第三章 青い罪、重い罰
第三章 青い罪、重い罰 1
都市局内部の奥深くにある広い道場は、汗と血と異臭と熱気で充満している。
天井が近い。ふわっと体が浮く感覚ももう何度目か。
瞬間、背中を打ち付ける衝撃に襲われる。
「っ!」
「おい、レイ! やる気あんのか、お前は!」
竹刀をしならせて怒鳴るのはハチだ。いつもはかったるそうな顔をして仕事をしているくせに、俺に稽古をつけるときだけは極端にイキイキとしているので腑に落ちない。
俺は背を打ち付けた痛みで動けない。いや、動きたくない。すぐに疲れも痛みも吹っ飛んでいき、筋肉もすぐに動ける準備をしている。けれど、動きたくない。
「レイ!」
腹に竹刀の先端を突きつけてくるハチ。俺はえずくことで返事した。
「うっ……もう、いやだ……」
「あっそう。んじゃ、明日はぜってぇ助けてやらねぇ」
明日──明日の実戦で俺を生贄にするつもりだ。ハチの顔が狂気的な笑みでいっぱいになり、俺は血の気が失せた。
あの初日の地獄からすでに一週間はこの調子で脅されては、十七時から十九時くらいまでみっちりしごかれている。ひどいときには何度か死んでる。
仕方なく立ち上がり、転がっていた刀を持つ。実戦ですぐ使えるようにと稽古では刀を持たされている。
ただ、ハチを斬ればいい。それだけ。それだけなのに、一度も勝てない。
「ちょっとは手加減してよ」
「はぁー?
つい泣き言を言えば、すぐにバカにしたような声が返ってくる。
「お前、死にたくねぇんだろ。だったら死ぬ気で来い」
言ってることは理解できる。でも、ストレスでどうにかなりそうなんだよ。
刀を振るう。そろそろ太刀筋はつかめてきた。あとはハチを斬るだけ……が、やはりかわされ、俺はそのまま突っ込んでいき、つんのめった。
「お前、そんなもんじゃねぇだろ! 本気で来い! ほら!」
ハチが竹刀で床をバシバシ叩く。脇で休憩している局員たちがそそくさと出ていく。
俺は床に突っ伏してハチを睨みつけた。
鬼め……。
現世だとすぐに訴えられて解雇されるパワハラ上司だろう。だが、あいにくここは日本の法律がほとんど通用しない、暴力には暴力で解決する異界である。おまけにいくら人間や妖怪に半殺しにされようが絶対死なないような仕組みになっているので、俺が市局の上層部に掛け合っても無意味なことはすでに明らかだ。一度、ノウさんに助けを求めたら一蹴されて終わったし。
とにかく、この鬼を黙らせるには──やっぱり俺が強くなって
***
冥路荘に帰り、自室に倒れ込む。疲労がないので奇妙な感覚ではあるが、異界に来た時よりは筋肉のつき方が変わっているような気がする。
こんな生活を続けていたら現世に還ったとき、やっぱり頭バグりそうだな。向こうに還ったら簡単に死ぬんだし、この無限残機状態に慣れるわけにいかないな。でも、簡単に命を捨てられるくらいの気概がなければ、ハチを倒すことはできない。悩ましい。
そんなことをぼんやり考えていると、ふすまが無遠慮に開いた。
「レーイ」
人懐っこそうな声。キュウだ。
俺は倒れた格好のまま無視する。
「おかえり、レイ! なんだ、またハチにやられたん? かわいそうだなぁ」
よしよしと頭を撫でつけられるのも束の間で、すかさずパーンと後頭部を叩かれた。
「銭湯行こうぜ!」
「嫌だ」
「なんで」
「お前と一緒には行きたくない」
「なんで!」
信じられないといった声で言うキュウが顔を覗き込んでくる。俺は絶対に顔を上げずに畳に突っ伏しておく。せめてもの抵抗だ。
「セクハラしてくるからやだ」
「もうしないってば!」
俺のふてくされた声に対し、キュウはその場で土下座する勢いでしゃがんだ。
それはつい先日のことである。キュウが同じ冥路荘に住んでいるという情報があり、ちょうど帰りが同じ時間になったこともあって銭湯へ出かけた。そこであったことはあまり思い出したくない。
「別にさ、ちょっとからかっただけじゃん。オレがいた現世ではみんな銭湯行ったら遊ぶしさ、普通だと思ってたんだよ。お前、友達と銭湯に行ったことあるか?」
「ないけど……」
でも、湯船の中でくすぐってくるのはダメだと思う。危うく溺れるところだったんだから。
なおも顔を上げずに抗議していると、キュウは仕方なさそうにため息をついた。
「あーもう、はいはい、わかったよ! じゃあオレだけ行ってくる! こんな時間に一人で出歩いて
キュウはピシャリとふすまを閉めて出て行った。なんか後半はあいつもふてくされてたな。
ようやく静かになったので、もぞもぞと起き上がる。すると、さっきまでなかったはずの夕飯がちゃぶ台に置いてあった。これ、いつも思うけどいつの間に誰が運んできてるんだろう。
今日のメニューはトンカツとキャベツ、麩とワカメの味噌汁、白米、たこの梅肉あえだった。
全身汗で気持ち悪いけど、先に飯を食べて風呂に入るのがルーティンなので、きちんと座って手を合わせた。
「いただきます」
この世界のいいところは、メシがうまいことだ。
夕飯を済ませてから風呂桶とタオルを抱え、銭湯へ向かう。
最寄りの銭湯は冥路荘から五分歩いたところにある路地裏内にひっそり佇んでいる。出入り口が狭いのと男湯しか存在しないので、この細い道には女人の出入りがまったくない。そのせいか、妖怪たちがはだけた格好で存在するので目のやり場に困る。
そろそろキュウも出た頃だろう。パイプと室外機と階段でひしめく建物の裏、錆びついたアルミサッシのドアの前に〝湯〟と書かれた白抜き文字と蛇が描かれた青い暖簾がかかっている。銭湯まむし湯。ドアを開けると、居眠りしている禿げ番頭と長い暖簾が迎えてくれる。番台のすぐ横には下駄箱があり、下駄や靴が雑多に置かれているので、ブーツを押し込んで中へ。暖簾をくぐった先には脱衣所と扇風機と体重計とコーヒー牛乳の冷蔵庫が敷き詰められている、昔ながらの銭湯である。
ちょうどキュウが浴衣に身を包んでコーヒー牛乳をあおっていた。
片手を挙げるキュウに、俺も控えめに返した。
さて、今日はのんびり湯船に浸かろう。
引き戸を開けるとすぐ硫黄ではない、薬草をふんだんに使った湯気が顔を包み込む。タイルの中を進めばすぐそばに流し場があって、老体の妖怪や異形頭の人間などが体を洗っていた。俺も彼らにならって洗髪し、手早く体を洗って湯船に。
とにかく狭い銭湯なので、横よりも縦に長く、そして深い。一応、腰掛けがあるものの誰かに足でも引っかけられたり、わざとくすぐられでもしたら深い浴槽に沈むほど危険である。
しかし、今日は俺を脅かす者はいないので平和だ。ハチに痛めつけられた体とメンタルを労ろう。
程よい湯加減が体の芯まで及ぶ。湯船の先にある壁を振り返ると、入道雲と太陽といった現世の夏空が映し出されていた。昨日は花火が上がる夜空だったのに。
「この壁画は毎日色を変えるんだよ。生きてるからな」
俺の不思議そうな視線を見てか、横にいた老体の小鬼が眼鏡を曇らせながらしみじみ呟いた。
「現世にいたこの銭湯の先代が、現世の風景を懐かしんでねぇ。絵師に依頼して作らせたんだとよ」
「はぁ……つくづく不思議な世界だ……」
俺は感心しながら湯をすくって顔を洗った。
そうして、のんびりと湯に浸かって平和な気分でいられるかと思いきや、まったく今日は災難が続くらしく、風呂から上がったあとにすぐ現実へ引き戻された。
浴衣に着替えてコーヒー牛乳を飲もうと思ったそのとき、外が騒がしくなる。居眠り番頭が鼻ちょうちんを弾かせて起きるほどの騒がしさ。ただならぬ怒号や、ガラスの割れる音が近づいてくる。
「
誰かが叫ぶ。
「おいおい、しかもデカイのきた!」
「逃げろ!」
「逃げろったって、どこに逃げるんだ!」
「市局の連中は!?」
その言葉で、妖怪たちが全員俺を見る。
「おい、兄ちゃん、やつをやっちまってくれ」
「えっ」
「こやつ刀持ってるぞ」
「やってくれ」
「頼んだよ」
俺よりも遥に大きな鬼や獣たちに囲まれ、あれよあれよという間に裸足のまま外へ放り出される。
「ちょっと!」
市局の者でも、俺は
という訴えは聞き入れられない。銭湯から締め出された俺は、刀を握って
左右を見回して訝った。
「本当にいるのか……?」
ジリっと一歩進めば、ガラスの破片を踏んだ。道の先に下駄や風呂桶が転がっている。逃げた妖怪たちが置き忘れていったのか……違う。
「……っ!」
見れば、点々と赤い血が少量落ちていた。上から滴り落ちてくる。ピチャピチャと一定のリズムで落ちるそれを辿るように見上げれば、壁を這う黒い節足の獣──熊ほどの大きさ──がいた。口と思しき部分から妖怪の素足が見えている。
そいつは俺の姿には気づかず、壁を伝って上の階へ行こうとしていた。パイプをちぎり、ガラス窓を蹴破り、室外機を破壊する。埃とガラス片がパラパラと降りかかり、俺は呆然としてしまう。
どうしてあんなサイズの
いや、考えていたら死ぬ。
ヤツはすでに何人かの妖怪や人を食った化け物だ。
刀を抜き、
でも、被害が少ないこの路地裏でどうにか仕留めたいところ……。
俺はおもむろに、ハチ仕込みの口笛をぴゅうっと吹いた。すると、
「さぁ、来い」
やれる。ていうか、やってやる。これができなきゃ、どのみち俺は現世に還れないんだから。
息を吸って、
狭い場所だが、足を切って首を落とせば問題ない──はずだ。
金属をこすったような甲高い悲鳴が辺りを蹂躙した。その音のおかげか、上の階にいた連中が騒ぎ出す。
「
「逃げろ!」
「そこをどけ!」
聞き覚えのある声が切迫したように叫ぶ。そして一筋の閃光が走ったと思えば、
そうしてただただ呆気にとられて佇んでいると、向こうの手すりにキュウが薙刀を持って立っているのが分かった。
「おぉ、お前もいたのか」
キュウも俺に気が付く。
「……なんで、俺の手柄、横取りするんだよ」
「だって、誰もいないと思ったんだもん」
悪気なく言うキュウは、薙刀についた粘り気のある業魔の体液を振り落とす。対して、俺は大損を食らうと同時に
「最悪……」
「まぁまぁ、また風呂入ればいいじゃん。オレも汗かいて、またひとっ風呂浴びたいし」
「だから、お前と一緒は嫌だってば!」
全力で断るも、キュウはゲラゲラ笑うだけでまったく聞き入れてはくれなかった。
***
「──で、まんまとしてやられたと」
翌日、銭湯付近で出た
今日も冥路荘を出てすぐの門の前で待機しているハチの顔を見て、俺はげんなりとするばかり。一方、ハチも相変わらずのどんよりと淀んだ空気をまとっている。
「悔しくねぇのか、お前は」
「そりゃまぁ、そういう気持ちはあるけども」
「じゃあ、なんでさっさと仕留めなかった?」
「それは……」
緊張していたかもしれない。まだ自分ひとりで仕留めたことがないので、今がチャンスかもという期待もあったし、あとは
だが、そんなことを言えばハチは笑うか怒るかのどちらかだ。なので、言わない。
プイッと顔を背けると、ハチは俺の頬をぐいっとつかんだ。
「まだまだ自覚が足らんようだなぁ。
「分かってるってば! 痛い!」
ぐいぐい頬をつねられ、思わず手で払うとハチは「フン」と鼻を鳴らした。
「ま、お前がどうなろうが、俺の責任にはならないからいいけどさ」
そう言って話を終わらせるのが常なので、もう蒸し返さないようにすればいい。
ハチと数日一緒に行動するだけで、いろいろなことが分かってきた俺は、とにかく大人しく従うことに徹していた。
まぁ、逆らっても逆らわなくても稽古でいじめられるので、この方針に意味があるのかと問われればうまく答えられないが。
「よし、今日も市内回って、何もなければ稽古な。逃げんなよ」
「はい……」
逃げてもすぐ捕まえて何度も殺すくせに、とは口が裂けても言えない。
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