カシギは軽くため息をつくと、

「泥だらけじゃないか、ナユタ。森の外でその泥、流しておいで」

と優しい声で言った。

 ナユタは素直に森の外へ向かう。


「さて、クロ君」

 ナユタの姿が見えなくなってから、カシギは話を戻した。

「僕としては、ヒースが目覚める前に取り戻したいのですが?」

「……やだ」

 なぜか返答に時間がかかったクロ。

 カシギはため息をついて、姿を消した。


 ――帰ったのかな…?


 淡い期待は背後から伸びて来た手で崩された。

「動かないで下さいね。クロ君があなたを傷付けられなくても、僕らは出来るんですから」

 愉しそうに笑う声。

 何を言っているのか、よく分からない。

 何をしようとしているのかは分かる気がする。

 ……分かりたくないだけで……。


 カシギの手にはいつの間にか銃が握られていた。

 それを私に向けて押し付ける。

 ――ちょっと待って……そんなの人に向けたら危ないじゃない!!

 逃げたくても、後ろ手をがっちりと取られてて動けない。

 カシギの声が近い。

 触れられている部分は熱が無かった。


 冷たい……


 痛い……


 怖い……


「クロ…」

 私は泣きそうなっていた。

「これでもまだ渡す気にはならないかい?」

「ならないね。ヒースもそっちには行きたくないってさ」

 そんな――。

「そうですか……それでは」

 カシギが手を動かす直前、クロが動いた。

「鈴! おれの名前、お前に預ける!」

 え?

 名前を…預けるって……?

 でも、カシギは考える時間なんてくれなかった。





 私は、カシギに撃たれて死んだと思った。

 思っていた。

 ――夢だった。

 パジャマは汗で濡れていた。着替えてから、家の中を探してみる。夢だったなんて信じられなくて――夢だったことを信じられない私と、夢であってほしいと願う私がいた。

「クロー…」

 みんな寝てるから、大きな声を出すわけにもいかない。

 家の中を一通り見回ったけど、クロはいなかった。

「まさか」

 信じたくないのに。願ってしまう。

 私は外へ飛び出した。台風なんて関係ない!

 雨も風も、みんな私の味方に付けながら、夢に出て来た場所まで走った。





「――消えましたね」

 カシギは手を緩めながら降ろした。

 鈴の姿は跡形も無く消えていた。

 今この場所にいるのは、クロとカシギの二人だけ。

「…ん? おれとあいつの二人だけ? おーいナレーション、一人忘れてねーか?」

「と、いうのはどういう事かな?」

 カシギの問い返しに、クロはにやっと笑いながら

「こういう事だよ」

 と言うと、叫んだ。

「出番だぜ、ヒース!!!」


 一瞬、ヒースの力が溢れ出て、星空が見えた。


「……ありがとう。クロ」

 ヒースはクロの体を借りてそう言うと、カシギを見据え、告げた。

「カシギ、クロが伝えてくれた通り、ぼくはそっちにはついて行かない。

 この体にも慣れちゃったし、無理矢理離されるのも嫌だから。君の方がこの世界から消えて?」

 疑問形でなくても、いくら笑顔で口調が柔らかくても、言ってる事はおっかないヒース。

 言われた側のカシギはというと、

「そうか、じゃあ仕方ないですね」

 と、あっさり承諾してしまった。

 下手に逆らうより、こちらの方がいいと判断したらしい。

「そうそう、教えてくれませんか?」

 思い出した疑問を投げかける。

「どうしてクロ君は鈴さんを人質に取られても、撃たれても、平気でいられたのか」

「あ、クロが驚いてる。『何であいつの名前知ってんだ!?』だってさ」

「なんでって……」

 カシギは呆れた顔で言う。

「クロ君、自分で叫んでたじゃないか。

 それで、僕の質問には答えてくれるのかな?」

 ヒースは黙っている。

 心の中でクロと話をしているらしい。

「『おれが平気でいられたのは、あいつが本物じゃないって事に気付いたから』だって」

「そうか……やられましたね」

 カシギは髪をかきあげながら言った。

「愛の力……なんだね? クロ君?」

「……あ、首振ってる。そんなに恥ずかしがらなくても」

『お前っヒース! どっちの味方なんだよ!!』

「もちろんクロの方。今はね」

『おい。今はって……』

 その時、遠くからクロを呼ぶ声がした。続けて悲鳴が。

「あ~ぁ。ナユタに見つかりましたね。

 いいんですか? 鈴さんを助けに行かなくても」

「関係ないよ。ぼくは誰の思い通りにもなるつもりはないから」

 右手をカシギに向けて掲げる。

「ま、運が良ければ戻って来れるんじゃないかな」

 指を鳴らす。

 カシギの体が、足元からゆっくりと消えていく。

 鈴が、(風に邪魔され走りにくそうにしている)ナユタに追われて走ってきた。

「お兄ちゃん!?」

「ナユタ。またどこかで会おう」

 砂の城が崩れるように、カシギは消えた。

「――っ!!」

 涙で潤んだ目で、ナユタはヒースを睨んだ。

 風が強くなる。

 ナユタが呟く言葉は聞き取れなくても、近くにいれば危険な事くらい、私にだって分かる。

 静かに木の後ろに身を隠す。

 ナユタの近くにあった木が倒れた。

 みるみる色を変えて崩れていく。

 禍々しい気を発しているナユタに対し、ヒースは――

「ふわぁ~」

 欠伸してました……。

「(ちょっとちょっとちょっと! 緊張感無い!!)」

 つい突っ込んでしまった。

 ついに抑え切れなくなったナユタの力が暴れ出した。と同時に消滅した。

「ばいばい」

 さっきまでいた場所に、ナユタの姿はない。

 夜の静けさが戻って来て、雨の音が耳が痛くなるほどよく聞こえた。

 ヒースはナユタまで消してしまった。

「で? 鈴、君はどうしたい?」

 私の方に振り向いたヒースが聞いた。

 ――どうしたい? そんなの決まってる。

「私は……クロを返してほしい」

 ヒースはおどけるように言う。

「ぼくも一応クロだよ?」

「違う。今、あなたの中にいるシャルトのこと!」

 クロ(ヒース)の動きが止まった。

「ぼくは…まだ、中に戻りたく  ない  の

  に …」

 苦しんでいるみたいだけど、どうしたら良いのか分からない。

 混乱しかけた私に声をかけてくれたのは、頭上を飛んでいた風。

『クロさんの名前を呼んであげてください』

 私は真っ直ぐクロを見て言った。

「戻ってきて。

 シャルトリューズ・G・タンブラー」




 * * *




 いつの間にか雨は止んでいて、台風が過ぎていったことを教えてくれた。

「はぁ~。星が見えるねぇ」

「そうだな」

 私と《小さいクロ》に戻ったシャルトは、家に向かって歩いていた。

「……今年の夏休みは色んな事があったなぁ。クロが来てくれたおかげで、苦手だった日記も書けたし」

 その時聞こえたクロの言葉。

「鈴、ありがとう」

「え?」

 振り返った時には、そこにクロの姿はなかった。

「……帰ったのかな」


 「ありがとう」

 クロが初めて私に言った言葉は、別れを告げていた。

「(明日からは少し、寂しくなるかもね)」

 だけど、そんな事を思いながらも、心は軽かった。






 * * *


 五、灰色の男の子


 三年後……。


「で、クロ君から手紙とかは一度も届いてないんだぁ~」

「うん」

 届くはずがない。

 私達は別々の世界に住んでいるのだから。

 クロが姿を消して、色んな事を聞かれたけど、美苗達には、クロは自分のいるべき場所へ帰ったと説明した。

「じゃあ鈴、ばいばい」

「うん。ばいばい」

 美苗が帰った後、私は空を見上げていた。

 もうすぐ夏休み。

 青く澄んだ空には白い雲が浮かび、黒い人影のようなものを見た日の空と同じだった。

 遠くからの雷鳴が聞こえない。

 ただ、それだけの違い。


 家に着くと、玄関先に一羽のカラスがいた。

 近付いていっても逃げたりせずに、じっと私を見てる。

「おいで」

 私が手を差し出すと、烏はその上に乗ってくれた。

 しばらくカラスを見ていた。

「クロなの?」

 カラスは私の手から離れると、喋った。

「そう。おれなんだけど、もう《クロ》じゃなくて本当の名前で呼んでくれないか?」

 人型に戻った時の表情は、柔らかい笑顔だった。

 小さいクロ……。

 三年前の夏休みの記憶が甦る…。

 帰ってきてくれた彼を、私も笑顔で迎えよう。

「おかえり。シャルト」











 Heath夏 終





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