第210話 『家族から逃れたい』
エイチはリンクから上がるとシャワーを浴びて腰にタオルを巻いたまま慌てて廊下に出て電話した。
早く出ろよ・・・俺は短気なんだぞ。
ロイの家族に会って、もう誰とも会いたくなかった。一人を除いては。
「今どこに居る?」
エイチは相手が出るなり聞いた。
『エイチ?急にどうしたの?』
マチだった。驚いた声を出している。
それはそうだな。あんなに恥かしい事をした後で電話もメールも一切しなかった。突然といえば突然だな。
「暇だろ?会社の残業なんて今日はするな。俺と夕飯に付き合え。カニが食いたい」
『・・・・・まだお昼よ?本当にいきなりで強引ね』
「行けないのか?」エイチは尋ねた。
『え?・・・まぁ、大丈夫よ。今日は休みの日だから午前中でアルバイトが終わって、ダウンタウンを丁度歩いているところなの。それにお給料が出たばかりだから、エイチにご馳走してあげられる。この前はご馳走してもらったからお返しよ。ふふ』
エイチはマチと夕食を食べられる事になってほっとした。思わず本音が顔に表れる。見えてない事を良い事に思わず歯を見せて笑う。
彼女と食事をすれば少しはこの変な気持ちがおさまるように感じた。いや、もう彼女とこうして話しているだけでリセットされている。
それにエイチはマチが言うセリフが笑えた。
俺にご馳走・・・
「着いたら先に店に入ってろ。今から空港に行くから七時には着く。七時半に店で待ってろ」
『こっちの方で仕事でもあるの?』
わざわざこのためだけに行くとは言えない。
「ああそうだ。そうに決まってるだろ?気にするな」
『何か被って来た方がいいわ。あそこ普通のレストランよ。目立つわ』
「知るか。どうでもいい」
エイチは笑って電話を切った。これからバンクーバーに行ってマチに会って食べたいカニを二人で行った事のあるレストランで食べる。理由なんて話さなくて良い。あっちの方で仕事があるふりをしてマチに会う。顔を合わせるのは気まずい。でも今日はとても会いたい。
それに兄貴の事をあいつに報告しないと。双子が居たなんて聞いてあいつも驚くだろうな。
とにかくマチと会える。
そう想像するだけでさっきのリンクでの出来事を忘れられた。
私服に着替え、アリーナを離れる為に廊下を急いだ。盛り上がる家族談義からすぐにでも逃げたかった。
廊下を進んで行くとまたロイが居た。双子もジャスミンも側には居なかった。
「何しにアリーナに来たんだよ?」
エイチはロイに聞いた。
「これから対戦するライバルの下見だよ」
ロイはNHLに復帰を果たすつもりだった。すでに何件かオファーが来ている。五年前まで絶大な人気を誇るスーパースターだった。復帰するには十分若い。それに足の怪我はもうなんとも無い。あの後、二ヶ月で完治したのだから。ロイの復帰宣言はすぐに業界全体に広がった。エイチとの兄弟対決なんて観客を呼び込むには最高のシナリオだった。協会は彼の争奪戦で昨日の夜から大騒ぎだった。
「エイチ、帰るのか?これから全員で夕食に出かける。一緒に行かないか?」
あいつら全員と食事?絶対行きたくない!
「行かない」
ロイはエイチがそう言うと思った。
弟は幸せな家庭環境に慣れていない。幸せの中に居るのが気恥ずかしくてたまらないんだ。
ロイは弟の事を思って少し笑った。そして、背丈が同じくらいのこのハンサムな弟の肩に長い腕を回して言った。
「なぁ、そう言えばあの子は元気かな?」
エイチはロイが誰を指したのか何故かすぐに分かった。マチの事だ。
「なんだよ、突然」
眉をしかめるエイチの顔を見てロイは笑いながら話した。
「エイチ、俺はお前にも幸せになってもらいたい。スタイルの良い女も顔が良い女も、お嬢様とか、もう全部飽きただろ?本気の女を捜せよ?本気で好きになれる女なんて一人しか現れない。特にハンドクルー家の男達の場合はそうなんだ。お前がいくら母親を嫌っても、ハンドクルー家の血を恥じていても、お前の身体にはその血が流れている。もう逃れられないぞ?血って言うのはそう言うものだ」
エイチはロイが言っている意味が痛いほど分かった。
「うるさい!」
兄の腕を自分の肩からどかしてその下をくぐると、廊下に逃げた。
「エイチ、俺はお前を愛してる」
ロイが歩いて去って行く若い弟に向かって言った。
「だからお前にも幸せになって欲しい!」
エイチは無言で廊下を進んだ。
あいつは兄のひいき目で見なくても本当にハンサムで良い奴だ。本当は根が優しい。仲間を大切に思い、俺を小さい頃から慕ってくれる。ホッケーも俺と同等?いや俺より?とても上手い。どんどん伸びる選手だ。後はあの気が短く、時々凶暴になりすぎる性格を温かく見守り正しい方向へ修正してくれる優しい女が必要だ。必要なんだ。
「・・・・・」
エイチは彼女が好きじゃないのか?それとも彼女がエイチを好きにならないとか?本当に接点がもうないのか?
俺の質問に直ぐに答えたって事はまんざらそうでも無さそうだ。今もどこかで繋がっているのか?
あいつ高校時代、彼女にどれぐらい嫌われたんだ?廊下でエイチに言い返してたな。小さな身体で一生懸命。でもエイチに怯えている様子は無かった。
まぁいいさ、後は弟に任せよう。
ロイは微笑んで自分を待つ家族のところへ戻って行った。
エイチは足早に進む廊下の先に父の姿を見て血の気が引いた。
「ウソだろ・・・・・」
思わずつぶやく。
父が居るのは構わない。別になんでもない。ロイと一緒に来たんだろう。しかし、なんとなくエイチの第六感が緊急警報を発してる。父の顔色がいつもと違う。楽しげだ。
心拍数が急激に上がる。野性の動物の様に俊敏に周りを注意深く見回す。更に足の速度が速まる。
一刻も早く逃げ出さないと!
もしかすると、このアリーナのどこかに「あの女」がいるんじゃないか?
ロイとジャスミンの事を聞いて、気まぐれに実家に戻ったりして無いだろうな?
エイチは父の事を横目に見ても声も掛けずにその場から走り出した。
絶対あの女にだけは会いたくない!
死んでも嫌だ!
「お、おいっ!エイチ!久々に父親とすれ違ったのに無視する気か?」
父は驚いてエイチに言った。
「急いでるんだ!じゃあな!」
父はせっかくエイチに会えると思ってわざわざロッカールームまで来たのに残念がった。
まぁ、今に始まった事じゃない。それに、双子の孫が外で待ってるから早く戻ろう。可愛くってしょうがない。父は蓄えた髭の中で優しく笑った。
エイチは走り出した。猛ダッシュで。そして何とか誰にも会わずに自分の車に乗り込んだ。駐車場の向こうではアリーナの入り口の近くにジャスミンと子供達が騒いでいるのがチラッと見えた。そこに父が歩いて合流した。
そしてやっぱり居た!
「クソっ・・・・・」
エイチは全身から血の気が引いた。指先が一気に冷たくなる。一番会いたくない世界一嫌いな人物の影が遠くに見える。
母親だった。
エイチの母親は小柄な身体にベージュのテンガロンハットを斜めに被ってベージュのスラックスにざっくりと半そでのブラウスを着て首から一眼レフのカメラを提げていた。
この歳にしては周りの母親と随分雰囲気が違う。自由奔放な探検家を彷彿とさせた。
残念な事に奇麗な青い瞳がエイチにそっくりだった。
このアリーナにハンドクルー家が一堂に会していてエイチは身の毛がよだつ思いがした。
大至急車を発進させると猛スピードでアリーナを後にした。
駐車場では遠くで乱暴に運転された車がエンジン音を響かせて出て行ったのを家族一同が聞いていた。
「エイチね。私に会いたくないんだわ」
母は低い声で笑いながら言った。
「そんな・・・子供が母親に会いたくないだなんて」
何も事情を知らないジャスミンが全うな事を言う。ロイがアリーナから出て来て言った。
「わあ!これは驚いたな。母さんも来てくれたんだね。こんな奇跡みたいな事が起こるなんて」
「わしが頼んだんだ」父が母を見つめながら言った。
「エイチは来ないよ。仕方ないさ。さぁ、美味しい物でも食べに行こう!」
ロイが双子を両手に抱きかかえて車に乗せた。双子はパパの腕に抱かれて嬉しそうにはしゃいでる。
父は双子を目に入れても痛くない程の可愛がりようだったが、母の態度は違った。
「ジャスミン、この子達を私に近づけないでよ。聞いてないの?子供が大嫌いなの。だからエイチの事も育てなかった。もうあの子も大人になったから、会ってやっても良いと思うけど、あっちにその気が無いなら別に良いわ。ほら、遠くにやってよ!」
強烈な母だった。
「大体、誰も彼もが子供好きだなんてどうして思うわけ?馬鹿みたい。よくいるでしょ?自分の子供の写真を見せてくる人。私はそんなの一つも見たくないし、興味がないの。小さくて気持ち悪いから見せないでって断るの。そもそも人間は優しい生き物なんかじゃない。世界一凶暴で残酷な生き物なのよ。優しげにしてる人なんて全員偽善者よ。それに幸せな家族の話と、子供の話、それからペットの話、これは世界三大退屈話ね。聞いててこれほど無駄な時間ってある?昔から言うでしょ?人の不幸は蜜の味。誰かがバカな目に遭った話なら楽しく聞けるけど、それ以外は全部つまらない。私はその中でも特に子供の話が大嫌いなの。私に関係ないもの」
「・・・・・・・・・」
初めて聞く母の強烈な自論にジャスミンが凍りついたまま口を開けて放心している。
ロイは小声でジャスミンにつぶやいた。
「ジャスミンびっくりさせてごめん。自然界にも時々いるだろ?子育てを放棄する母親が・・あんな感じなんだ。気にしないで忘れて」
この極端すぎる性格と、自我の強さがエイチに遺伝したのかもしれない。
ロイも父も心の中でそう思った。
残念ながらエイチと母が仲直りできる日は一生来ない気がする。頑なな性格が似すぎているから。
しばらく経って、ようやく心の整理がついたのか、ジャスミンが母に聞いた。
「・・・でもエイチと名づけたのはお母さんですよね?」
「ええそうよ。でもヒューがいけないの。私が電話で名前を説明したのにちゃんと聞かないで届けるから」
「仕方ないさ!ID登録の期限ぎりぎりに母さんから電話があって「heichi」って言われたって、電話で聞くと「H」一文字に聞こえたんだ。すぐ電話を切っちゃったし」
「どうでもいいわ。とにかく私はあなたの母親の遺言を守ったわよ。Hで始まる名前を二人ともにつけたんだから。後はエイチの子供が産まれたら何としてもHから始まる名前にさせなきゃ。あんた達も協力しなさいよ?あの子、私に反発して違うアルファベットから始まる名前を絶対につけると思うの」
全員が暴れ狂うエイチの事を想像した。ずっと先の話だろうけど大変な騒ぎになりそうだ。
母の発言に車中で全員がため息をつき苦笑いした。何も知らない双子は賑やかにはしゃぎ、ハンドクルー家一同はレストランに出発した。
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