湖の怪物

武州人也

UMA

 その日、俺は湖畔の道をふらふら歩いていた。傍から見れば、俺の姿は夢遊病者のように見えたに違いない。

 昨日、彼女と別れてからというもの、何も手につかなかった。今日は大学に行く気にもなれず、誘われるように着の身着のままで外に飛び出した。

 空を見上げると、赤い夕陽が青黒い夜闇に飲み込まれようとしていた。目の前では、小学校低学年ぐらいの男子がわちゃわちゃと遊んでいる。


「なぁ知ってるか? この湖、でっかいドラゴンがいるらしいぜ?」

「えー何それー」

「ドラゴンっていうか、ネッシーみたいな恐竜だろ? 聞いたことあるぜ」


 今まで知らなかったが、この湖にはUMA伝説のようなものがあるらしい。

 そんな話をしてないで、そろそろ子どもは家に帰れよ、なんて思っていると、子どもの一人がどぼんと湖に落っこちてしまった。


 ――助けなければ。


 ほとんど反射的に、脚が動いた。俺は上半身裸になると、土の地面を蹴って湖に飛び込んだ。湖の水は身震いするほど冷たかったが、今は冷たさに負けている場合ではない。

 少年の体は想像してたより重かったが、高校時代に重量挙げの選手だったおかげで、力には自信がある。わきに手を回して抱きかかえ、何とか岸に持ち上げた。


「お兄さんありがとう」


 そんな感謝の声を聞きながら、俺も続いて岸にあがろうとした。


 そのときだった。


「なっ……!」


 何かが、俺の右足にかじりついた。びっくりした俺は、左足で噛みつくものの頭を蹴りながら、右脚に目をやった。


 黒々とした体に、丸い目、そのひょうきんな顔立ちは、ウナギそのものだった。頭の大きさからして、アナコンダのような体格をしていることは明らかだ。


 ――これが、UMAの正体か。


 俺の上体は、何とか岸まであがった。だが巨大なウナギは右足にがっつり噛みついて離さない。気づけば、ふくらはぎの中ほどまでが、すっぽりウナギの口内に収まっている。


「このっ!」


 このままでは食われる……俺は左足でウナギの頭をがんがん蹴ったが、全然口を離してくれない。ずるっずるっと、俺の右脚はどんどん飲み込まれていく。子どもたちはわぁわぁ騒ぐだけで助けてはくれない。当然だ。こんな怪物相手に子どもでは何もできまい。

 どうすればいい……相手はサメでなくウナギだが、このまま俺は映画「ジョーズ」みたいに食われてしまうのか。


 ……そのとき、俺はすぐ近くにラグビーボールのような大きさと形をした石を見つけた。俺は地面に転がるそれをむんずと掴み、ぶるんと振り上げた。


「離せよ!」


 俺は石を思いっきり振り下ろし、ウナギの頭を強打した。その衝撃からか、ようやくウナギは口を離してくれた。ウナギはちゃぷん、と水中に潜って、どこかに泳ぎ去っていった。


 それが、俺とあいつのファーストコンタクトだった。


***


 それから、十年の月日が経った。地元の市役所に勤める俺は相変わらずの男やもめで、職場と自宅を行き来するだけの生活だった。

 そんな俺は今、とある水族館に来ている。淡水魚水槽の中に、黒くて細長い体の生き物が泳いでいる。


 先日、とあるニュースが俺の耳を驚かせた。


「湖で体長五メートル四十センチのオオウナギ発見!」


 例の湖で、今までにないほどの巨大なオオウナギが何匹も見つかったというのだ。九州の河川や湖には、しばしばオオウナギが発見される。大きいものでは二メートルを超えるオオウナギであるが、五メートル超えの個体は前代未聞だ。新種なのではないか、と学会を騒がせている。

 見つかった個体はほとんど衰弱していたが、奇跡的に一匹だけ弱っていなかった。その個体が水族館に運ばれ、今こうして展示されている。


 悠々と水槽の中を泳ぐオオウナギ。その頭頂部には、えぐられたような痛々しい傷痕があった。それを見て、あの日の格闘が、ありありと俺の脳裏に思い起こされた。


 ――俺たちは、あんな出会い方をすべきでなかった。


 人間と動物は、しばしば互いにとって不幸な遭遇をしてしまう。ときには、命にかかわるようなことにさえなる。俺もあのとき、本気で食い殺されるのではないかと思っていた。

 

 しばらくオオウナギを眺めた後、俺は水槽の前を去った。


 搬入されたオオウナギは、二年後の夏に死去した。それまでの間、話題を呼び込んだあのオオウナギは、お客さんたちに愛されその目を楽しませたのだという。

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