第216話 『仲間と言う名の壁』
エイチはマチをどこかへ連れて行ってやりたいと思った。実家には夕方行けば良い。何ヶ月振りに一日まるまる空いている。クリスマスイブだからだった。
今日は仕事も無い。マリアンヌも電話してこないつもりみたいだ。もしかしたらイワンと一緒に居るのかもな。あいつら・・・・本当に似合わない二人だな。
まぁ、人の事はどうでも良い。目の前にあるこの問題をどうにかしないと。こんな機会二度とないかもしれない。二人きりで真面目に話せる時間がずっと欲しかった。
マチはどう思っているんだろう。ロイからジャスミンに会わせたいと誘われて、予定が無かったからたまたま来たとしても、クリスマスを俺の実家で過ごすのは嫌じゃないのか?
「え?本当に?じゃあ、エイチの行っていた小学校に行ってみたいわ。ここからは近いの?」
どこか行ってみたいところは無いのか?と言うエイチの質問にマチはしばらく考えるとそう言った。
「小学校?なんてつまらないところに行きたがるんだ?」
エイチはそこがいかに面白くないところなのかを説明し、せっかく行くなら凍ってる滝とか、そう言うのを見に行った方が楽しいのにと自分の意見を散々言い、それを聞いたマチが「じゃあ、凍ってる滝でも良いわ」と返事すると、なんだよそれじゃあ、結局俺が行きたいところに行く事になって、お前に聞いた意味が無くなるだろ?仕方ないから小学校に行く。究極の時間の無駄遣いだな。と話しが終わり、結局、小学校を見た後、少し北上して凍った滝を見に行く事になった。
エイチの小学校はとても広かった。大きなグラウンドが広がっていて、校庭の端にはホッケーの屋外リンクがある。
クリスマス休暇に入って皆家に居るのか雪がチラつく校舎には人影が無かった。校門に車を横付けすると、雪が積もる校庭を二人はリンクへ向かって歩き出した。
「ねぇ、もしかしてシルトもここの小学校に通っていたの?」
「ああ、そうだ。あいつとはもう十年ぐらい一緒にいる」
エイチは外のリンクを見て、あの日を思い出した。そして犬に追いかけられたシルトがあっちから走って来て助けてくれと叫んでいた事件をマチに詳しく説明した。
「だから、今でもあいつは犬が苦手なんだ。昔、一緒にカフェでメシを食ってたら目の前の道を通り掛かった老人が、犬のリードを間違えて落としたんだ。犬がこっちに走って来た。シルトの恐がり様と言ったらそりゃあもう笑えて!机に立ってるパラソルを登る勢いで逃げたんだ。でも、犬は逃げる物を追いかける習性があるだろ?だからどんどんシルトを追いかけた」
「大きな犬だったの?」
「めちゃくちゃ小さなネコみたいな犬だった。ポメラニアンかなにかじゃないか。良く知らない」
マチはシルトの苦手なものを知ってまた彼が一段とかわいらしく思えた。
「エイチが助けてあげたらよかったのに。あなただったら簡単に追い払えたでしょ?」
「物凄くおもしろいのに助ける訳ないだろ。目の前で腹を抱えて笑ってた」
「ひどいわ。シルトは本気で恐がってたのに」
「シルトもすごく怒ってた。なんで親友なのに助けてくれないんだ!って」
「その通りよ。意地悪ね」
「俺は別に善人でもなんでもない。助けてくれって叫ばないから」
マチは少しエイチの事を見ると
「でも、エイチは本当に困っている時は助けてくれるわ。分かってるの。こんな私でも助けてくれたものね。ペンキの時も、スケートが出来なかった時も。お父さんから電話が無かった時も・・・アバディーンで迷子になっちゃった時も」
「・・・・」
「エイチ、この間はバスで事故になった時助けに来てくれて本当に有難う。ちゃんと顔を見てお礼が言えてなくて気になってたの。ロアンナも私も助かったわ。本当に、エイチいつも有難う」
マチが白い息を吐きながらエイチに微笑みかけてお礼を述べた。
またお礼を言われた。
エイチが言われ慣れないお礼を言われて困ったように目を逸らしていると、マチが言った。
「私、イーストケースに引っ越して来た時、まさかこんな風にエイチと一緒に話せるようになるなんて一つも思わなかったわ。嫌な事も、苦しい事も、悲しい事もあったけど今は全部感謝できるの。お陰様で神経が太くなって自信がついたから。ユニフォームを貰った時の感動が今でも忘れられないわ。皆に認めてもらえて凄く嬉しかった。でもね、私の一番の感動は、その一人がエイチだったからなの。どれくらい嬉しかったかわかる?想像できないでしょ?ふふ!」
エイチは悲しい瞳でマチを見つめた。これから言われる事が何か分かって、心がそれに耐えられるか心配になった。
「エイチ、仲間だって認めてくれて有難う。これからも仲間でいさせてね」
マチは満面の笑みで真っ直ぐ彼に言った。黒い瞳がキラキラ輝いて冬の景色に美しかった。
エイチはそんな顔をして自分を見るマチに何も言葉を返す事が出来なかった。
固まったまま動くこともできなかった。
ああ・・・俺にはさっぱりわからない。
勉強って何のためにあるんだ?数学や国語よりもっと大切な授業があるはずだ。性教育はするくせに恋愛の仕方を教える授業が無いなんておかしい。
『お前なんてただの仲間だろう?』そう言われたら何て言い返せば良いのか正解を教えろ!
こんな問題考えたことが無い。教わったこともない。だから答えが何かわからない!
恋愛なんて大昔からあったはずだろ?先祖は何をしてたんだよ。こんな難問一人じゃ解けない。俺のせいじゃない!
今必要なのは微分積分でも素粒子の研究でも、ホッケーのスキルでもなんでもない!『仲間』だと割り切ろうとしてくる彼女になんて言い返せば良いのかだ。
マチの目がはっきり言っている。
お前は『仲間でしかない』つまりそれ以上には決してならない固定されたポジションに付いてろと言う意味だ。
降格はあっても昇格することはない。友達でも親友でも恋人でもなく『仲間』なんだ。
仲間でいてくれ?ずっと仲間のままで?
そんなの考えたこともなかった。
エイチは混乱して絡まる思考のカオスに正しい答えが見つけられず、寒い雪景色の中疲労した頭がぼーっとした。
その後、滝を見に行った。エイチは滝を見ても何も感じなかった。目の前の風景が全て滝と同じように凍って冷たく動きもせず、モノクロの絵の中に居るように感じた。
『仲間』でいたいとはっきり断言されて、目の前に巨大な壁が立ちふさがっているような気がした。
今まではただ距離があると思ってた。でも違った。その道は歩いて行くといずれマチに会える道なんかじゃない。そこに聳え立つ壁は登れない程高い垂直の分厚い壁で、回避できないほど幅が広い。どこまでもどこまでも続く壁だ。力で崩す事も出来ない。
ずっと二人きりになれる時間が欲しいと思っていた。そして、その時がやって来たのに話そうと思っていた事は壁が厚過ぎてマチの耳には届かない事が分かった。
エイチはそれからと言うもの、始めて見る光景を無邪気に楽しむ彼女が話しかける言葉にも適当な返事しか出来なくなった。寒い観光地には人もまばらでエイチの事を見て、はっとなる人も居たが、無表情な彼に陽気に近づいてサインをねだる人間は今日は居なかった。二人は滝が眺められる少し離れたところのベンチに座った。
一体何が原因なんだろう・・・・手が出せない。口も出せない。全身を見えない鎖で縛られて拷問されてるみたいな感じだ。
どうして素直に自分の気持ちを言えないんだろう。言えば良いのにできなかった。言おうと思ってたのにマチがそれを制止した。良い仲間でいてね?仲間以上にはなりたくないとでも思ってるのか?まるで「お預け」にあってる犬みたいだ。
エイチ、お前は本当にH・ハンドクルーなのか?NHLで活躍する人気選手なのか?口が悪くて、凶暴で・・・・素の俺がこんな事に悩んでいるなんて一体誰が想像するだろう?
俺だってこんな事してたくない!
でも、何故か手が出せない!
言い返すことも出来なかった。
エイチは凍ったような瞳をして宙を見つめた。
悔しい気持ちが一杯で、段々それが変化して悲しくなって来た。今はもう虚しくて何も考えたくない。
ああ!どうしてこんなに嫌な気分に陥るんだろう。まるで失恋した気分だ!
エイチは真横にいるマチを困ったようにチラッと見た。そして思った。
マチは直ぐ横に居て、手を伸ばせば肩を抱ける程近くに居る。それなのに、どうして俺の手はベンチの背もたれなんか抱いてなきゃならないんだ!
ああもう自分が嫌になる!
◆
トロントの街に戻って来るとすっかり夕方になっていてエイチとマチはロイが待つ実家に向かった。
雪の道をボーっと走った。さっき言われた事が自分でも理解できないほど心に傷をつけたようだった。母親がつけた傷口が治りかけたと思ったら、今度は別のところをえぐられて苦しい。そっちの傷はもっと厄介で、怒りじゃないものが込み上げる。流れ出てくるのは泣きたいくらい悔しい感情だ。
マチは、考え事をして押し黙るエイチを不思議に思いながら、楽しみにしていたパーティーに心が奪われ浮き足立っていた。
分からず屋のエイチがこのパーティーに参加してくれること事態が素直に嬉しかった。
エイチは車を降りると、急激に現実に引き戻された。そして目の前に突如として広がった光景に度肝を抜かれた。
「な・・・なんなんだ?これは・・・・」
エイチは家全体を見回し唖然とし、肩に担いだ二本のスティックを思わず落とした。
「俺の家じゃない・・・・・・」
屋根の頂上から放射線状に何本もの電飾が地面に伸びていて、玄関の周りにはトナカイとサンタクロース、スノーマン、星やらソリやら何十体もの飾りがひしめき合い、玄関は飾られた巨大なリースで取っ手が握りにくい程だった。
あっけに取られたエイチの腕を引っ張ってマチが楽しそうに向かわせる。
「いらっしゃい!」
明るく出迎えてくれたのはジャスミンだった。あの日、リンクで初めて会った時よりも更に元気そうで健康そうな顔だった。長い苦しみから解放されたのはロイだけじゃなかった。家族の正しい姿を再現する事が出来てジャスミンは本当に幸せそうだった。
廊下の奥から双子が猛スピードで走って出て来る。
「エイチ!エイチ!ねぇ、ホッケー教えて!今から一緒にやろうよ!」
「エイチ!大好き!あれってどうやってシュートしたの?」
テレビでしか見ないエイチの姿に夢中になっている双子は彼の大ファンだった。エイチの長い足に子犬が絡まるようにしがみついて大興奮で叫ぶ。
ロイが笑いながら出て来て二人を迎えた。
「よく来てくれたね。二人とも、さぁ部屋に入って。父さんも二人が来るのを待ってたんだよ。ジャスミンが用意してくれたご馳走を一緒に食べよう」
エイチはしばらく放心すると、手に持っていたスティックを二人に渡した。双子は喜んでそれを受け取り走ってリビングへ向かった。
「振り回しちゃ駄目よ!」ジャスミンが叱る。
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