第9話
金曜。
いつもの電車に乗り込んだ慎吾。マイに近づくと、彼女は掴んでいたポールを離し、慎吾の腕に掴まった。
「おはよう、お兄ちゃん」
親しげな微笑み。
さすがに周囲の目が気になる。乗り合わせているのは、だいたいいつも見かける面々だ。
サラリーマンが女子高生に「お兄ちゃん」などと呼ばせて、ベタベタしているのだ。乗ってくる駅が違うのだから、本当に兄妹だと思っている人間はいないだろう。赤の他人のずっと年下の女の子に、お兄ちゃんなどと呼ばせている、ヤバイ奴だと思われているに違いない。
かといって、腕に甘えてくる少女を冷たく突っぱねることなど、慎吾にはできないのだ。マイは最高にあざといが、その効果は抜群だった。
電車が動き出し、慎吾は吊革に掴まる。
「おはよう」
「お兄ちゃん、今日さ、早く帰れる?」
「えっ? どうかな……なんで?」
聞くと、マイはニコリと微笑む。
「また、ごはん作りに行ってあげようかと思って」
前回、肉じゃがを作ったあの日の後、マイはまだ、慎吾の部屋を訪れていなかった。帰宅時、偶然に遭遇するようなこともなかったからだ。
「それはうれしいけど……うーん、なるべく早く帰れるようにしても、でもさすがに定時には上がれないかな」
それを聞いたマイは、かわいく頬をふくらませる。
「毎日遅くまで働いてるんでしょ? そのぶん、早く帰りま〜すってできないの? お兄ちゃんって社畜ってヤツ?」
自分が高校生の頃は、サラリーマンの事情などわからなかったが、サラリーマンになった今なら、高校生がそういう疑問を持つのも分かる。
しかし、マイが言うことももっともだ、と思いつく。
ここのところ、遅い日が続いたのだ。来週に回せる仕事は、来週に回してしまおう。
慎吾は頷いた。
「わかった。できるだけ早く帰れるようにするよ」
「ホント!?」
嬉しそうに目を輝かせるマイ。
「じゃあ、待ち合わせる? このあいだの時間?」
「あっ、うーん……どうかな。時間は約束できないかも……」
「えーっ? じゃあどうする?」
「どう……しましょう」
少し考える素振りを見せたマイは、何か思いついた様子で目を開いた。
「お兄ちゃんの部屋の鍵をわたしが預かって、ごはん作って待ってる、っていうのは……ダメ、かな……」
名案だ、という様子で話し始めたマイだったが、言葉の途中から自信なさげになってしまう。さすがに家主不在で家に入るのはマズイと思ったのだろう。
慎吾は、マイの提案を吟味する。つまりこれは、マイを信用できるかどうか、という話だ。
それに、あれ以来、いつマイが来ても良いように、部屋はそれなりに綺麗にしてある。
自分の思考に頷いた慎吾は、ポケットからキーホルダーを取り出した。吊革から手を離すとポールに身体を預け、鍵束の中から一本を取り外した。
「これ」
「えっ?」
目の前に下げられた鍵に、手を伸ばしかけたマイだったが、その前に、視線を慎吾に移した。
「いいの?」
「なくさないでね。弁償しなきゃいけなくなるから。あと、金目のものはないけど、家探しはしないでね」
目を見開いたマイは、もう一度鍵を見て、それからそっと、手に取った。
それから悪戯っぽい目で慎吾を見る。
「えっちな本を探して、お兄ちゃんの趣味を確かめるとしよう」
「エグい熟女モノだから止めたほうがいい」
キーホルダーをポケットにしまった慎吾は、今度は内ポケットから財布を出す。
「冷蔵庫にはろくなものなかったから、これで買ってくれる? 裸で悪いけど」
「いいよ、わたしが出しとくから」
「高校生に建て替えさせるわけにはいかないよ」
マイは遠慮したが、慎吾の有無を言わせぬ態度に、一万円札を受け取った。
「お預かりします」
マイがお札をしまうのを待って、慎吾は言った。
「いやあ楽しみだ。これで今日は乗り切れそうだ」
マイは微笑む。
「期待してて♡」
アパートに帰り着いたのは夜七時。
玄関の鍵は閉まっていたが、部屋の明かりは点いていた。チャイムを鳴らすと、マイが笑顔でドアを開けてくれた。
「おかえり!」
はじめて見る、マイの私服姿は新鮮だった。柔らかい素材のワンピースに、持参したのだろう、可愛い色合いのエプロンを重ねている。まるっきり新妻、という感じだった。
若すぎるけど。
「ごめん、遅くなったね」
マイの姿にドキドキする気分をなんとか抑えて、慎吾は謝る。
首を横に振ったマイは、しなをつくってこう言った。
「ごはんにする? お風呂にする? それとも、あ・た・し?」
苦笑する慎吾。
「大人になるとわかるんだけど、それで“わたし”を選ぶヤツ、元気すぎるよ」
「えっ?」
「いくらマイちゃんが可愛くても、仕事から帰ってすぐはとても無理」
「そーなの?!」
「お風呂入っていい? 汗かいちゃって」
「あっ、ごめーん、溜めてなかった!」
「シャワーでいいよ」
「新妻失格だ〜」
「大丈夫だよ」
笑って言ってやり、慎吾はバスルームへ。
さっぱりして戻ってくると、食卓には見事に食事の準備ができていた。
約束通りのハンバーグ。ごはんと味噌汁とサラダがついて、完璧なハンバーグ定食だ。
「お兄ちゃん、このあいだ味噌汁褒めてくれたから」
と、なぜか言い訳がましく言うマイに、慎吾は首を振る。
「新妻合格です。最高です」
親指を立てて言うと、マイは嬉しそうに、おかしそうに微笑む。
丁寧に両手を合わせて、食卓と共に向かいに座るマイを拝む。
「いただきます」
微笑むマイに監視されながら、デミグラスソースがかかったハンバーグに箸を入れる。
「これは……野菜が入ってますね」
「一人暮らしだと、野菜が足りてないだろうと思って」
「助かります!」
一口大に切り取り、口に入れ、ゆっくりと味わう。
「ピーマンとニンジンと……この、シャキシャキするのは? ごぼう?」
「正解! どうかな?」
「とっても美味しいです!」
大げさに言って、マイを喜ばせてやる。
「あっ、そういえば」
マイは部屋の隅に置いてあったスポーツバッグから封筒を取り出すと、テーブルの上に差し出した。
「お釣りです」
渡したお金で買い物をした、残り分だろう。
お小遣いにしてくれてよかったのに、とも思ったが、こういう律儀なところ、真面目なところはマイのいいところだろうと思い、慎吾はそれを口にしなかった。代わりに頭を下げる。
「ありがとう」
わざわざ封筒まで用意するあたり、本当にいい子だな、などと思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます