第二章 生還希望者と業魔 3
地面に爪を立てても、あまりにも強靭な威力で俺を飲み込もうとしてくる化け物。
体をひねってそれをよく見やれば、この植物の
──
急激に全身を怖気が走った。
「あぁぁぁぁっ!」
恐怖のあまり悲鳴を上げた。無我夢中で短刀を地面に突き立てる。そのおかげでヤツの力が止まる。その隙を突くように左足首に巻き付く舌を、右足で蹴飛ばした。
この
ハチのいる場所が安全なのか。そう思って俺はまっすぐハチの元へ向かい、彼の胸ぐらを掴んだ。
「おい! どういうことだ!」
「おぉ、猫かぶりタイム終了?」
「ふざけんな!」
ハチの涼しげな顔を睨みつけるも、彼はどこ吹く風でタバコを蒸す。
「あれに食われたら死ぬって、今頃言うんじゃねぇよ!」
「しょうがないじゃん、忘れてたんだから。つーか、俺らがどうしても
そう言われてしまえば俺のおめでたい脳みそを呪いたくなるが、怒りのほうが今は圧倒的に強い。しかし、ハチをこの場で殴りつけても意味がない。
彼は俺の向こうにいる
「はい、休憩終了」
「こいつ、弱点とかないのかよ!」
「それを探すのも練習、かな」
「くそ!」
しかもこの短い刀であの花を切り刻めるとは到底思えない。だが、午前中に遭遇した小さな
花の裏側に忍び寄る。不思議と息は荒れないので、気配を消すことだけを徹底した。近づく。短刀で茎を切るイメージをする。じりじりと近づく。
しかし、
「あ……っ」
目が、合う。
体が動かない。短刀を持つ手が震える。
これに食われたら死ぬ。それは、どういう意味か。俺はまだ死んでいないらしいが、こいつに食われたら死ぬ。それはつまり、この体も感情も記憶も、すべてが抹消されるということ──?
花弁がぱかっと開く。粘着質な肉があらわとなり、みちみちと音をたてて花弁を剥く。
その瞬間、背後からハチが大太刀を振るう影が見えた。
一陣の風が顔に当たる。
ハチは
やがて、ハチは大太刀を振って
「……実戦じゃお前はすでに食われてるな」
静かに言われる。何も言い返せない。
彼は地面に降りて、今しがた斬った断面を見せてきた。
「でも、いい線いってたよ。ただ慎重すぎた。あの程度のやつなら、その短刀でも充分だし。ほら、この茎が細いからな。お前の力だけでも割と簡単にやれた」
俺はその場でしゃがみこんだ。今になって膝が震え、立っていられなくなった。恐怖が全身を支配する。そんな俺に対し、ハチは同情するでもなくタバコを満足そうに蒸している。
「食われたら、お前の肉体も精神も魂もすべて消える。ヤツらの血肉や栄養となり、生まれ変わることはできなければ、無論、現世への生還も不可能だ」
タバコを口から離し、紫煙を吐きながら彼は無情に言った。その背後、遠くにも邪悪な植物が生息していることに気がついた俺は周囲を見渡す。
ここは危険地帯。先ほど退治したサイズの
俺の視線に気づいたハチはフッと笑いながら、吸い殻を地面に落として踏み潰した。
「ここはさ、現世との境界が近い。ほら、上を見ろ」
人差し指をスッと上に突き上げるハチ。その声に従うように見上げると、黒い根がゆっくりと降りてきていた。
それは初めてこの世界に来たときにハチから見せられたものと同じだった。
「
降りてきた根がゆっくりと確実に異界へ根を張り巡らせる。この平原にも、都市の外にも。それは植物だけでなくさまざまな形となって降りてくる。
「育ちすぎると現世にも影響が起きる。自然災害のほとんどがそれだ。地震が多いのはこいつらが暴れてるせいらしいよ」
ハチは呆れるように言い、首を鳴らした。そして黒手袋をはめた手で俺の脇を抱えて立ち上がらせる。
天が近くなれば、現世にいる人間たちの足に何かが巻き付いているのが見えた。そう、現世の様子が透けて見えてくる。人間たちが生み出す〝業〟は、この世界にとっても現世にとっても悪影響を及ぼす。
この途方も無い事実に、俺は何も言うことができない。
「いいか、レイ。
何も考えられない脳内に、ハチの言葉が吸い込まれていった。
***
最上階の
都市の下層へ降りても、俺は一言も口をきかなかった。これにハチは困ったように頭を掻き、何も言わなかった。
妖怪と人間が行き交う商店街を通り抜ける。あの恐ろしい空間と隣合わせなのに、この都市はとてものんびりとにぎやかだ。
しばらく長いカーブを行き、店を冷やかして歩いていけばまた違うエリアに入った。今度は木々が鬱蒼としげる人工的な森の中で、提灯がふわふわ浮かびながら俺たちの足元を照らす。
「おい」
先を行くハチが唐突に声をかけてくる。俺は気が乗らず、無視する。
「おいって、いつまでふてくされてんだ、クソガキ」
そう言って、ハチが俺の額をバチンと弾いた。
「ってぇ……何すんだよ」
突然のことで、しかも痛覚を感じて驚く。前を見ると、森の出口に明るい屋台が広がっていた。
「なんか買って帰ろうぜ。腹減ったろ」
そう言って、彼は子どものように笑った。
左右に広がる木板の道に、妖怪たちが屋台を出して食べ物を振る舞っている。道行く人たちが屋台に吸い寄せられ、小さな妖怪の子どもたちも楽しげに走り回っていた。
この光景に、俺はひどく懐かしさを感じていた。
あれは小学三年生くらいの夏休み──祖父母の地元は山奥の村で、そこで小さな祭りが開催されていた。妹と二人、祖父母に手を引かれて屋台の道を歩いた。もうとっくに忘れたはずの思い出が蘇ってしまい、俺はただただ呆然としていた。
「レイ! レイ! 面白いやつある!」
ハチは俺の心を読み取ることなく楽しげにはしゃぐ。
「子どもかよ……」
つい呆れて言う。ハチはダッと駆け出し、そしてすぐに帰ってきた。
なんの断りもなく俺にひょっとこのお面をかぶせる。自分は狐のお面を頭につけていた。
「あははは! 間抜けな顔!」
ひょっとこ顔で佇む俺を見てか、ハチがゲラゲラ笑う。俺はイライラする。
お面を取ると視界が広くなり、ガヤガヤとにぎわう道のど真ん中、目の前にいるハチは、わたあめとりんご飴を両手に持っていた。
「全力で楽しんでんじゃねーよ!」
ついお面を地面に叩きつけながらツッコミを入れると、ハチはわたあめにかぶりつきながらキョトンとした。
「いーじゃん、別に。俺も久しぶりに来たんだよ。あ、焼き鳥!」
わたあめを口に押し込んで、焼き鳥の屋台へ目を向けたハチはりんご飴を俺に押し付けた。
まったく、幼子でもまだ大人しいぞ。駆け出すハチを仕方なく追いかける。
焼き鳥屋の露店。顔を布で隠した鬼が無骨な手で器用に焼き鳥串を炙る。肉が焼ける匂いと煙が俺たちを包み込む。
「よう、旦那。つくねとモモをくれ」
ハチの言葉に鬼は「はいよ!」と返事し、店のカウンターに置いた大皿からぶりぶりとした肉の串を掴んだ。じっくりとあぶられていき、こんがりと表面に焼き色がついていく。それを見ていると腹がぐぅっと鳴り、唾液が口いっぱいに広がった。
「おじさん、俺も。同じのちょうだい」
「はいよー!」
じっくり炙られたモモ肉の串を二本、つくね串を二本、鬼が差し出してくる。支払いをしハチとふたり、かじりながら歩いた。
鬼の手では小さい串だが俺たち人間には大きく、一口で頬張るのは困難だ。食べごたえのある肉は鳥なのかなんなのか判断がつかないが、うまいことには変わりない。口の中に広がる脂が熱く、舌をやけどしそうになったがそれでもかぶりつく。
どこかからかピーヒャラと笛の音がし、祭りは一層にぎやかになってきた。子どもたちが風車を持って足元を駆け回る。
「あ、ハチ! レイ!」
前方から美少女が俺たちを指差してきた。
「おう、アマナ。今日はよく会うな」
ハチが機嫌よく手を上げる。彼はすでにモモを食べ終え、つくねを頬張っていた。
「急に焼きそばが食べたくなって来たんだけれど、まさかあんたたちも来てたとは」
「俺たちもそんなとこだよ」
その返答に、アマナはふふふと含むように笑う。
俺はおもむろにりんご飴を彼女に渡した。
「わ! ありがとう!」
袋に入ったりんご飴は透き通った赤。こういうのはかわいい女の子が持っている方がいい。
アマナはさっそく袋を取って、りんご飴を美味しそうに舐めた。
「それ、俺のりんご飴なんだけど……」
ハチが困惑気味に言うも俺は鼻を鳴らして無視する。この様子に、アマナは何か察したのかニヤリと笑った。
「んじゃ、せっかくだし私もついていこーっと」
ハチと俺の間に入るアマナ。それからまたしばらく道なりに歩いていくと、ハチが「お!」と声を上げた。指差す方向には射的の屋台が。
「行ってくれば」
俺が呆れて言うと、ハチはダッシュで向かった。俺とアマナはゆっくりと人波をかき分けながら行く。
ハチは狐の妖怪から射的用の銃を渡され、的を狙っていた。
「ていうか、ハチは射撃うまいから……」
そう思って口に出すと同時に、ハチが三発連続で的に当てた。景品がハチの手元に置かれる。
そんな彼の様子をぼんやり眺めながらアマナが口を開いた。
「しかし、ハチが元気そうで安心だわぁ。レイくんが来てくれて良かった」
「ん? どういうこと?」
聞き捨てならないので訊くと、アマナは大きな目をチラリとこちらに向けて笑った。
「まぁ、いろいろあったのよ」
濁されてしまう。俺は「なんだよ」とつまらなくなり、ハチの背中を見つめた。
「この祭りね、年中やってんのよ」
アマナが話を変える。俺は「へぇぇ」と生返事。
「ハチも昔は上司と一緒に来てたんだよね。そのとき、いつもあいつはふてさくれててさ、任務に失敗したか怒られたかのどっちかだね、あれは」
「ハチにもそんな時期があったんだ」
「そうよ。誰だって初心者なんだからさ。ま、今日ここに来たってことは、あんたを慰めるためなんでしょうね」
アマナが含み笑いをする。俺は彼女とハチを交互に見つめた。
ハチが景品をどっさり抱えて帰ってくる。
「やー、大漁大漁!」
「やだこれ、ほとんどタバコじゃないの」
すかさずアマナが呆れる。俺は腕を組んでじっとりとした目でハチを見た。
「まぁまぁ、いいじゃないか。ちょうど切らしたとこだったんだし。あ、でもほら」
大漁のタバコの箱からキャラメルを探り当て、箱を俺にポンと投げてくる。あわててキャッチすると、ハチは笑いながら言った。
「やる」
「え、私のは!?」
すかさずアマナが抗議した。しかし、ハチは目を瞬かせるだけ。
「は? ないよ?」
「なんで!? かわいい私にその態度は何!?」
「自分でかわいいとか言うあざとい女は俺の趣味じゃねぇ」
冷たく一刀両断するハチの言動に、俺は噴き出しそうになった。それに気づかないアマナは袖をまくってハチを睨み上げる。
「ほんっとかわいくないわね、ハチ! 殺す! お前、絶対いつか殺してやるからな!」
「ほぉぉ、やってみろ。やれるもんならな」
バカにしたように目を見開くハチ。顔を真っ赤にするアマナは柄杓を掲げて殴りかかるも、あっさりかわされていくので、俺はもう耐えきれずに笑った。
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