第221話 『処女を捧げに』①

 新年に入り、マチがエイチとの関係に心を痛めていた頃、シルトは一人バイクからヨロヨロと降りて、港の方を一人見つめながら放心していた。


 心の中に大きな穴が空いて風がそこを通過している様な感じがした。

 誰か・・・・

 助けて欲しい・・・・

 もう、カナダを離れてインドとか、チベットに行こうかな。

 僧侶にまじって瞑想とか修行がしてみたい。裸足で寺院の中に入って「ここで靴を脱ぐのは、身分の上下を無くす為だよ」とか「素手で食事をするのはスプーンで食べるよりも満足感を味わう為なんだ」とか、そんな事を言ってみたい。

 リカ・・・・

 一体どこのどいつと一緒にいるんだろう・・・



 それは昨晩の出来事だった。シルトはダウンタウンのレストランの前をキャンディーを咥えながら歩いていた。練習が終わった後だったので随分遅い食事の後の解散だった。

 どこかから声が聞こえて来てなんとなく振向くと、そこには別のレストランから出て来たリカと男友達の姿が見えた。

 探偵だかガードマンとやらに見られたらまずいと思って直ぐに目を逸らして違う方向へ歩き始めた。声が大きいから二人が喧嘩してるのが分かった。聞いちゃ駄目だと思いながら目を泳がせていると反対側の歩道に大変なものを見つけた。

「はっ!」

 二人が何か言い合いしているところに、公園の暗がりから三人の男がユラリと出て来た。ダブダブのジーンズを腰のぎりぎりまで下げて、破れたTシャツをだらしなく着てる。何か様子がおかしい。酒に酔っているか、麻薬でラリってるかどっちかだ。

 

 三人の悪い男の登場で、二人の喧嘩が途中になった。リカが可愛いので取り囲んでからかおうとしているようだった。横に居る男友達は三人の体型に比べると頼りない。

 絡んだ男に対して、気の強いリカが何かを言ったようだった。頭に来たのか一人の男が持っていたビール瓶を地面に投げて割った。 

 リカが恐がって悲鳴を上げた。隣にいた男友達も恐くなったようだった。更に一人がリカの連れの肩を掴んで羽交い絞めにした。弱い男は何も抵抗できないようだった。リカが止めるように叫んだ。


 シルトは一部始終を見ていた。

 しかし、見ているものが違った。

 目の前の歩道で繰り広げられている喧嘩寸前の言い合いではない。リカがいる歩道に大変なものを見つけたのだ。

「犬だよ!」

 シルトはその犬を凝視していた。リカ達の方に向かって歩いている。

 しかもリードが付いてない!どこかの家から抜け出して来た犬かな?結構大きい中型犬だ!大変だ!リカが犬になんて噛まれたら!危ない!

 シルトはいきなり現れた野犬にパニックになった。キャンディーなんて舐めてる場合じゃない。ガリガリと噛んで大至急飲み込んだ。悪い男達も、隣にいる男友達の事も気にならなかった。自分が何としても「犬から」リカを救わなければという強い使命感がメラメラと燃えた。

 シルトは走り出した。

 犬が、彼女に近づいたのが見えた。

 彼女に手を出そうとしたのを払われて頭に来たのか一人の男が近づいて来た犬を邪険にして蹴った。

「あああああっ!犬を怒らせちゃ駄目だってば!」

 シルトは叫んで更にスピードを上げて走り出した。

 案の定、犬は反撃に出た。気性の荒い犬で歯茎を見せてうなり声を上げると男の足に食いついた。そのまま、男が履いているズボンを咥えて、前足を上げて激しく首を左右に振る。男が叫んで犬を追い払おうとしたが駄目だった。犬はどんどん首を振って男のズボンをずり下げる。もともとずり落ちる寸前まで下げて履いてるジーンズだった。

「わああああ!止めろ!このバカ!」男が慌てる。

 

 犬の出現にペースを掻き乱され慌てる男達を横目に、シルトは恐がって困惑する彼女の真後ろに立った。そして、シルトの存在に全く気がついていないリカに向かって真剣な顔をして言った。

「ごめんね、ちょっと触るよ!」

 そう言うと、シルトはリカを軽々と前に抱きかかえてその場から走り出した。

「きゃあ!」

 と驚いてリカが緑の美しい瞳でシルトを見た。そして走りながらシルトが振向いたのでリカも男達の方を自動的に向いた。

 丁度、男がズボンもパンツも一緒に全て下ろされて、抜けたベルトを犬が咥えて唸っているところだった。

「やだっ!」

 リカはシルトと目を見合わせて笑った。リカがシルトに連れ去られても暴れる犬に夢中で男達はこちらに気がついていないようだった。


 満月の美しい夜だった。シルトの見事なプラチナブロンドが夜風に揺れる。

「シルト、恐い人達から助け出してくれて有難う」

 リカはグリーンの瞳をキラキラさせてシルトにそう言った。

「恐い人達って?」

 そう言うシルトをリカは不思議そうな顔でじっと見つめると、少し考えた。そしてようやく答えが分かっておかしくなった。改めてお礼を言い直した。

「シルト、「犬から」救ってくれて有難う」

「どういたしまして!噛まれたら大変だったから」

 リカはクスクスと笑いながらシルトに言った。

「それにしても目に悪いものを見ちゃったわ。最低!」

 リカはイタズラな目をしてシルトに言った。もうすっかり別の通りまで逃げて来たのに、歩かずに彼の首にしがみついたまま運ばれる。

「ねぇ、あなたのと比べるとどう?」

 珍しい下ネタをリカが言う。

「なっ!」

 シルトは真顔でリカの事をまじまじと見た。そして、

「信じられない・・・なんて事を言うんだよ」

 と言った。金色の目が彼女をはっきりと責めていた。

「あら、お嬢様育ちだからって、私だって時々こんなジョークも言うのよ?いいじゃない。そんなに怒らなくたって」

 肩を上げておどけて見せた。

「そんな事を責めてるんじゃないよ!」

 シルトはとても怒っていた。

「え?」

「あんなに小さい奴と比べるなんて信じられない!俺のを馬鹿にしないでくれる?」

「!」

 リカは大笑いした。シルトはとても憤慨しているようだった。

「リカにこんな下品な事言っちゃだめだって分かってるけど、楽しいよね」

 シルトもつられて笑った。屈託の無い笑顔だった。


 リカはいつまでもそのまま彼の首に掴まり前に抱かれたまま夜道を楽しげに進んだ。シルトも彼女を下ろさなかった。

 何故か二人は、始めからそうやっていたかのようにたわいも無い話をした。

「エイチってさ、人の大切にしている物を見つけてそれをネタに傷つけるのが大得意なんだ。いつも誰が誰の事を好きで誰の事が嫌いなのかとか何を大切にしてるのかをブルーの瞳で観察していて覚えてる。だから「今、ここで?」ってタイミングで急に痛いところを突いて切り込んで来るんだ。あいつはそう言う事が出来る才能があるんだよ。どうすれば人が悲しむのかちゃんと分かってる」

「そうなの?」

「昔、俺がカナダに来たばかりの頃、アルベルトがね、オーストリアの実家で使っていた枕を空輸で送ってくれたんだ。もう、どれ程嬉しかったか分かるだろ?嬉しくていっつもそれを持ち歩いて抱いて寝てたんだ。アルベルトが傍にいてくれるみたいで安心したよ。あの家のしきたりは嫌いだったけど、アルベルトの事は好きだったんだ。彼の教育とかレッスンは大嫌いだよ?今でも絶対受けたくない」

 リカがクスクスと笑う。リカにはオーストリアの実家の事を知られているので何を話しても良かった。それがシルトにはなんだか嬉しかった。

「ある日、エイチにその枕が見つかった。『こんなもんをいつまでも持ってるから強くなれないんだ!』って叫んで、その枕を取り上げると橋の上から川の中に捨てたんだ。物凄い喧嘩になって俺は負けた。エイチに喧嘩で勝てるわけないよ」

「酷い事をされたのね、大切な枕を捨てられた挙句、ボコボコにされたんでしょ?」

「そう。でもね、そのお陰で今では枕なんて無くてもどこでも寝れるようになったんだよ。ほら、あの廃トレーラーの中とかね。ハハハ!」

 リカはそんな風に話すシルトを見つめた。 

 私がエイチの事を愛していたのを知っているのにこんな話をしてエイチを責めないで楽しい親友の話をしてる。

「エイチの事を嫌いにはならないの?」

「嫌いに?ならないよ!絶対。あいつは俺を犬から救ってくれた命の恩人なんだよ」

 シルトはニッコリと微笑んで言った。

「あなたって・・・大人なのね。尊敬するわ」

「大人・・・・・」

 シルトはリカにそんな事を言われて、むずがゆくなった。そしてとても嬉しかった。

 二人は月明かりの道をゆっくりと進み、久しぶりの会話を楽しんだ。



 翌日、シルトは中庭で偶然マチを見つけてこの話をした。「大人なのね」と言われた事をマチに報告した。

「そんな事があったのね。良かったわね、シルト」

 マチはシルトを励ました。そして直ぐに真顔になると

「エイチって・・・やっぱり小さい頃から本当にひどい子だったのね、最低だわ」と怒りながら去って行った。

「あれ?俺何かマズイ事言ったかな?」

 シルトは首をかしげた。

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