第239話 『カニ』

 マチがドクターから預かり物を頼まれたと言うので、二人はノースバンクーバーへ向かった。

 

 懐かしい高校の校舎に二人で足を踏み入れる。当時の事が鮮明に思い出された。

 水曜日だったのでホッケー部の一軍の選手が監督に陸上でしごかれていた。厳しい筋トレが続く。丁度腕立て伏せを全員がさせられているところだった。苦しそうなうめき声が遠くから聞こえる。部員の一人が突然叫んだ。

「ウソだろ!あそこにH・ハンドクルーが歩いてる!」

 全員が一斉にそっちを見る。

「本当か?」

「本物だ!」

 もう練習にならなくなった。誰もがエイチに憧れている。中断して一斉に彼に駆け寄った。

 監督が驚いてエイチを見た。エイチに驚いたのでは無く、隣にマチが居るのを見て思わず笑った。


 ハンドクルー、二人でいるって事はどういう事なんだ?監督は思わず笑った。

 お前みたいな男がどうやって彼女に頭を下げたんだ?信じられん!

「エイチ!サイン頂戴!」

「エイチっ、一緒にリンクでホッケーしてくれよ!」

「背が高いんだな」「スゲー・・・腕が太い・・・」

「うわぁ!近くで見るとデカイな・・・それに凄いハンサムだ。かっこいいなぁ・・・」

「あの時のシュート凄かったよ!」「ノールックパスってどうやればあんなに成功するんだ?」「ハンドリングのコツって?あれってどんな練習すると出来るようになるんだ?!」

 後輩達が群がってエイチにああでも無いこうでもないと言って大騒ぎしていた。

 

 興奮する人だかりの中、輪の外にいたマチとダイスラーは目が合った。マチが視線に気が付いてニコッと微笑んだ。ダイスラーもマチに笑いかけた。鼻の傷は治ったようだった。今日は絆創膏もしていない。

 エイチはそんな二人のやり取りを見逃さなかった。直ぐにダイスラーを見た。

 どう言う関係だ?急に鋭い観察が始まる。エイチはマチに聞いた。

「誰だ?」マチは急に機嫌が悪くなったエイチに面白がって言ってみた。

「デートに誘ってもらった事があるの」

 マチはおかしそうに笑った。

 エイチの目が急に変る。

「おい、お前」

 直ぐにダイスラーの胸倉に手を伸ばした。引き寄せて彼の顔を見る。

 ダイスラーは突然エイチに引っ張られてビックリした。刺す様に冷たい青い瞳にブロックされる。恐い!

「利き手を折られたいのか?」

 低い声で脅す。エイチは完全に威嚇して彼にそう言った。ブルーの瞳が凶暴に光る。

「ひっ!」

 ダイスラーは恐かった。エイチがそう言って自分の左手を見ているのが分かる。どうして俺の利き手が左だって分かったんだろう。思わず後ろに隠す。ダイスラーは何歩か下がった。

 ドクター、本当だよ。やっぱり彼女には近づいたらまずいよ。ハンドクルーに殺される。冷や汗が背中に流れた。

 

「お前はどうしていつもそんなに凶暴なんだ?」

 うしろからドクターが来てため息混じりにそう言った。監督もそれを聞いて笑った。

 世界一凶暴な男がここに戻って来た。でも大丈夫だ。今日は世界一優秀な『調教師』が傍にいる。

 監督もドクターも珍しく声に出して楽しげに笑った。

 

 

 二人は散々部員達にもみくちゃにされ、監督とドクターに色々聞かれ、暗くなった頃校舎を出た。

 

 帰り際、二人はまたもめていた。ドクターがマチに渡したのが薬の袋で、なんとそれを次の8月にメイン大の夜間学部に編入してくる禁止地区のラウルに手渡しして欲しいと言う事だったからだ。

 エイチはラウルがマチと同じ大学に入学すること事態頭に来て、マチを責めた。

「あいつと接触するんじゃない!」

「エイチ、大丈夫よ。ラウルは危険な人じゃないわ。それに薬を渡すだけだもの」

「ああ!お前はどうしてそんなに鈍いんだ!あいつはお前の事を変な目で見てる!」

「うそ!まさかそんな訳ないわ・・・・・」マチは真っ赤になった。

「とにかく近寄るな!もしあいつが近寄ってきたら直ぐに俺に連絡しろ!殺してやる!」

「・・・・・・・」マチは呆れた。

 しかし、そう言って遠くにいる自分を心配してくれる彼の気持ちが嬉しい。マチは優しく微笑むと普通の会話に切り替えた。

「それにしても凄い人気ね。みんなあなたに憧れているのね。」マチが微笑んだ。

「エイチ、なんだかお腹が空いて来ちゃったわ。何か一緒に食べに行かない?」

「今日はバイトが無いのか?」

「ええ。なんとなくエイチがここへ来る様な予感がして、入れなかったの。ふふ!」

「・・・・」

 なんで分かったんだ?

 行動が全て読まれているような気がして思わず眉をしかめた。

 そんなエイチをマチは面白そうに見上げると、

「それで?エイチはもう何を食べたいのか決めちゃってるんでしょ?」とクスクス笑う。

「カニだな」

 やっぱり!マチは声に出して笑った。

「NYでも食ったけど、バンクーバーのあの店の方が美味い。あの口うるさい女店長がめんどくさくても、味は良いだろ?」

「そうね、私もあのお店大好きよ。食べたいものは決めさせてもらえないけど」

「まだそんな事言ってるのか?」 




 エイチとマチはカニの店『フルッティ・ディ・マーレ』にやって来ていた。二人はすっかり馴染みの客になっており、心得た女店主が気遣って奥の席に案内してくれる。

 

 二人はメニューを見て食べたいものを選んだ。エイチは早くもメニューを閉じて注文する物を決めたようだった。

「で?お前はどれにするんだ?」

 マチが彼を見て、良いの?決めても?と言う顔をした。

「特別、待っててやるから決めてみろ」

「じゃあ・・・・これね」

「何だよ、結局俺が頼むのと同じヤツじゃないか。お前に選ばせる意味が無いな」

「ねぇ、エイチ、仕事で他の女の人と一緒にレストランに入る時もあなたがこんな風に勝手に頼んじゃうの?」マチが聞いた。

「は?そんな事しない。嫌々待って、各自に注文させて、これから始まるこの退屈で死にそうな時間が一刻も早く過ぎれば良いのにって時計を見ながら祈ってる」

「ひどいわね・・・」

「本当は俺が頼んだ方が時間の短縮になるのに、そんな事したらイカれた男だと思われるだろ?」

「私にはあの時、平気でしたじゃないの」

 マチが目を開いて責めた。

「お前に気を遣う必要なんて無いだろ?」

「あら!私にだってちょっとぐらい気を遣ってもらいたいわ、レディーとして!」

 エイチは辺りをわざと見回して

「レディ?居ない。どこにも」とふざけて言った。

「もう!」

 エイチはいつもの調子でマチの事をからかって怒らせながらも、机の下では長い足で彼女の足を挟んで抱いていた。マチもそれを感じて黙るとエイチの事を見つめて微笑んだ。

 

 二人はカニを頬張りながらどうでも良い気楽な話を楽しく続け、メイン時代の話に花を咲かせて楽しい時を過ごした。

「ほら、これ食えよ」そう言ってエイチが殻を剥いてマチにカニの太い爪をくれた。

「ありがとう・・・・なんだか今、エイチがドーナツを私にくれたのを思い出したわ。私が本当は食べたいと思ってたのじゃなくてプレーンを取ろうとしたらエイチがそれを取って私にくれたのよね」

「お前は遠慮しすぎてる。好きなものを食えばいいのに」

「それに、ホワイトチョコレートはSが食べるからって言って取っておいてあげるなんてエイチは本当は仲間思いで優しいんだわって思ったわ」

「お前!あいつの名前を言うんじゃない!世界一ムカつく男なのに!」

 マチは笑うと

「ごめんなさい。でも、昔の事を話す時、どうしても出てきちゃうでしょ?」

「とにかく言うな!ムカつく!」

 エイチはカニの殻を乱暴に放った。眉間に皺を寄せて怒っていた。

「エイチ、Sの事は憧れだったの。本当の恋じゃなかったのよ。だから許して?」

「・・・・」

 物凄く不満な顔をマチに向ける。

「エイチは私の事、憎みすぎて好きになっちゃったんでしょ?」

「?」

「私もきっとそうよ。嫌いだと思ってずっと警戒して注目していたら、目に付くあなたの事がどんどん心配になって、なんだか知らない内に好きになっちゃってたの」

 マチは笑ってエイチを見た。

 エイチはそんなマチを見ると力が抜けて完全にリラックスしてる自分に気が付いた。

 彼女と居ると平穏が感じられる。全部知られていて隠すものが何も無いからかもしれない。

 エイチは机の下に腕を伸ばして、椅子ごとマチを自分の真横に引き寄せると耳元に口を寄せて言った。

「マチ、好きだ」

「・・・・うん」

 胸が熱くなる。マチはそれを聞くと嬉しそうに優しく微笑んだ。

 エイチが続けて耳元で言う。

「カニの次に」

 マチは真っ赤になってエイチを軽く叩いた。

「もうっ!」

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