第212話 『惚れている女』

 エイチがトロントに着いたのは明け方の五時半だった。そのまま車で自宅へ向かった。 

 空港で飛行機を降りてマリアンヌから十五回ほど着信があったのを見て掛けるのをやめた。もう明け方だし、十五回なら大した用じゃないなと思った。

 

 自宅の地下ガレージに車を入れると、植木の間から一階のリビングの光が薄っすらと漏れているのに気がついた。

 マリアンヌが自宅に押しかけてエイチの到着を待ち構えているのだった。エイチはうんざりしながら玄関を開けた。そして車のキーを適当に放るとリビングに入ってソファーに座った。

 

 マリアンヌがダイニングの椅子に腰掛けながらとても恐い顔をして座っていた。

「遅かったわね。一体どこへ行っていたの?どこに電話を掛けても居なかったわ」

「・・・・」

「私はあなたのマネージャーなのよ?用件があるから電話してるの、それを出ないだなんておかしいわ。いい加減にして頂戴」

 ほお杖をついてこちらを見つめるマリアンヌが少しやつれているように見えた。

 体力があまり余っていて、殆ど疲れを知らない自分でさえ最近、時々疲れたと思う時がある。去年一年は休まずに走り続けた。そして二人とも良く働いた。

 

 マリアンヌは毎回エイチと同じスケジュールで動きまわり、長距離の移動もついてくる。大変な仕事だった。それを彼女は全てこなしてエイチを横で支えてる。

 イワンとどうなったのかは知らない。プライベートも無いに等しい。

 休みが欲しいとも言わないし弱音を上げないな。それに俺がこんなに口が悪くてもめげないでやってる。給料が良いからだけじゃ続けられないのに。この世でマチの次に忍耐強い女だと認めてやろう。


 エイチは疲労を見せる彼女につぶやくように言った。

「もうマチに電話するなよ」

「え?」

 マリアンヌは彼のその台詞を聞いて顔を上げた。ビックリした。

「まさかあなた彼女の・・・ところに行っていたの?」

 うそでしょ?

 バンクーバーよ?

 まさか・・・まさか彼女と居たわけ?


 マリアンヌは動揺してさっき見て掛けたナンバーが書いてある付箋を見つめた。

 可能性は低いと思って、一番最後に掛けたナンバーだった。バンクーバーよ?

 付箋を指先につけて彼に見せた。

「だって・・・あの時要らないって言ったじゃない」

 エイチは上質なソファーに深くもたれ、長い足を悠々と伸ばして座っていた。

 部屋の薄い照明が彼のハンサムな美しい顔を更に際立たせている。淡い色の照明なのに彼の目はいつも澄み渡ったブルーをして輝いている。

「惚れてる女のナンバーだぞ?一瞬見ただけで暗記した」

「ほっ・・・!」

 な、何ですって?

 マリアンヌの顔色が見る見る変る。目が大きく開いてこぼれ落ちそうだった。

「ちょ・・・ちょっと、エイチ?あなた・・・!」

 マリアンヌは自分に初めて本心を明かした目の前の男を見つめると、感動で胸が一杯になり、そしていきなりアドレナリンを撃たれたかのように元気を取り戻した。


 あの日、彼の財布に入っていた彼女の写真を思い出す。

 純粋にその通りだったんだわ!

 嬉しい!

「ねぇ!本気なの?彼女なの?」

 椅子から立ち上がってエイチに近寄る。

「一体いつから好きになったの?どうしよう!」

 エイチはじっと動かずに彼女の狼狽振りを観察していた。そしておもむろに自分も立ち上がると

「もう寝る。さっさと帰れよ」

 といつもの様にたんたんと告げて階段を上がった。

「待って!エイチ!ちょっともっと詳しく聞かせなさいよ!このままじゃ帰れないわ!ねぇ、彼女とは付き合ってるわけ?どうなのよ!」

 畳み掛けるように興奮して聞いて来た。

「うるさい!雌ブタが!人のプライベートに介入してくるな!余計な事を言ったりやったりしたら許さないからな!」

「待って!エイチ!もっと詳しく教えてよ!お願い!」

 マリアンヌがうっかり二階へ上がろうと階段を進み始める。それを見たエイチは上から怒鳴った。

「あと一歩でも階段を上がってみろ!蹴り落として首の骨を折ってやるからな!」

 いつものエイチに戻ってシャウトしていた。

「もう、本当にひどい事を言う子ね!九時に迎えに来るからそれまで良く寝てよ?それじゃ、詳しい話はまた後でね!」

 マリアンヌは物凄いご機嫌で帰って行った。


 数時間後、マリアンヌは時間より早く来てチャイムを鳴らした。エイチはいつも通り無表情で玄関を出て来た。荷物を車に積んで出発する。

 エイチはマリアンヌを見て言った。

「どうしたんだ?その顔。京劇役者みたいに化粧が濃いな。しかもむくんでる。まあ、それはいつもの事だな」

 暴言を吐いた。

「何言ってるのよ!お化粧にも気合が入ったのよ!嫌ねエイチったら。ねぇ、それで?彼女とは付き合ってるわけ?それともまだ付き合ってないの?教えてよ!」

 エイチは奥歯を噛んで彼女を睨んだ。

「うるさい!余計な事を聞くんじゃない!」 

 マリアンヌは目の前で大声で叫ばれても全然応えなかった。あの後も嬉しすぎて寝れなかった。

 悪魔の様に冷たい心の持ち主かと思っていたこの憎たらしい悪ガキのエイチが、私には心の内を見せてくれて、なんと本命の子を教えてくれた。嬉しすぎて錯覚が起きてエイチが可愛く見えて抱きしめたくなった。

「お前、誰かにしゃべったらただじゃおかないからな。イワンにも言うなよ?」

「言わないわ!イワンになんてしゃべらないから大丈夫よ!私はプロよ?クライアントの秘密を誰かに暴露するはずがないでしょ?ねぇ、そんな事より、彼女とは次にいつ会うの?スケジュールを空けてデートできる時間を作らなきゃね!ああどうしよう!そうと知っていれば仕事を間引いたのに!もう六ヶ月先まで一杯だわ!」

 何でこの女がこんなに反応するのかさっぱり分からない!

 なんてうっとおしいんだ・・・言うんじゃなかった・・・・

「色々詮索するなよ!うっとおしいな!」

「もう、そんなに怒らないでよ。でも知っておきたいのよどんな関係なのか」

「別に恋人じゃない!付き合ってない!これで良いだろ!」

 エイチは車の助手席に座りながらうんざりした顔を彼女に見せた。

「どうして?あなたは今や北米一モテる男なのよ?お金持ちだし、ハンサムだし、かっこよくてホッケーが出来る。それなのにどうして彼女はYESと言わないの?」

「知るかそんな事!嫌われてるんだ。物凄く」

「え?そうなの?・・・・彼女に何か嫌われるような事でもしたの?」

 エイチは窓の外を見て目をつぶった。

「ああ、そうだ。もう取り返しがつかないくらいの事をずっとやってる。嫌われてて男とも思われてない。だから近寄るのも大変なんだ!これで満足か?」

「彼女に一体何したのよ?」


 エイチは高校時代の悪夢の様な出来事を空港までの道のり、彼女にかいつまんで話した。そうでもしないとマリアンヌの鼻息が治まりそうに無かった。

「あいつが寮の隣の部屋に越して来たんだ」

 エイチが話し進めるとみるみる内にマリアンヌの顔色が変わった。

「とにかく一年中、毎日毎日飽きずに言い合いをして喧嘩して、バカ、ブス、チビ、って何度叫んだか分からない。だから物凄く嫌われてる。まぁ思い出してみるとこれも可愛いほんの一部に過ぎないな」

 話を聞き終えるとマリアンヌが真顔でエイチの事を睨んだ。

「・・・・・あなた、それ酷すぎるわ。嫌われて当然よ。絶対に好きになってもらえないわ」

 とんでもない二人の関係を知ってマリアンヌは目の前のハンサムな男が急に不幸に思えて来た。本当は好きなのに今更本心が言えないんだわ。本当に困った子ね。どうして素直に好きだと言えないのかしら。

「彼女はあなたの事を嫌っているの?」

「好かれてると思った事なんて一度も無い」

「好きだって言った事はあるわけ?」

「あるわけ無いだろ。いい加減に放っておけよ!もうこの話を二度と蒸し返したらただじゃ済まさないからな!」

「はいはい。分かりました。静かにします。あなたも普通の男なのよ。私は冷たい目をしたあなたが本当は誰かの事を好きでいてくれて、もうそれだけで凄く嬉しいわ。話してくれてありがとう。またあなたの下で頑張ろうという気になったわ。全力で応援するわね!」

「何もするなって言ってるだろ!」

「分かってるけど!」

「・・・・・」

 エイチは空を見ながら心底思った。

ああ、なんでこの女に言ったんだろう。うかつだった。やめておけばよかった。

 うるさい・・・・

 マリアンヌはキラキラと目を光らせて楽しそうに運転していた。



 飛行場につくとイワンがマリアンヌがとてもご機嫌なのを見て声を掛けた。

「おはよう」

 あれ以来、遠征で忙しかったり、ロイの件が解決したりでゆっくり時間を取ってマリーとの関係を深めていない。試合は続いているし、シーズンが終わったらもう一度彼女の家を訪ねよう。そして必ず付き合ってもらう。

「あら、イワンおはよう」

 珍しく明るく返事をしてくれた。

 なんだろう・・・

「化粧を変えた?顔が輝いてる」

 イワンがそんな事を言った。

「別に違うけど、とっても良いことがあったの。嬉しくて真顔になろうと頑張るのについ笑っちゃうのよ」

「・・・・すごく良いことだったんだね。俺以外の男の事じゃないと良いけど」

 イワンが探るように彼女を見た。

「ふふん」

 マリアンヌはそんな風に意味深に笑うと電話を掛けに別のところへ行ってしまった。

 

 イワンは不審に思ってエイチの事を見た。

 エイチは何か知っているはずだ。

 エイチは彼女と打って変わって不機嫌そのものだった。

 とても嫌な事があったような顔をしてる。

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