【7】時間よ止まれ

池田春哉

時間よ止まれ

「笑って、って言われたから笑ったら、今度は笑いすぎだって。笑顔の調節なんかしたことないよ」

楠谷くすたにさんはそのままでいいと思うよ」

 自分の頬をぐにぐにと触って笑顔の微調整を試みる楠谷さんは「できるに越したことはなくない?」と言った。彼女の向上心は留まるところを知らない。

佐伯さえきくんはもう卒業写真撮り終わった?」

「いや、これからだよ」

「練習しといたほうがいいかもよ。絶妙な笑顔の分量を求められるから」

「どれくらいの?」

「新居のお隣さんへの挨拶以上、十年来の親友との再会以下」

「難しいなそれ」

 だよね、と楠谷さんは笑った。やっぱりそのままでいいな、と僕は思う。

「でもさ、お別れに写真を残すのはいいよね。また会いたくなる」

 ぐにゃと歪んだ唇から、ふと呟くような声が漏れた。開けっ放しだった扉から担任が顔を覗かせて「次、木暮こぐれから斎藤さいとうは体育館へ」と声をかける。僕は次の回のようだ。

「会いたくなる?」

「うん。だってこのクラスのほとんどは、もう来年には会えなくなるわけだよね」

 ぐるりと見回す彼女の視線をなぞるように僕は教室を眺める。飽きるほど見てきた顔と聞き馴染んだ喧騒。卒業写真を撮る順番が来るまでは自習、という指示だが、入試が終わった今それに従う者はいない。

「今はどれだけ見知った顔も、会わないとゆっくりゆっくり薄れてく」

 薄れていく。その言葉には恐怖に似たものを感じた。

 でも、きっとそうなのだろう。いつだったかの彼女との話を思い出す。

 別れと出会いを繰り返すのが順調な人生。

「でもそのときに写真があれば鮮明に思い出せるでしょ? 顔だけじゃない。賑やかさとか雰囲気とかも一緒にね。そしたらさ、また会いたくなると思うの。会おうとさえ思えれば後は何とでもなる。今はいろんな方法で繋がってられるからね。だから始まりが大事なんだ」

 確かに彼女の言う通りだ。

 SNS時代の今、みんな誰かとどこかで繋がっている。あとはそれを手繰ろうとする意志だけ。

「写真はお別れのためじゃなくて、もう一回会うために撮るんだよ」

 彼女は優しい声でそう言った。そうだといいな、と僕も思う。

 だってこの別れがまた出会うためのものだとしたら、何も怖くないから。

「その考えは素敵だね。僕も賛成だ」

「でしょ?」

 思ったままを伝えると、楠谷さんは得意げに笑った。



「というわけで、はいチーズ」

「え」

 突然目の前に現れたレンズと軽快なシャッター音。

 あまりの不意打ちに僕が硬直すると、跳ねるような笑い声がレンズの向こう側から聞こえた。

「あはは、間抜けな顔」

「いや、今のは仕方なくないか」

「そんなんじゃ最強になれないよ?」

 楠谷さんは口元に笑顔の余韻を残しつつ、レンズのように丸い目で覗き込むようにする。その顔が思ったより近くて直視できず、僕は視線を逸らした。彼女はもう一度笑う。

「もし壱西いっせい高校落ちてたらこの写真見て佐伯くんのこと思い出そ」

「縁起でもない」

「冗談だって。これはそういうのじゃないよ」

 彼女は言いながら手元のスマホを見て微笑む。僕の間抜け顔がそんなに面白いだろうか。

「じゃあ何のため?」

「え、うーん」

 少し何かを考えるような素振りを見せる。そして、なんだか少し困ったような表情を浮かべながら楠谷さんは口を開いた。

「……それは秘密」

「ええ……?」

「なんでも言葉にしてもらえると思ったら大間違いだよ?」

 にこりと笑う楠谷さん。

 それを見たとき、少しだけ彼女の気持ちがわかった気がした。

「時間よ止まれ」

「え?」

 カシャ、と僕の手元のスマホからシャッター音がした。四角に切り取られた彼女が保存される。慌てたように楠谷さんはこちらに手を伸ばす。

「ちょっ!」

「おあいこだよ」

「消して!」

「墓まで持ってく」

 僕のスマホを奪おうとする彼女の手から逃れるように僕はポケットにスマホをしまった。

 そのとき教室の入り口から担任が顔を出して「次、佐伯から谷川たにかわは体育館へ」と指示があったので、これは好機と立ち上がる。楠谷さんは「逃げるのか!」と不満を口にしたが、僕は「笑顔の調節してくるよ」と教室を出た。

 何人かのクラスメイトと一緒に体育館に向かいながら、僕はこっそりと先程撮った写真を見る。

 春の木漏れ日のようにやわらかく微笑む彼女。口元が緩むのを感じる。あのとき咄嗟にシャッターを切った自分が誇らしい。

 その笑顔は、いつか忘れてしまうにはあまりに勿体なかったから。



(了)

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