第214話 『エイチが畏れている人』

 次の日、アリーナでは今年最後の練習とMTGが行われた。

 イワンは朝から猛烈に機嫌が悪いエイチの事を気にして声を掛けた。

「エイチ、お前ってどうしてそうやっていつも怒ってるんだ?物凄い無駄なエネルギーが必要だな」

 エイチはイワンが肩にかけて来た手を払って、キャプテンの顔を睨んだ。

「イライラしてるのにうっとおしい!」


 実家にいるマチをどうにか連れ出してあの家からさらいたい。

 

 あいつらの思い通りなんてさせるか!

 マチをあの家から引きずり出して、自分の家に連れてこよう。でも、そんな事したら結果は分かってる。マチにまた嫌われて、あの黒い瞳でこう言われるだろう。

「エイチ、せっかく楽しみにして来たのにあなたのせいで台無しね。最低だわ」

 そして言い合いが始まって、俺はまた怒りに任せて言うだろう。

「お前なんて大嫌いだ!二度と俺の前に現れるな!」

 繰り返しじゃないか・・・・・・

 俺だって馬鹿じゃない。どうすれば良いのか分からない中で考えた。

 昨日、寝ないで一つだけ思いついたことがある。それは・・・屈辱的な・・・

 自分が折れて、クリスマスパーティーに参加するって方法だ。

「最悪だ!」

 夜中なのに思わず叫んだ記憶が新しい。

 エイチは今でも闘っていた。


 明日、言われた通りに素直に実家のパーティーに行くのか?それとも今日、この後マチを奪いに実家に行くのか?そしてそれが引き起こす大喧嘩を取るのか?怒って悲しい顔をするマチとの怒鳴り合いを選ぶのか?

 エイチ、どっちかしかないぞ。

 頭に来てる。こんなやり方。あの時も完全にブチ切れて金属バットを持って実家に行った。あれと同じ事をされてるんだぞ!

 頭に来る・・・・なんで俺に黙ってこんな事をするんだ?こうでもしないと実家に来ないと思ってるからか?もっと方法があるだろ?なんでマチを餌に使うんだ・・・・卑怯だ。あいつもあいつで、なんで断らないで実家に行ったりするんだ!信じられない裏切り行為だ!

「・・・・」

 エイチは眉間に皺を寄せたまましばらく悩んだ。そして思った。

 マチは別に悪くない。どうせ、兄貴に言いくるめられたんだ。自分から話すまでは内緒にしておいて欲しいとか何とか言われてその通りにしたんだろうな。

 

 エイチは腹の底がムカムカして、行くのか?行かないのか?そう繰り返し自分と闘って頭から湯気が出そうだった。

 エイチにとってクリスマスパーティーに行く事は負けを認めることになる。究極の負けず嫌いであるエイチの信念がぎりぎりと音を立てていた。何者かがその固い鋼の様な意志を違う方向へ曲げようとしてる。

 もう、喧嘩したくない。もっと違う話をしないと・・・

 エイチは両目を強くつぶった。



 イライラしているところにイワンに絡まれていきなり腹が立って来た。

「俺に触るんじゃない。ただでさえ気分が悪いのに!」

「一体どうしたって言うんだ?こんな事で腹を立てるなんてよっぽど気に入らない事でもあったのか?女か?」

 ピキッ!とガラスにヒビが入ったような音が耳の奥で聞こえた。

「うるさい!さっきから黙って聞いてれば偉そうに!兄貴面してくるんじゃない!この女ッ垂らしのスケベジジイが!」

「なんだと?俺はジジイじゃない!お前の兄貴と一緒の歳だぞ!」

「そんな事知るか!」

 先に相手の服を掴んだのはイワンだった。

 イワンが自分に対して腹を立ててる事なんて分かっていた。あの日、マリアンヌとの出来事を全部電話で盗み聞きした。あの事に対してイワンはエイチにまだ復讐していない。

 エイチの目が直ぐに変る。攻撃対象を見る冷たい青い目に豹変する。殴る場所は始めから決まってる。後は思いっきり殴るだけでいい。

 イワンは目の前の男の目が悪魔の様に変るのを見た。とても恐ろしい目だった。

 殺られるかもしれない・・・・そんな風に瞬時に感じた。

 二人の異変に気が付いて仲間が慌てて駆け寄ろうとしたその時だった。


「エイチ?」

 廊下で突然、彼を呼ぶ声が聞こえた。

「はっ!・・・」

 エイチはその声を聞くと、息を呑んで身体が固まった。

 突然固まって目から戦意を失くしたエイチに一番ビックリしたのはイワンだった。

 おい、なんだ?何が起きた?

 エイチは直ぐに振向いた。そこにはマリアンヌに連れられて「ゲスト」の特別IDを首から提げ、眉をしかめてじっと彼の事をとがめるように見るマチがいた。

「なっ!・・・なんでお前がここに?」

 イワンも突然目の前に現われた小柄な女の子とエイチを代わる代わる不思議そうに見る。

「エイチ?今何しようとしてたの?」

 エイチは首を振った。

「何もして無い」

 マチがじっと疑わしそうにエイチを見た。

「なぁ、おい、この子は誰だ?」

 イワンが驚いた目をしてエイチに聞いた。信じられないと顔に書いてある。

「誰でもない。ただの女だ」

 エイチは極力平坦な口調で言った。

「うそだ。この分からず屋で、気が立つと人を殺しかねない凶暴な男から一瞬で殺気を奪ったんだぞ?」

 イワンはマチの前にやって来て両腕を広げながら言う。

「名前を呼んだだけでこいつを黙らせる事が出来るなんて信じられない!君は魔法使いか何かなのか?」

 イワンが大げさに両肩をあげて驚いて見せる。

 それを聞いてマリアンヌが笑った。

「そもそも、なんでお前がこんな所に居るんだよ!部外者は入れないはずだろ?」

 エイチが怒り出す。イワンとマリアンヌに笑われて腹が立つ。

「ロイさんに言われて、ちょっと寄っただけよ。直ぐに帰るわ」

 直ぐに帰る?

「どこへ?」

「ロイさんの家よ。そこに今晩と明日、泊まっていって欲しいって言われて・・・・」

「なんで勝手に俺の実家に泊まったりするんだ!」

「・・・・今日もホテルに泊まると言ったんだけどロイさんがどうしてもって言うから」

 マチはエイチの青い目を見つめた。そして視線を床に落とすと、もう一度エイチを見た。

「でも、安心して、あなたにそう言われると思って今日もホテルに泊まろうと思ってるから」

 俺の家に来いよ!

 危うくそう出かかった。急に周りの目が気になる。さっきからマリアンヌが妙に嬉しそうにこっちを見ていて、イワンがしきりに俺の目を観察して何かを探ってる。

 エイチはマチの腕を掴むと、廊下を無理やり歩かせて二人から引き離した。



 イワンはマリアンヌに言った。

「彼女は一体誰なんだ?何者だい?知ってるんだろ?マリー」

「高校の時のホッケー部のマネージャーなんですって」

 何ヶ月か前にロイが言っていた話を急に思い出した。

 ああ!そうか・・・あの子なのか?

「エイチが畏れてるって子かぁ・・・」

「あら、あなた何か知ってるの?」

 マリアンヌが驚いてイワンを見る。

「君も何か知ってるみたいだな?」

 イワンも興味深くマリーを見る。

「いいえ。何も」

 マリーは肩を上げてそれ以上何も話さなかった。

 別にいい。でも、明らかにおかしいだろ?

 エイチ?なんださっきの顔は?まるでやっちゃいけないイタズラを母親に見つかった時みたいな顔をしたぞ?一瞬だったけどそうだった。あいつにもそんな顔が出来るなんて信じられない。あいつは誰の言う事も聞かない男だ。誰かの言いなりになるなんてまず出来ない。

 悪魔の様に冷たい目で俺を睨んでいたのに、彼女の一声で急に変った。

 あいつにそんな顔をさせられるなんて彼女は一体何者なんだろう。

 悪ガキの意外な一面だ。さっきまであんなに俺に対して怒ってたのに急に怒りを放棄した。目から怒りの色が消えたのを見た。ちゃんと人間らしい顔だった。あいつはまだ人間だった。完全な悪魔に成り下がる前にもっと人間らしくなるべきだ。

 マネージャーね・・・・どんな高校生活だったんだろうな?

 イワンは二人の事を想像しようと努力したが、何も思いつかなかった。あまりにも不釣合いな印象で、どこに接点があったのかさっぱりわからない。

 小さいな・・・・150ぐらいかな?エイチと一体何センチ差があるんだ?彼女、目立たない感じだけど、エイチの事が恐くないみたいだった。

 あいつは女にもてるけど、冷たい。いつも女を馬鹿にしたような目で冷ややかに見下ろしてる。だからどんなに良い女でも彼に対して怯えてる。気に障るような事を言わないように気を遣ってる感じだ。

 でも彼女はエイチの事を良く分かってるみたいだな。彼の事をじっと見返して俺にたて突いた事を責めるように見ていた。あんな事が出来る子が居るなんて不思議だ。

 エイチが彼女を好きかは知らない。彼女も見た感じ彼を好きなようにも見えない。

 それでも、エイチにあんな顔をさせられるんだから特別な存在である事に間違いないな。


 イワンがああでも無いこうでもないと想像を膨らませていると二人が消えた廊下の奥から突然怒鳴り声が聞こえてきた。

「うるさい!このバカ女!」

「大声出さないでよ!」

「何で勝手に行くなんて決めたんだ!俺に一言聞いてからにすべきだろ!」

「仕方ないでしょ!エイチに聞いたら絶対反対するじゃない!」

「当たり前だろ!こんな事されて頭にこない方がどうかしてる!」

「どうして私があの家に行くのをそんなに嫌がるの?」

「なんでそんな当たり前の事が分からないんだ!この馬鹿!」

「またバカって言ったわね!」

「何度でも言ってやる!」

「酷いわ!」

 理由はなんなんだか分からない、でも物凄い言い合いだ!

 大変だ!

 止めないと!

「止めろよ!エイチ!女の子に何て言い様なんだ!」

 イワンが二人の言い合いを初めて目にし、一大事と駆けつけると慌てて止めに入った。

 まさかこれがいつもの二人の通常の会話だとは誰も知らない。

「邪魔するんじゃない!このジジイが!」

「だから俺はジジイじゃないって言ってるだろ!このクソガキ!」

 ミイラ取りがミイラになった。

「イワンさんになんて事言うの?チームのキャプテンなのよ?信じられない!」

 

 もう、三人の怒鳴り合いを誰も止められなかった。

 チームメイトがあっけにとられながらそれを見つめた。


 大喧嘩は、ロイが彼女を迎えに来て終了した。引き剥がされるようにしてマチはアリーナーから連れ去られた。

 イワンもエイチもこれからチームのミーティングがあってクリスマス明け直ぐある遠征について説明を受ける。

 

 説明を聞きながら、ようやく気分が落ち着いたエイチは後悔した。

 また、あいつに怒鳴った。そして実家に勝手に行った事を責めた。マチは別に悪くない、でも・・・俺と行くならまだしも、俺がいないところで実家に行かれたくない。マチにはもう母親の事も白状したし、何も隠してないから彼女に知られて嫌な事は何も無い。でも、自分が知らない所でああでも無いこうでも無いと話をされるのが嫌だ。

 マチは昨日も遠慮してあの家に泊まらなかったんだな。俺が嫌がると分かっていたから夜中だったのにホテルに戻った。これ以上嫌われないようにしないとまずいのに、どうして彼女を目の前にすると怒りたくなるんだろう。

 エイチはその後、ミーティングが終了し、アスレチックトレーナーに指導を受けてしばらく筋トレを続け、待たせておいたスティックのメーカから調整された品物を受け取り、スケートの靴のエッヂについて話し合った後、夕方になってようやくアリーナを出た。

 マチを迎えに行かないと。謝って食事を一緒にしたいと言おう。そう心の中では思うのに、いざその時が来ると謝れない。それに実家に行く時間も無い。

 今晩は残念な事に仕事が一本入っている。これからマリアンヌと一緒にTV局へ行ってインタビューを受けないと。マチが来るって知っていたらこんな仕事入れなかったのに。

 エイチは助手席に座りながらため息をついた。

 マリアンヌはエイチの事をチラッと見たが何もそれ以上言わなかった。

 エイチは視野の端にそれを見て、彼女は「仕事人」だなと心の中で笑った。

 本当はマチの事を色々聞きたいんだろ?言わないぞ。何を聞かれても。今日も分かったはずだ。俺達は物凄く仲が悪いんだ。

 遠くの夜景がきらめいて美しかった。街中がクリスマスのイルミネーションに輝いていた。

 もうクリスマスなんだな・・・・・

 エイチはクリスマス一色に輝く街並みのイルミネーションにたった今気が付いた。

 浮かない顔をして仕事に向かった。

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