第238話 『再会』

 二人は「恋人」になった。異様な感じがしたが本当にそうなった。

 しかし、別にいつもと変らなかった。

 エイチのチームは今期プレイオフに進出できなかった。エイチは悔しがり、イワンに何度なだめられても機嫌が直らなかった。

 

 シーズンが終了してエイチにもようやく時間が出来た。夏のキャンプが始まるまでの本の短い期間だけ自由がある。エイチはマリアンヌに言って一切無駄な予定を入れないようにして休みを確保した。

 マリアンヌは二人が恋人になったと聞いて発狂しそうなほど喜ぶと「仰せの通りにするわ!」と激しくエイチに抱きついた。


 

 シーズン中はマチに会う時間が本当になかった。マチと会う時間が心底欲しい。そろそろ精神状態が不安定になるのを感じる。信じられない事にあんなに恥かしい告白をしてから今日まで一度も会えなかった。早く彼女に会ってちゃんと顔を見ながら話したり、怒鳴りあったりしないとおかしくなりそうだ。

 エイチはバンクーバーに向かって飛行機に乗っていた。

 前回、とてもつまらない事で電話で言い合いになった。それっきり二週間連絡を取らなかった。

 

 マチに直接会おうと思ってエイチは大学の門のところで待ち構えていた。

 謝って休暇が出来たから、あいつが行ってみたいと言っていたパリに遊びに行かないかと誘わないとならない。いきなりもめる気がする。

 あいつ、平気でこんな事を言いそうだ。

「駄目だわ、行けない。アルバイトに行く約束を支店長としちゃったの」

「授業をそんなに休んだり出来ないわ」

「試験があるの。また今度ね」

 考えただけでブチ切れそうだな。どうやって誘うんだ・・・・・

 仕事で全然時間がない俺がどうして大学生の彼女の所へわざわざやって来て、謝らなきゃならないんだ!普通は逆だろ?忙しい俺のスケジュールに合わせてあいつがトロントに来るべきだ!

 大声で怒鳴っているわけじゃないのに、息が荒くなった。


 背が高い妙に目立つ男が校門にいた。通りがかった学生が直ぐにH・ハンドクルーだと分かって次々に悲鳴を上げる。

「きゃあああ!」

「大変!ハンドクルーが居るわ!」

「どうしてこんな所に!」

 女学生達が群がって、機嫌が悪いエイチはうっとおしそうにサインをした。

「邪魔だ!近寄るんじゃない!俺は気が立ってるんだ!」そう叫んで追い払いたかったが、そんな姿をうっかりマチに見られでもしたら一大事だった。ますます叱られて面倒くさい。

「エイチ!何してるんだ?来てるなら電話くれればいいのに!」

 聞きなれた声が聞こえた。シルトがたまたま傍を通りかかって子犬の様に走って来た。


 シルトはあの後、エイチから事の顛末を聞いて大喜びした。シルトはエイチにおめでとうと何度も言いながら感激して泣いていた。『お前が幸せになって本当に嬉しいんだ。マチを大切にするんだぞエイチ、本当に良かったな!』


 久々に会った親友を金色の瞳でシルトは嬉しそうに見つめた。

 エイチはそんなシルトに、マチと言い合いの末、もう二週間も連絡を取っていない事を説明した。シルトは呆れてエイチを見た。

「本当に仕方ないな。もうすぐ出てくると思うよ。さっきまで同じ授業だったから」


 大きな楓並木が続く校舎の道を遠くからマチが歩いて来た。目が良いエイチはすぐに気が付いた。小さな身体で胸にノートを抱え、リュックを背負って歩いてくる。

 エイチの顔が変ってシルトもそれに気が付いた。

 遠くからやって来るマチの顔が怒ってるのか怒っていないのか注意深く温度を測ってる。

 でも絶対大丈夫だ。仲直りできる。エイチはマチが切れて限界だし、自分が謝る事をきっと選らぶ。

 あのエイチが謝れるなんて奇跡だな。これも全てマチだから成せる業だ。大体二週間も連絡しないなんてお前らしい。でもエイチはそれを後悔してる。だからわざわざ自分からここまで来たんだろ?マチはどうかな?きっと何事も無かったようにあいつを受け入れるんだろうな。結局早く謝れなかったエイチが一人で二週間苦しんだだけだ。マチはあいつが謝れるまで大人らしく静かに待っている。

「それじゃあエイチ、また会おうぜ!ちゃんとマチに謝れよ!」

 シルトはエイチの背中を叩くと笑ってバイクに跨り校舎を後にした。

 今日は早く家に帰って服を着替えて行かなきゃならない所がある。

 シルトはこの後、スペンサー家に行く事が決まっていた。何故か今朝、突然リカから自宅の食事に誘われた。あの恐ろしい父親が待っていると思うと憂鬱になる。シルトは内心、一度も行った事のないスペンサー家に緊張していた。ナーバスになる。リカには会いたい。でも恐い。

 そんな所にエイチを見かけて元気が出た。エイチも頑張ってる。

 俺も何とかしないと・・・こんなだらしない服装じゃあの父親に撃たれるかもな。

 親友の事を心配してる場合じゃない。自分の命も真剣に考えないと。

 シルトは眉をしかめて少し笑うとため息をついてバイクを走らせた。

 バンクーバーの初夏の風が爽やかで気持ち良かった。



 マチは突然校門に現れたエイチを見ると小さく微笑んだ。そして

「あら、久しぶりね。シルトにでも会いに来たの?」と聞いた。

「なっ!」

 なんだと?

 マチはそれだけ言うと彼の前をすたすたと通り過ぎ校門から出て行こうとした。

 エイチは頭に来た。わざわざここまで来て謝ろうとしていた事があっさりどこかへ行ってしまう。エイチは彼女を長い足で追いかけた。大学の敷地に沿って美しい歩道を進んだ。

「・・・・」

 マチは澄ました顔のままどんどん進む。

「まだ怒ってるな」

エイチがムスッとしながら後ろから言った。

「早く謝れって顔中に書いてある」

「別に何も言ってないけど?」

 マチは顔には出さなかったが、久しぶりにエイチを見て楽しかった。

「明らかに態度が悪いだろ!」

 マチが笑いをかみ殺しているのが分かる。

「俺に喧嘩を売るつもりか?」

「そんなつもり一つもないわ」

 マチが突然止まって振向いた。

 エイチはギクッとなって立ち止まった。六十センチぐらいしか距離が離れていないのに目の前の空気の層が分厚く近寄りがたい気がした。

「・・・・・」マチは何も言わないで彼をじっと黒い瞳で見つめた。

「なんで俺に謝らせようとするんだ!」

 エイチは反発して大声で言った。

「悪い事をしたからよ」

「してない!」

 まるで子供だった。

「じゃあ、謝る必要も無いし、これ以上この事で話をする必要も無いわね」

 マチはそう言うとくるりと振り返りまた歩き始めた。

「なんてムカつく女なんだ!!!!だから嫌いなんっ・・」

 エイチは叫んだ。

 

 マチは振り返って再び彼を見た。

 エイチはひたすら頭の中で自分の怒りと闘ってどうしようかと悩んでいる。そんな風に素直に謝れないエイチを見てマチは思わず笑った。突然笑ったマチを見てエイチが動揺したのがわかる。

「もう良いわ」

 マチがそう言って彼を優しく見つめた。マチは何ヶ月かぶりに会ったエイチをじっと見て微笑んだ。

 まただ・・・・・

 先手を取られて謝り難くなった!

 またお前の方が大人で俺がバカみたいじゃないか!負けてる・・・・

 エイチはそう思うとスタスタと自分の前を歩くマチを追い越して、正面に立って言った。

「言い過ぎた・・・・また」

 悔しそうな顔で言う。

「そうね」マチが落ち着いた感じで頷く。

「悪かった」

 マチはエイチがそう言ったので嬉しそうに微笑んだ。

「あああああ!」

 エイチは顔を覆って悔しそうにした。とても不満そうな顔だった。

「どうして素直に謝れないの?始めから一言、そう言ってくれれば良いのに」

 エイチは頭を振った。

「わからない。凄く抵抗がある。出来ない。したくない」

「・・・・」

 マチはエイチに微笑んだ。

 彼はマチの傍に寄って横に並んだ。さっきまでそこにあった空気の層が一瞬で取り払われて近づいても良い様に思えた。マチとの距離は自分が作っていたのだと気が付く。

 エイチは腕を伸ばしてマチの肩を抱き寄せた。二人は普通の恋人の様に歩いた。誰が見ても恋人には見えない。でも二人は愛し合っている二人だった。

 マチは久しぶりに会ったエイチの身体に寄り添って楽しそうに笑った。肩を抱き寄せられて歩いた事なんて無い。こうやって寄り添って歩いた事も一度も無かった。


 

 エイチは前回、バンクーバーに来た時二百キロのスピード違反で車を没収された。当分自分の所には返ってこない。

 マチの車が停めてあると言う大学の駐車場へやって来た。

 マチの車を見た途端エイチは大声で言った。

「なんだこれ!どこに落ちてたんだ?それとも海から引き上げた車なのか?」

「ひどいわ、お金をちゃんと貯めて買ったのに!」

「こんな錆びだらけの鉄クズが動くはず無いだろ!よくこれで公道を走るな?」

 マチは散々車について文句を言われた。エイチは直ぐに

「もっとましな車を買ってやるからもうこんなのに乗るなよ!」

 と言ったが、マチの返答はこうだった。真面目な顔で言う。

「そんな事してくれなくて良いわ。自分で買うのが良いのよ。エイチありがとう。気持ちだけ貰っておくわ」

「・・・・・・」

 駄目だ。マチはこう言う女だ。他の女だったら喜んでOKするはずだ。好きな車を買ってもらえるなんて嬉しくない奴、普通はいないだろ?でも、マチは違う。そしてマチが言うんだから多分これは、世間一般の常識的で正しい返答なんだろう。俺には到底理解できなくても。

 真面目腐ってて嫌になるな・・・・そう思う反面、そんな事を言うマチが嫌いじゃない。それが何故なのかは今も分からない。

 


 散々駐車場でもめた挙句、マチの運転で出発した。

「なんでこんなに狭いんだ!窮屈で死にそうだ!」

「お前、あんなに道幅があるのにどうして右折する時に縁石に毎回乗り上げるんだ?信じられない。よくこんな運転で免許が取れたな!」

 エイチはマチの下手くそ過ぎる運転にむしろ感心した。

「エイチが真横でぐちゃぐちゃ言うから集中できないわ。ちょっとは静かにしていてよ。それに、あなた顔が目立つから窓を閉めて姿勢を低くしてて」

「俺がこんなボロ車に乗ってるなんて誰も想像しないから安心しろ」

 エイチが馬鹿にしたように言った。

「それもそうね!」マチが楽しげにそう言って笑った。

 その瞬間、また縁石に乗り上げた。

 エイチは笑いが止まらなくなった。

 声を上げてこんなに笑うのなんて久しぶりだった。

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