第236話 『本当の気持ちを』
マチは固まった。
エイチは息が激しく上がっていた。上下する肺の動きを感じる。
いつの間にか彼はその圧倒するような大きな身体で楓の木の太い幹にマチを追い詰めていた。
マチが驚愕の瞳で背が高い彼を見上げていた。真っ黒で汚れの無い目がエイチの中の真実を探そうとさまよっている。
エイチは彼女から目を離さなかった。
二人はあまりに長い怒鳴り合いのせいですっかり息が上がっていた。
誰も居ない公園の芝生の上にバンクーバーの穏やかな風が静かにそよいだ。二人以外の物が全て静かで、優しく時間を刻んでいる事を知らせる。
エイチは乱れた呼吸を整えようと大きく空気を吸い込んだ。風の香りが肺に広がった。
急に二人から戦意が同時に無くなり、違う気持ちに変った。
今まで罵り合っていたのが何でなのか良く分からなかった。理由を思い出せない。あんな風に怒鳴り合わなくて良かった。
本当に嫌いだったらもう再会していない。卒業と同時にMRは解除された。二人を無理やり繋ぐ制約など何も無い。違うものが二人をつなぎ合わせようとしているから再会するのに激しい感情がぶつかって今まで上手く伝わらなかった。
怒鳴りに来たわけじゃない。お前を責める為に来た訳でも無い。喧嘩したかった訳でも、罵ろうと思っている訳でもない。何かを取り合って勝負してるわけじゃない。殺し合いたい訳じゃない。これは戦争じゃない。
ただ・・・・
エイチは自分に何度も言い続けた。今まで逆立った毛を自分で落ち着かせようなどと思った事がなかった。怒りに任せてぶちまける事しかした事が無い。
鎮まれ・・・・
鎮まるんだエイチ・・・・・・・
謝まれ・・・・
生まれて初めてでもそうしないと・・・
エイチはゆっくりとマチから少し離れると、両手で顔を強く覆って、大きな深呼吸をした。
マチがエイチを見上げる。
「・・・・大声を出し過ぎた。つい気が立って・・・」
マチはエイチの事を何度も見つめて観察した。
エイチが最後に叫んだ台詞が胸に刺さったまま抜けない。まるで突き刺さった矢がマチの胸を貫通して楓の木の幹に達し、彼女の身体をそこに固定しているかのように身動きがとれなかった。
エイチはそんなマチの視線を痛いほど全身に感じた。
そうだ。いつもの俺じゃない。こんな姿誰にも見せた事が無い。自分から引き下がった事なんて一度もない。
でも、もう降参しないと・・・
「・・・・いつも、頭に来ると押さえられない。我慢すれば良いのに、したくないからつい怒鳴る。そのせいでお前の事をずっと傷つけて来たと思う」
「・・・・」
「もう、今更許してもらえないのも本当は分かってる」
マチは潤んだ瞳でじっと黙ってエイチの事を見た。
怒鳴り合いの最中、流した涙の跡が頬に残ってキラキラと太陽の光を反射していた。
「でも、マチ謝る・・・」
マチが驚愕の瞳で口を開けてエイチを見た。
「今まで悪かった。全部俺が悪い。だから許して欲しい」
あの謝れないエイチが、絶対出来ないはずなのに謝った。
「もう、お前には勝てない」
エイチはその場に膝を折って座り込んだ。立ちすくむマチの前に座って言った。マチよりも低い視線になる。
「完全に負けた・・・」
マチが意味不明な事を言い出したエイチを心配して困惑した顔を向けた。
また、黒い瞳で俺の事を見てる。
俺はお前のその目が好きだ。優しく輝いているのに悪い事を許さず、俺を絶対に諦めない根気がある目なんだ。他の人間がどんなに諦めてもマチだけは諦めない。恐がらずにめげずに中に入って来て、傷のありかを探そうとした。始めは傷を見つけて、それを攻撃するのかと思って警戒してた。でも違った。マチはそれをどうにかして塞いでやろうと、治してやろうとした。好きでもない、愛してるわけでもない、むしろ大嫌いな男の為に。だからもう俺はお前に太刀打ちできない。何をしてもお前には敵わない。お前の方がずっと強い。歯が立たないし、手も出ない。
お前には分からないだろう?なんで負けた気になんてなるのか・・・・
マチはとても心配そうにエイチの事をみつめ、楓の木からようやく身体を起こした。眉をしかめて今まで見たことが無いエイチの様子に真剣だった。彼女は地面に膝をつく彼の前にゆっくりと寄った。
エイチは接近したマチの身体の温もりを空気の中に感じるかのように静かに目を閉じた。
そして再び開くとマチの事を真剣に見つめ、真っ直ぐその青い瞳で言った。
「マチ、お前に惚れてる」
マチがビックリして目を開きエイチの事を見つめた。
急に言われた事を直ぐには理解できないようだった。
「惚れ・・・」
マチは真顔になってエイチの事を何度も見返した。今言われた事を繰り返し考える。
エイチは素顔のまま本心をマチに言った。
「俺はずっとお前の事が好きだ」
「・・・・」
マチは彼の目を左右交互に何度も見つめ、過去の記憶を思い出し、その中にそんな気配があったかどうかを探していた。そんな目だった。
「絶対、女になんて惚れないって決めてた。女に本気になるのなんて嫌だった。親父やロイの二の舞になりたくなかった」
「・・・・・」
「何度も自分にウソをついて、そんなはず無いって思って戦った。卒業して離れれば忘れられると信じてた。でも結局無理だった。むしろ離れた事で欲求が強くなった。諦めるなんて出来ない。忘れるなんて無理だ。嫌われてても、上手く表現できなくても、もう止められない」
エイチは青い瞳でマチを見上げた。
「・・・・・」
マチは何も言えなくなった。
エイチとの歴史が頭をよぎる。あまりのことに何も返事が出来なかった。
エイチは素直じゃない。自分の本心も言わない。でも今、自分にだけはそれを見せてくれた。そして、本当は好きだと言ってくれた。
エイチはマチの瞳から涙が伝うのを見つめた。
悲惨な思い出が目の裏に蘇る。
「昔は本当に嫌だった。男子寮に越して来たのもムカついた。成り行きでマネージャーになったのも面白くなかった。その挙句、MRのパートナーだなんて、気が狂いそうだった。あの頃はお前を仲間だと思いたくなかったし、認められなかった。俺はそう言う男なんだ。気に入らない奴は徹底的に追い払いたい。そう思いながらずっと毎日過ごしてた」
二人は同時に過去の残酷な歴史を振り返った。
「昔から凶暴で・・・・小さい頃から悪魔みたいだとか人間じゃないだとか、そんな風に言われながら育って来た。それは多分、母親に言われた事だけが原因じゃない。もともと産まれ持った性格が腐ってるんだ」
エイチは宙を見て自分を振り返ってそう言った。
「どんどん身体が大きくなって、人を殴る事を覚えた。負けたことなんて今まで一度も無い。誰かに地面に押さえつけられて倒されるなんて一度も無かった。それなのに、お前にだけは一度も勝てない」
マチは黒い瞳で話を続けるエイチを見つめた。
「お前はずっとSを愛してた。始めからずっとSに夢中で、ずっとあいつばかり追いかけていた。あいつの事だけを気に掛けて喜んでもらおうと必死だった。そして俺にはそうしなかった。当たり前だと思う。それが正しい」
二人のいる公園に静かな時が流れた。
「でも、俺にはそれが面白くなかった。時間が経ってようやくそれが嫉妬だとはっきり分かるようになった」
マチは静かにエイチを見つめ、口を一切挟まなかった。
芽吹き始めた楓の幹の艶やかな黄緑色の葉が、風にそよいで小さな音をたてる。
エイチの低い声だけがマチの耳に届いた。
「Sが・・・・あいつが女と別れてお前をダンスに誘ったのを知って殴らずにはいられなかった。すべきじゃなかったと思う。お前にこれ以上無いくらい嫌われて公園で座ってた。反省なんて出来なかった。怒りが治まる事も無かった。それなのに、目の前にお前が現われて、俺になんて言ったか覚えてるか?「重症」だって言った。自分が長い間感じてきた事を言い当てられてショックだった。それでもう、お前の傍にいられないと悟った。だから卒業パーティーの時別れを言った。お前から逃げようと思った。忘れないと危ないと感じた」
エイチの顔を風が横切り、こげ茶でくせの無い美しい髪にそよいだ。空よりも、海よりも、宝石よりも青く透き通った瞳が真っ直ぐにマチだけを見つめている。
「同窓会の時、お前に会って感じた。頭では否定しようともがいているのに懐かしいお前の姿を目が追って、自分の意思ではとめられなかった。それで・・・・忘れるのを諦めた。でも、良く分からなかった。あんなに虐めて仲が悪かったのにどうやって今更近づけば良いのか思いつかなかった。」
エイチは地面に視線を落とし、そして再びマチを見つめた。
「試合中、肩を打たれた・・・・倒れる瞬間、もしかしたらお前に会えるんじゃないかと思った。運ばれた病院にお前が来てくれるような気がした。そんなはず無いのにそう思った。目が覚めてもやっぱりお前は居なかった。でも、どうしても会いたくて抜け出してバンクーバーに飛んだ。あの時、お前は俺を追い払わなかった。嫌いな奴なのに俺を自分のベットに入れて朝まで傍にいた。それなのにやっぱり言えなかった。お前と顔を合わせると恥かしくて、あんな姿を見られた事の後悔が先立った」
エイチは静かに話した。
「マチ、本当は感謝してる」
マチは本心を語る彼の前で涙が止まらなかった。そよぐ風に涙が舞った。
「あのパーティーでお前が日本人の男と親しげに話しているのを見てはらわたが煮えくり返りそうだった。悔しくて席に座ってられなくて廊下に出たところでお前に会った。ハジメの為にドレスアップしてるのも、いつもつけない香水をつけて来たのも気に入らなかった。二人でホテルに向かったと知って頭が真っ白になった。どうやってホテルまでついて行ったか覚えてない。どうやって家に帰ったのかも・・・・」
「・・・・・」
エイチは苦しそうに顔を上げて、マチに言った。
「――――――あいつと別れて欲しい。」
立ち上がってマチに真剣に告げた。
「わがままだって分かってる。あんなにお前を傷つけておいて今更だよな?知ってる。でもやっぱり忘れられないんだ・・・あいつがどんな奴かは知らない。きっと俺に比べれば何百倍もいい奴なんだと分かる。でも・・・」
いつもの彼ではなかった。意地悪でも笑っているのでも、馬鹿にしているのでもなく、真剣なエイチだった。
「マチ、お前の事が好きなんだ・・・Sにした様に愛してくれとは言わない。でも、俺を男として見て欲しい。あの頃みたいに・・・いつも傍にいて欲しい」
エイチの瞳が強かった。その青い瞳は怒りに燃えているのでも、悲しみに打たれているのでも無く、真っ直ぐマチの事を見つめ自分の素顔を見せていた。
そして彼の言葉はマチの心に真っ直ぐに届いた。エイチの本心を聞いて身体が震えた。涙が止まらない。息をするのも辛いほど胸が一杯で苦しかった。
誰にも心を開かず本心を話さず、いつも強気で恐い冷たい瞳をした彼が自分にだけ心を開いて自分の気持ちを話してくれた。ちゃんと始めから最後まで包み隠さず話してくれた。絶対出来ないと思っていたのに謝って、お礼を言ってくれた。
マチは佇んだまま、感情が高ぶって呼吸が上手く出来ず、言葉を発する事も出来ずにいた。
まるで時が止まってしまったかのように、二人の間に長い沈黙が流れた。
爽やかな風が二人の足元を霞め、止まった時間をそっと押して動かす。
永遠とも思える時間、エイチは彼女の答えをじっとその場に動かず待っていた。
マチがようやく静かに答えた。
「エイチ・・・・・私・・・・・・」
マチがひきつけた様に苦しそうな呼吸で言う。あまりの出来事に心が震えて思うように声が出ない。
「・・・・ハジメさんと付き合ったりして無いわ・・・」
「!」
エイチは即座にマチの瞳を探る。
「付き合ってない?・・・じゃあなんで!あいつと寝たり!・・・」
怒りが再び沸きそうになるのをかろうじて押さえようと大きく息を吸い込んだ。
怒鳴るんじゃない!
自分に言い聞かせた。
「・・・そんな事してない。私は付き合ってもいない人とそんな事しないわ。そんな事エイチが一番良く知ってるでしょ?」
「・・・・」
マチの黒い瞳を交互に覗きこみ、それが真実かどうかを見極める。
マチはウソがつけない・・・・・エイチはそう心の中でつぶやいた。
「寝てないのか?あいつと・・・・・」
マチはそんな事してないわ、と首を強く横に振った。
「・・・・・・・」
エイチはマチの瞳が真実を述べている事を確信しながらも、あの日の事を思って、聞かずには居られなかった。全て自分の目の前で起こったのだ。
「そんなはずない。俺はこの目で見た。お前はハジメの部屋からずっと出てこなかった。俺は何もできないでその場に立ちすくんでた。同じ部屋に泊まって何も無いはず無いだろ・・・・」
エイチが恐怖を持った瞳でマチを見返した。
あの時を思い出すのが苦しかった。心臓が裂けそうな気がした。
マチはまた首を振ると話した。
「パーティーに行く前に、お互いの部屋が繋がってるんだって、中の扉で自由に出入りできるんだねって話しながら、それぞれの扉から出たわ。出発の時、うっかりカードキーをベットの上に置き忘れて扉を閉めちゃったの。それをハジメさんに言ったら帰りは自分の部屋から入って向こう側へ行けば良いねって言う話になったの。だから帰って来た時もその通りにハジメさんの部屋から自分の部屋に入ったわ。そして中から鍵を閉めてシャワーを浴びたの。ハジメさんに会ったのは翌朝で、何も無かったわ。当たり前よ、ハジメさんは紳士なのよ、変な事をする人じゃない。私にそんな事しないわ」
マチは節目がちに恥かしそうに話した。
「・・・・・寝て・・・・・・ないのか・・・・・・・・」
エイチはかすれるような声でそうつぶやくと、三日間飲まず食わずで床に転がり、打ちのめされていた自分を思い出した。しかし、あれは無駄な三日間ではなかったと思えた。
マチは寝てない!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます