第237話 『楓の樹の下で』

 エイチはいきなり体中の力が抜けて、草の上に手をついて四つんばいになった。気を失うんじゃないかと思うほど意識が飛んだ。

 そして地面に向かって何度も「寝てない・・・・」とつぶやくと、目を閉じたままゆっくりと身体を起こして天を仰いだ。そして遠く彼方の空の向こうを見るようにして何かをつぶやいた。雲の上の誰かと会話しているように言葉にならない言葉をつぶやく。

 その後も、空と無言の会話をしながら長い沈黙が流れた。


 マチが言った。小さい声だった。

 好きだったならどうして?彼女だって聞かずにはいられない。

「エイチこそ・・・ジーンさんと付き合ってないの?他にも大勢の女の人と噂になってるのに・・・・」

 マチの目が少し怒っている。まつ毛に涙が引っかかっていた。

「?」

 エイチはようやく我に返ると立ち上がった。

「何の事だ?ジーン?・・・誰だよそれ?」

 エイチは本当に誰の事だか分からないようだった。

「パーティーの時一緒にいた凄く奇麗な人よ」

 マチの目がエイチを責めている。

「ああ、あの女か。俺があんな女と付き合ったりするわけないだろ?それに、俺は誰とも付き合ったりして無い」

「本当に?でも・・・じゃあ、今まで誰とも何もなかったの?」

「無い」

「本当?でもキスとか・・・・」

「して無い。誰とも関係を持った事なんて無い。キスを迫られた事もある。いきなり目の前で裸になられた事もある。でも手を出した事はない。どれもこれも三流の記事のただのでっち上げだ。あんなのを信じるなん・・・」

 エイチはそこまで話すとニヤッと笑った。

「?」

「もしかしてお前、俺にやきもちを?」

 エイチのブルーの瞳がキラキラとイタズラに輝いた。

「どうしてそんなに嬉しそうな顔するの?」

 マチが不満そうに聞く。

「お前にやきもちを焼かれるなんて最高に嬉しい」

 エイチが奇麗な歯を見せてマチに笑った。そして、再び真剣な顔になるとはっきりと言った。

「マチ、良かった。あいつに寝取られてないなんて最高だ!」

 マチはそう言われて真っ赤になった。

「もう、ウソは付かない。自分を騙すのも止める。マチ、俺と真面目に付き合って欲しい。もう耐えられない。離れて居たくない、嫌だ。もう怒鳴ったりしない。お前に隠している事は何もない。全てさらけ出した。全部話した。マチ・・・・」

 エイチはマチの手を握ると、強い真っ直ぐな瞳でマチに懇願した。圧倒される。

 マチはエイチの事をそっと見つめて言った。

「エイチ、本当は・・・」

 マチは恥かしそうにエイチに言った。

「私だってあなたの傍にいたいわ・・・絶対そうならないはずだったのに、今も気になって仕方が無いの。心配で心配でいつも思い浮かべちゃう。だって、あなた程危なっかしい、おかしな人いないでしょ?目が離せ無いほど変な人・・・・」

「変な人・・・」

「私の事をすごく嫌っていたくせに・・・嫌いだって口に出して大声で言うくせに、本当のエイチは意地悪なんかじゃなかったわ。ちゃんとわかってるの。本当は守ってくれる」

 エイチは熱い視線でマチを見つめた。

「私がひどい目に遭うと、いつも背中でかばってくれるでしょ」

 エイチはマチの腕をそっと掴んで握った。

「知らない町でコンタクトを落として迷子になっていた時も、助けてくれて・・・・」

 エイチはマチに更に近づいた。

「ボヤ騒ぎがあった時も一番に私の事を連れ出してくれて・・・・」

 黒い瞳に顔を近づける。

「凍えている身体を温めてくれて・・・」

 マチの潤んだ瞳がエイチの事をじっと見つめた。もう敵を見る目では無い。好きな相手を優しく見つめる愛情のこもった視線だった。

 女になんて絶対惚れないと言っていた自分がバカバカしく思えた。

 エイチはマチを間近に、真剣な眼差しで見つめ、そして、幼い頃決して言ってはならないと心に誓った言葉をマチに言った。

「マチ・・・・・愛してる」

 マチはその言葉をゆっくりと自分の中に染み込ませる様に聞いた。そして、息を吸うと

「私もなの・・・・エイチ」

 と返事をした。



 エイチは天にも昇るような陶酔した気持ちに心臓が高鳴った。初めての体験だった。

 マチが俺の事を・・・・・

 そう思うだけで幸せで心臓が痛かった。エイチはもう耐えられなかった。身体を屈めて視線を彼女の唇に落とした。彼女もエイチの唇を見つめた。

 二人は吸い寄せられるように顔を近づけ、キスをした。

 マチの唇はあの頃と変らずとても柔らかかった。いつも一方的にエイチは彼女の唇を奪った。そのせいでどんどん嫌われた。しかし、今、マチは彼のキスをついに受け入れた。返事を受けてエイチは貪る様にマチの唇を奪った。

 背中に腕を回し強く抱きしめ、何度も抱くように情熱的にキスをした。

 マチは愛されているのが伝わるキスに酔った。頭がくらくらしてエイチにしがみついた。大好きな熱い胸に抱かれ、安心できるたくましい腕に巻かれ幸せだった。本当はずっとこの中に飛び込みたかった。どんな辛いことも忘れて安心できる温かい懐。忘れる事などできない。


 二人は長い戦いを全て忘れるぐらいの熱いキスを重ね、お互いを求め合い、何も話さずいつしか草むらに倒れ強く抱きしめ合った。

 キスをして、瞳を見つめ熱い視線を絡ませると、またキスを繰り返した。もう何も話さなくて良い。口を開くと言い合ってしまう。無言の会話が本心を語っていた。

 エイチはマチの首筋に手を入れてうなじを撫でた。マチの首は柔らかく、きゃしゃで温かかった。

 マチはエイチに手を握られてうっとりした。彼が指の間に自分の指を入れて絡ませたので思わず大きく息を吸い込んだ。エイチと手をつないだ事なんて無い。こんなに抱きしめてもらえて、熱い唇で求められ、全身が幸福に麻痺して宙に浮きそうだった。



 どれぐらいキスを重ねたのかわから無い程時が流れ、二人は倒れたままお互いにしか聞こえない声で静かに語り始めた。

「エイチ、あなたに沢山聞きたい事があるの・・・・」

「なんだよ?」

「一体いつから好きになってくれたの?」

「言いたくない」

「私の何が好きなの?」

「分からない」

「あんなに虐めて嫌いだって、叫んでいたのに。本当はそうじゃなかっただなんて分かり難くすぎるわ」

「必死で隠してたんだから当然だろ?お前こそ・・・・」

「エイチはいっつも意地悪なくせに、本当は優しいから・・・・リッキーに襲われた時も、バスの事故の時も、結局助けてくれて私はエイチの事を頼りにしてたの。それに・・・」

「それに?」

 マチはそっとエイチのたくましい胸に手を置いて言った。

「エイチがね・・・・私の事を温めてくれて・・・何度かあなたの胸に抱かれた事があって・・・その度に、凄く温かくて安心できて、大好きな場所だわって、こっそり思ってたの」

「嫌がられてると思ってた」

 マチはクスクスと笑ってエイチの胸に顔を付けた。

 エイチは彼女を自分の胸にしっかりと抱き寄せると背中を撫でた。

 目の前にマチの頭があって久しぶりに髪に鼻をつけて香りを吸い込んだ。

「・・ああ・・・」

 エイチがため息を漏らすように喉の奥で低く笑った。

「?」

 マチは不思議そうにエイチの顔を見上げた。

「お前の髪の匂いが好きだ。何度も鼻を近づけて嗅いだ事がある」

「え!?いつ?」

 ビックリしてマチが聞き返す。

「教えない」

「そんな事された記憶、全然無いわ!教えて、いつ?」

 エイチはマチを抱いたまま笑った。

「お前は俺を男と思ってなかった。だから一度も気が付かなかったんだろ?」

「そんな事無いけど・・・」

 マチが恥かしがって顔を赤くした。

 エイチは面白がってマチをからかい始めた。眉を上げてマチを見る。

「寝顔にこっそりキスした事もある」

「えええええ!いつ?」

「保健室でお前が寝てる時にキスした」

「ウソ!全然気が付かなかったわ!そんなにぐっすりなんて寝てないはずよ、信じられない!」

 マチは真っ赤になった。

「あ、それからホテルで一緒に泊まった時もキスした。でもその時もやっぱり起きなかった。ぐっすり寝てた。俺がどれ程苦しい思いをして性欲と闘ったのかも知らないで、二人きりなのも気にせずにぐっすり眠ってただろ?」

「・・・・・性・・・・・・」

 マチは動揺して目を泳がせた。エイチはそれを見逃さなかった。純粋な彼女をからかう。

「本当に良かった!日本人のあんな男にお前のバージンを盗られなくて!」

「っ!そんな話、恥かしいから止めてよ!」

 マチが怒る。

「ああ、どうしてここがベットの上じゃないんだ?」

「!」

 マチは焦ってエイチから離れようとした。

「俺は今ここでも構わないけど?」

「いやぁあ!」

 嫌がるマチを見るのが楽しい。

「お前ももう子供じゃない。俺は物凄い欲求不満なんだ・・・」

 マチが慌てて立ち上がって歩き始めた。

「待てよ」

 エイチも起き上がる。

「こっちに来ないで!」

 マチが真っ赤になって言った。

 エイチは舌を出して、ふざけるとマチにすぐに追いついた。

「お前が頭がおかしい事を言うから悪いんだろ!」

「エイチがおかしいのよ!まだ一日も付き合ったわけじゃないのに!」

「ずっと恋人同士みたいだったろ?」

 エイチの目が笑っている。

「どこがよ!」

「クリスマスに一緒のベットで寝たし、プロムも一緒に行った。お前は俺の実家にまでやって来て家族に会った事もある。俺とそんな事してる女いないぜ?」

「全部偶然で、そうしたくてそうなった訳じゃ無かったわ!デートとは全然違います!」

「そうか?」

「そうよ!どれもこれも全然ロマンチックじゃ無かったわ!」

「お前はくだらない妄想に取り付かれすぎだ」

「そんな事無いわ!」

「大体・・・」

 

 ピ――――――ッ!

 急に背後で高い笛の音が響いた。

 二人は何事かと思って車が停めてあるはるか彼方の道路の方を見てビックリした。

 パトカーがエイチの車を取り囲み、警官が二人に向かって銃を構えていた。

 一人の警官がスピーカーで叫ぶ。

『誘拐犯に告ぐ!速やかに少女を解放し、両手を挙げろ!婦女暴行とスピード違反の現行犯で逮捕する!』





「・・・まさかお前らとはな。学校を卒業したくせにお前は一体何をしてるんだ?」

 ゴーン刑事が呆れ顔で、最高に機嫌が悪くなったエイチに言った。

 マチはこんな事になり、笑いが止まらなくなってしまった。

「スピード違反はともかく、婦女暴行ってなんだよ!」

 エイチが叫ぶ。

「仕方ないだろ?ハンドクルー、空港で女が誘拐されたって連絡が無線で入ったんだ。どんな悪い奴かと思ったらお前だった」

「・・・・」

 集まった警官達は、追っていた犯人がH・ハンドクルーだと知って興奮していた。全員典型的なカナダ人でホッケーファンだった。

 世紀のスターが目の前に居る!本物は物凄くカッコ良い!でかい!傍で見るエイチは迫力があった。オーラがある。全員、少年の様に目を輝かせて彼を見ていた。

 ゴーンが言った。

「一体あそこで何をしてた?彼女の首を締め上げて顔を殴りつけようとでもしてたのか?」

「マチにそんな事するわけ無いだろ!」

 エイチが呆れて言う。

「わからん。お前は凶暴な男として有名だ」

 エイチはうんざりした。そして、横で涙を流しながら笑っているマチの事を見るとため息をつき、

「・・・・長年の片思いが叶ったんだから見逃してくれよ?」

 そう言ってイタズラにゴーンの事を見た。

「なんだって?」

 ゴーンはビックリして二人を見た。どう考えても二人は似合わない。しかし、警察所での二人のやり取りを思い出したゴーンは目を開いて驚きながらも頷いた。

 突然、周りにいた警官の一人が言った。

「なぁハンドクルー、お前、明日ホームで試合じゃなかったか?」

 マチがビックリする。

「そうなの!?やだ!大変!早くトロントに帰らなきゃ!」



 こうしてエイチはパトカーに誘導されて空港からトロントへ戻って行った。

 そしてトロントの空港でもバンクーバーから連絡を受けていたのか警察官がパトカーを回してエイチをアリーナまで送り届けてくれた。

 エイチの携帯に139回の着信を残して怒り心頭のマリアンヌは、パトカーでやって来たエイチを見てビックリした。

「あなた!一体何をやらかしたの!」

 エイチは散々叱られて、何とか練習に間に合った。

 ロッカールームでイワンと目が合った。

 イワンはエイチの瞳を見て直ぐに聞いた。

「何かあったのか?」

「?」

「お前じゃないみたいな顔をしてる人間らしい顔になってる。人の心を取り戻したみたいだ」

 イワンはそう言うと眉を上げてリンクに上がった。時間ぎりぎりに来たエイチをイワンは責めなかった。


 そうかもな。

 ようやく人間になったのかも。

 エイチはそう思いながら笑ってリンクへ向かった。


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