第2話

 一体何だったのだろうか――ふとすると今朝のことを思い出し、慎吾は仕事に手が付かない。


 小川慎吾は26歳。今の会社に入って三年目。色々と慣れてきて任されることも増えてきて、仕事はまあまあ楽しい。しかし、不満がないわけではない。大人の世界は、かつての自分が思っていたよりずっと不合理で、勝手で、ズルい。そういう中でなんとか折り合いを付けて、なんとか社会人をやっていた。忙しくてプライベートは、いまいち充実しているとはいい難い。毎日働き、家に帰って眠り、朝また仕事に行く。貴重な休日となる土日は、掃除や洗濯、買い物などの家事に追われ、あとは寝て過ごす。そういう毎日だ。


 今朝の女子高生については、見覚えがあった。いつも電車で、乗り合わせる子だ。


 慎吾が電車に乗り込むときには大抵、先に乗っている。彼が乗る時分、車内はさほど混み合っていない。だから他の顔を見る余裕がある。自分が乗る駅でいつも乗る客や、そのときすでに車内にいる客は、なんとなく覚えている。彼女もそんな一人だった。


 そう、その程度だった。これまでに事更に意識したことすらない――いや、それは嘘だ。彼女はとても可愛らしい少女で、慎吾はたびたび、彼女を目で追っていた。制服からすれば高校生であることは間違いない。推測できる歳の割に、女性らしく発育した身体のライン、短くしたスカートから伸びる、健康的な脚線。日々のたゆまぬ手入れを想像させるサラサラの髪。パッチリとした瞳。きめ細やかな肌。可憐な唇――


 十も歳の離れた男に、そのように観察されているなどと知られたら、間違いなく気味悪がられるだろう。慎吾はそう思ったから、彼女をジロジロと品定めしたわけではない。できるだけ興味のない素振りで、なるべく見ないようにしていた。彼女に限った話ではない。電車内で偶然に遭遇するすべての人間にそうするように、慎吾は無関心を装った。

 それでも、何ヶ月も毎朝、同じ電車に乗っていたのだ。見たものの断片をつなぎ合わせれば、そのようにもなる。


 そう、その程度だ。彼女の名前も、乗り込んでくる駅も、通っている学校も知らない。制服から追えば、調べはすぐにつくだろうが、そういうこともしたことがない。

 街ですれ違う、その他大勢。自分の人生に関わることはない、有象無象――慎吾は彼女のことをそう思っていたし、彼女にとって慎吾も、そうだったはずなのだ。


 今朝のことがなければ、これからもそうだったはずだ。そのことは不可抗力で、誰かが悪い、というものでもない――いや、厳密に言うならば、どこぞの踏切で電車と接触した自動車の運転手にその責任があるかもしれない――とにかくその日はいつもと違い、大混雑の通勤電車は乗車率百パーセントを軽く越えていて、間の悪いことに、慎吾とあの女子高生の彼女は一緒になって、通勤客の流れに流され、開かない方の扉の脇に押し込まれてしまったのだ。


 背中から扉に押し付けられてしまった彼女に、慎吾は向かい合う形になってしまった。彼女の身体に触れないよう、扉に手を付き、踏ん張ろうとしたが、電車が揺れた衝撃で後ろからドッと押され、耐えきれなかった。頭一つ分小さい、彼女の身体に、自分の身体が密着した。少女の、見た目以上にしっかりとした二つの膨らみが、慎吾の腹部に押しつけられた。脚と脚さえ触れた。もう、腕を伸ばして距離を取るスペースはなかった。肘でなんとか踏ん張って、せめて彼女を押しつぶすまいとした。

 一生懸命、耐えようとしたにも関わらず、すぐ下にある彼女の髪は芳しく香り、腹部に当てられるそれはとても柔らかく、太ももの柔らかささえ感じられて、慎吾は否応なく反応してしまった。


 ターミナル駅で解放されるまでの時間は長くはなかったはずだが、永遠にも感じられた。


 いや、あれは事故だ――慎吾は、彼女が別れ際に言った言葉を思い出す。


――明日の朝も、同じ時間、同じ車両に――


 その場に彼女が、警察官とか、代わりに“お話”するための男を連れてくるなどということが、あるだろうか。彼女がこちらと同じように慎吾のことを認識しているなら、毎日同じ電車に乗っている男だということは、わかっているはず。わざわざあのようなことを言った、ということは、今日のことがあって、明日は行動を変えるかもしれない、と考えたのかも。それを阻止するために、あのようなことを言ったのかも。


 言うとおりにせず、時間か、車両を変えるということは、もちろん考えた。

 しかし、彼女が慎吾を犯罪者にしようというのであれば、日をおくというのは、考えづらかった。

 なによりも、自分は何もやましいことはしていない、という気持ちがあった。起きたことは事故。自分は何も悪くない。そうであれば、逃げるような真似はしたくない。堂々としているべきだ。


 そのような結論を、結局まる一日かけて考えた慎吾は、翌日、やはりいつもと同じように、つまり、彼女に言われた通りに、同じ時間、同じ車両に乗るべく、自宅を出発したのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る