第215話 『上手い嘘』
エイチが仕事から自宅に戻って来たのは夜中の一時半だった。エイチはマチに電話しようかどうか迷って、時計を見た。
もう寝てるかもしれない。昔ならそんな事気にもせずに電話してたな。変った自分がなんだか笑える。
エイチは長かった一日を終えて、鞄をリビングへ下ろすとベットがある二階にそのまま上がった。
毛の長い絨毯の階段を上がる。半分くらい上がったところでエイチは何かの気配を感じて動きを止めた。
「?」
なんだ?いつもと何かが違う・・・・
エイチは勘が良い。そして全身が目であるように神経が研ぎ澄まされている。
注意深くそして足音を立てないように寝室に近づいた。壁伝いに慎重に寝室の扉を開ける。
人の気配がする。
強盗?
まさか!俺の家だぞ?どれだけ下調べが足りないんだ。
何も盗れない上に俺に半殺しにされにわざわざ来るなんて。笑えるな。血祭りにして警察に届けてやろうじゃないか。
悪い血が焚き付けられて急にワクワクして来た。
強盗に対しての暴力だったら正当防衛になるだろ?不気味に口が歪む。
どうやって半殺しにしてやろうか・・・
はははは!
エイチは目が良く暗くても全て見えた。寝室に入ると横に置いてある椅子の上に何かが乗っているのが見えた。
「っ!・・・」
エイチはそれを見て息を呑んだ。知っている。見た事のある柄のバックだった。赤と緑のパッチワークで楓の葉がモチーフになっている世界一ダサイバックだった。
エイチは続けてベットを見た。そして一気に肩の力が抜けた。
そこにはスースーと小さな寝息を立ててマチが眠っていた。ぐっすり寝ているのかエイチがそこに立っている事にも全く気が付いていない。エイチは心の中でつぶやいた。
一体どんな上手い嘘をつけば自分のベットに彼女を寝かせる事が出来るんだ?
「・・・・」
あっけに取られた。
マリアンヌの仕業だな・・・・・
エイチはマチの寝顔を覗き込むように見つめた。あの日、保健室でぐっすり眠っていたのと同じで今日も全然起きる気配が無い。エイチは小さく笑うと廊下に出た。
そして隣の部屋に行き、マリアンヌに電話を掛けた。
「貴様!何考えているんだ!余計な事するなって言っただろ!なんて嘘をついたんだよ!」
エイチが小声で怒鳴るので彼女が隣の部屋で寝ているのが分かってマリアンヌは笑った。
『いいじゃない、どうでも。明日は仕事も無いんだし、クリスマスよ!エイチ、メリークリスマス!私からのプレゼントだと思って二人の休暇を楽しみなさい。お休み!』
「なっ!おい!切るんじゃない!」
エイチが言い返そうとするとマリアンヌは電源を一方的に切って、そのまま彼から電話が掛かってこないように電源も落としてしまった。
どうして俺の周りの人間はこうも強引なんだ?頭がおかしい奴らばっかりだ!まともな奴が一人も居ない!
エイチは寝室に戻ってマチの事を見た。凄く良く寝てる。
あいつなんて言ったんだろう。マチはここが俺のベットだと知ってたら絶対寝なかったはずだ。
しばらく寝顔を見つめるとエイチは色々考えるのを放棄した。呆れたし、疲れていた。
そして柔らかい表情ですやすやと眠るマチが目の前にいた。
目が覚めて俺が横で寝てたら怒り狂うだろうな。
「・・・・・」
知るか!そんな事!ここは俺のベットだぞ?お前が悪い。
エイチは彼女を起こさないように静かに自分も横になった。マチは貧乏性なのか大きなベットなのに端っこに固まって眠っている。
エイチはそんなマチを愛おしそうに目を細めて自由に見つめた。
マリアンヌのやり方は許せない。でも、マチが俺のベットで寝てる。信じられない事だ。そうなって欲しいとずっと思って来た。
またあのクリスマスの夜が来れば良いのにと思ってた。方法はどうであれ現実になった。
マチの寝顔がエイチの心をホッとさせた。近くにマチが居るだけで穏やかな気持ちになれる。ぐっすり眠れそうだ。
エイチはマチの事を見ながらため息が出た。明日の仕組まれたクリスマスパーティーの事を思い出した。そして心の中で言った。
行ってやるよ。行けばいいんだろ?屈辱的な方法だと分かっていても。兄貴や親父には勝てても、どうしてもお前にだけは勝てない。
エイチはマチの唇を見つめた。今日も柔らかそうだと思って少し笑った。しかし、エイチはもう彼女にキスはしなかった。もう、ふざけてキスはしない。何故か真面目にそう思った。
エイチは見とれるように彼女を見つめ、そして直ぐ、力が抜けて静かに眠った。
翌朝、マチが先に目を覚ました。目を開けると、あと少しで鼻がくっついてしまいそうなほど近くにエイチの顔があって思い切り驚いて息を吸った。
「ひっいいいいっ!!!!!」
その声でエイチも目が覚める。いきなり不快な声で眠りを妨げられ、不機嫌になる。
真っ青なマチの顔を見ると腕を伸ばして口をふさいだ。
「朝からうるさい!少しは黙って寝てろよ!」
「うううううううううう!」
強く口をふさがれているので叫んでも聞こえなかった。
エイチの手をどかそうとマチが慌てて彼の手を掴む。仕方なくエイチが力を弱めると、
「ぷはあっ!鼻まで覆わないで!息が出来なくて死ぬと思ったわ!」
マチが真っ赤な顔で怒った。
「ああ、悪い。気が付かなかった」エイチが笑う。
「・・・なんでここにエイチが居るの?ここマリアンヌさんの事務所でしょ?沢山ある事務所のうちの一つだってゲストハウスだって言うから!」
「あいつそんな嘘ついたのか?意外と簡単な嘘だな・・・」
エイチはそうしみじみと思った。
二人は階下に降りて明るいリビングで食事した。
ハウスキーパーが、マリアンヌに指示された通りの日時に掃除に入り、リネンの交換、冷蔵庫の中身を入れ替えている。冷蔵庫にいつも入っているリンゴをマチが見つけた。そしてまた皮を剥いた。エイチはそれを楽しげに見つめた。もう「老人じゃないから剥くなよ!」とは全く言う気にならない。
パンを焼いて、バターを塗って、ハムと卵を挟んで食べた。
「すごく奇麗な事務所だと思ったの。ホテルみたいにベットもシャワーも整えられていて、生活感がなくて誰かが住んでいる家だなんて全然分からなかったわ。それに、ここがあなたの家だと分かっていたら絶対泊まったりしなかったわ・・・・本当にごめんなさい」
マチがしょんぼりしながらとても悪い事をした様な顔をした。
謝ってるな。
「実家に泊まるより良い」エイチはもぐもぐと美味しそうにパンを食べながら言った。
「エイチがそう言うと思ったからあの日もちゃんとホテルに帰ったわ。安心して」マチがうつむきながらそう言った。
「お前が泊まるのが嫌なんじゃない。俺が知らないところで好き放題、周りにもてあそばれるのが気に入らないだけだ。別にあそこに泊まっても嫌じゃない。お前なら良い」
マチが黒い瞳でエイチの事を見つめる。
「うん。そう・・・・有難う」
マチはエイチにそう言われて少し嬉しかったようだった。目が優しく笑った。
エイチはその顔を見てまた胸が締め付けられるような感覚がした。
まただ・・・マチを見ると変な感じがすることがある。なんなんだろう・・・
エイチは恋をして、好きな人を見て胸がドキドキする体験をした事が無い男だった。自分の変化が良く分からない。ただ、別に嫌な気はしない。
マチが急に笑い出した。
「?」
「ねぇ、これってまただわ!ほら、ね?」
「なんだよ」
「私達、なんだか夫婦みたいなの!あははは!おかしい!」
マチにとっては物凄く面白かった様で、大笑いし出した。
「・・・・・」
エイチはパンをかじるのを止めた。
だから・・・おかしくないって言ってるだろ!こっちはちっとも笑えないのになんでそんなにおかしがるんだ!まるで「絶対に無い」みたいな笑い方だな?ああ!もう、この女をどうにかしてやりたい!俺をどうして男と思わないんだ!
「バカ!」思わず叫ぶ。
「・・・・また、言ったわね?」
しまった・・・ほらまた始まるぞ?エイチ、ここで言い返さなければ良いんだ。ここで止めておけば良いんだ。
「・・・・」
そう頭では分かっているのに胸にムカムカが込み上げる。
駄目だ!言い返したい!
「脳みそが足りない鈍いバカになんでバカって言っちゃいけないんだ?」
「何ですって?もう!せっかく気持ちが良い朝だと思ったのにあなたと一緒に居るだけで台無しだわ!」
「なんだと?勝手に人の家に上がりこんでおいて、なんだその言い草は!どの大口が言ってるんだ!見せてみろ!」エイチがマチに手を伸ばした。
「きゃぁああ!」マチが椅子から立ち上がってエイチから走って逃げた。
「俺から逃げられると思うなよ!」
色々な思いが重なった台詞に思わず自分で嫌気がさした。
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