第211話 『好きな人と食事を』
マチは七時よりずっと前にレストランに入り、あのイタリア人店長に「なるべく人目につかない席をお願いします」と壁際の奥の席を頼んでいた。
しかし、どんなに隠そうとしても彼の存在は目立ちすぎる。
時間になって店に彼が現れるなり、店の客が一斉に彼を見た。
背が高く目鼻立ちがはっきりしていてスタイルが良く、得も言われぬオーラを放ちそこにいる。カナダ一人気のあるNHLのルーキーが存在を消すことなどできるはずが無かった。
今や彼の顔を知らないのはこの地において誰も居ない。知らないとすれば外国から訪れた観光客ぐらいのものだろう。
女店長は彼を見るなり親しい常連客に見せるような態度ですぐに奥へ案内してくれた。
そこにはマチが隠れるようにしてこっそり待っていた。
エイチはマチの格好を見て笑った。
「今日はスーツじゃないんだな」
マチは仕事を終えると一端帰宅し、スーツからラフな格好に着替えてやって来ていた。
落ち着いたオレンジとレッドのチェックのシャツにジーパンで、袖をまくっているので日曜大工でもするかのような格好だった。
「会うなり本当に失礼ね。わざわざおしゃれなんてする必要ないでしょ?それともワンピースとかで来た方が良かった?」
マチはどうせ何を着ていても文句を言うんでしょ?とでも言いたげな顔をして見せた。
エイチが無言で眉を上げて笑った。
目の前の彼は今日も相変わらずハンサムで清潔感のある服装に身を包んでいた。
長い足に細身のブラックのパンツを履き、ざっくりとしたジーンズのジャケットの中にホワイトのTシャツを着て至って普段着の装い。それでもモデルの様に背が高く体格が良くてカッコが良いので目立つ。
エイチはこの前会った時とはうって変ってとても元気そうだった。顔色が良い。青い強い瞳も健在だった。
マチは肩の具合を聞いた。エイチはもうなんともないと話した。
エイチとマチは高校時代のあの時と同じようにカニを注文し、あの時と変らずどうでも良いことで笑って美味しそうに食事をした。
カニは美味い。だから時々食べたくなる。でも今晩の食事がこんなに美味しく感じられるのはマチと居るからだとエイチにははっきり分かっていた。
ロイがジャスミンと再開した事をマチに話した。そして間もなくNHLに復帰するだろうと言う事も話し、兄貴の事で悩む事がなくなったと素直にマチには言った。
そして、今日ロイがアリーナに来た事、初めて双子に会った事、そこに母親が居るのを見かけて死ぬほど嫌だった事、これから食事に全員で行くと話していた事を全てマチに話した。全部プライベートな話で、特に母親の事はシルトにも話した事が無い話だった。
すると今まで感動で涙を浮かべながら頷いて聞いていたマチがいきなり怒り出した。
「何ですって?どうしてそんな大事な家族の食事を断って、こんなところにいるの?」
マチは眉をしかめて本当に怒っていた。信じられない!と顔に書いてある。
「どこの誰が家族と一緒に食事をしなきゃいけないなんて決めたんだ!俺は食いたいものを、好きな奴と一緒に食う!何が悪いんだ!」
マチはそう言い返すエイチの『好きな奴と一緒に』と言う台詞にドキッとして思わず黙った。
それを見たエイチが
「そんなに怒るなよ。また不細工な顔になってるぞ?」
とカニを食べながら言った。
「何ですって?」
マチはこの分からず屋で仕方のない目の前の男をしげしげと見つめた。
すると、マチの携帯が鳴った。
「誰かしら?私の電話が鳴るなんて珍しいわ」
「出ろよ」エイチが言う。
「うん。じゃあ・・・・・もしもし?」
マチが相手の声を聞いてエイチの事を見た。
「あっ!お久しぶりです!マリアンヌさん」
「!」
エイチはナイフとフォークを机に置いて声を出さないで「居ないと言え!」と指示を出した。
「はい・・・知りません。・・・分かりました。もし連絡があったらそう伝えます。はい、それでは失礼します」
マチは電話を切った。
「エイチの事探してるみたい。どうして私に電話したのかしら?」
「あのブタ野郎!勝手にお前に電話するなんて許さないからな!」
エイチの顔が急に怒り出して青い目が燃える。
「ねぇ、マネージャーさんに迷惑をかけないようにしなきゃ駄目よ。大事な用事があるんだと思うから直ぐに掛け直した方が良いわよ」
「うるさい」
エイチは不機嫌になった。
食事を終えると、エイチがまたご馳走してくれた。マチは申し訳なさそうに
「私も働いているから大丈夫なのに」
と言った。エイチは可笑しくなって笑った。
ああ、俺はこの女をどうやって口説けば良いのか分からない。
いつも俺に向かって怒ってる。たぶん、原因は全部俺にあって、悪いのは俺なんだろう。一緒に食事に誘って、遠征の合間のほんの一瞬だけ会っているのに、お前は俺を男だとも思ってない。デートに誘われてるなんて気が付いてもいない。
いつまでもこのままなのか?マチ、ちゃんと話しがしたい。
もっとゆっくり、もっと真面目な時間が欲しい・・・
エイチは運転しながら助手席に座るマチを横目に見つめた。マチを家の近くの公園まで送った。おじさんに見られると大変だからとマチが言うので仕方なく手前の道で降ろした。
遠くからでもマチの家を見ると、あの日が蘇る。つらくて一人で解決できずに来てしまった。そして母親の事を全部話した。恥かしい出来事で思い出すと今でも顔が赤くなる。恥だ。
マチはあの日の事を何も蒸し返さない。一言も触れない。それはありがたい。俺は思い出したくない。
「マチ・・・・」
扉を閉めようとするマチに何を言おうと思って呼び止めたのか自分でも分からなかった。
「どうしたの?」
エイチは黙って言葉に詰まった。この前のお礼をちゃんと言うべきだと思うし、今まで傷つけた事も謝らなければならない。そして本心を言って自分の気持ちを分かってもらわないとこの先に進めない事も分かってる。でもそれは簡単に言えない。エイチにはどれもこれもとても難しい事だった。
エイチは複雑に絡み合う思考の中に、言葉を捜すように搾り出すように言った。
「マチ・・・・」自然と顔が真剣になる。
「シーズンが開けたら今よりは自由な時間が増える。そうしたら・・・またここへ来る。話しが・・・」
かろうじてそう言った。
「ええ。分かったわ」
エイチが苦しんで言った台詞が終わらないうちに、マチはあっさりと、まるで何でも無いかのようにOKした。
マチの顔はいつも通り優しげだった。
深刻な話じゃないと思ってるだろうな。エイチはマチとのこの温度差にため息が出た。
「・・・・じぁあな」
「うん、エイチも気をつけてね。今日は本当にご馳走様、とっても楽しかったわ!すぐにマリアンヌさんに電話してね」
マチは優しく微笑んで家に向かって帰って行った。
エイチはマチの姿が消えるまで見送り、車を発進させた。直ぐにトロントに戻らないと明日の遠征に間に合わない。時間がない。
こんな風にして、彼女の顔色を慎重に探りながら姿を追いかけている自分がおかしくなって笑えた。
マチがあの黒い目で、怒ったり、俺にああでも無いこうでも無いと注意しながら優しく笑ってた・・・・
もっと見ていたい。
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