第189話 『兄を助けたい』②
エイチは遠征が明けて、トロントの空港に到着するとそのまま実家に向かった。二度と行くまいと決めていたあの家だった。
小さい頃の思い出も全部嫌いだった。それに、マチを餌におびき出されたあの日も最悪な出来事だった。
一体俺の家族はどうなっているんだ?普通の家族じゃない。全然帰って来ない母親をずっと親父は待っている。未だに離婚もしてない。兄貴は自分の夢を諦めてまで行方不明になった女を捜してる。尋常じゃない。親父の事はもうどうでもいい。救いようがない。
でも、せめてロイの事は・・・俺が何とかして兄貴を救わないと。もう五年になる。いい加減に目を覚まして欲しい。
ロイ、お前は俺の家族だ。唯一家族だと思える。同じ血が流れ同じ気持ちが胸の中にあるはずだ。もう一度ホッケーに戻って欲しい。戻るには十分若い。まだ二十五なんだからこれからも活躍できる。
伝説のプレーヤーなんだぞ?どうにか不幸の中から救わないと。もう女なんてどうでもいいじゃないか?世界中に沢山女が居る。なにもそいつじゃなくてもいいだろ?
そいつじゃなくても・・・・・
「・・・・・」
エイチはそう思いながら、それが正しい事だとは思い切れず胸が苦しかった。
だから危険なんだ。一人の女に本気になるなんて。周りが見えなくなって夢中になるなんてどうかしてる。他の女に目を向けてもう一度考え直して欲しい。ロイが不幸だなんて考えたくない。頼む、考え直してくれ!足が元に戻らないと聞いていたから諦めていた。でも、今は違う。足が治っているならホッケーに復帰しろよ!
エイチは覚悟を決めてここへ来た。
兄を絶対説得する。どんな手を使ってでも。NHLになんとしても復帰させる。復帰してホッケーを思い出せばきっと女の事は忘れられる。
絶対・・・
「・・・・・」
また自分に嘘をついているようで胸が締め付けられた。
実家までは雪深い道のりだった。静かで人気が無い。エイチの車のタイヤが雪にめり込んできしむ音を響かせる。
長い遠征が一旦終わり、ホームに戻って来た夜だった。そのまま自分の家に帰らず、実家へ向かった。
説得するには、聞かなくてはならない。今まで頑なに聞こうとしなかったあの話を聞かなくては。
ロイが捜している女の事だ。どこの誰でもいい。兄貴を陥れた最低の女、魔女、悪魔の様な女の話だ。本当は聞きたくない。聞いている最中にきっと頭に血が上って、あの日と同じ様にまた兄貴を殴るかもしれない。それでも聞く必要がある。知った上で説得する。絶対にNHLに取り戻す。俺が兄貴を不幸から救ってやる。
車を家の前に停めると、雪深い玄関の道を長い足で進みチャイムを押した。
もう夜の八時だったから誰かと食事にでも出ているかも知れない。父親しかいないかもしれない。
電話もせずに押しかけて驚くだろうな。
吐く息が真っ白だった。扉が開いた。中からロイが出て来た。
「お帰り。玄関からお前が来るなんて珍しいな」
ロイは目の前に居たのがエイチだったので驚いた。しかし、久々に会う弟の顔を見て明るい表情になるとふざけてそう言った。
エイチは無表情で家に入った。
兄に聞くと父は同僚と出かけて今晩は夜中まで戻らないと言う事だった。エイチが来ると知っていたら決して行かなかっただろうと話した。
前回来た時、金属バットで破壊したリビングは奇麗にリフォームされていた。古かった暖炉もそのついでに改修して良くなったとロイは笑った。
「今まで掛かった費用は全部マリアンヌに言ってお前に払ってもらうからな」
とプロになって大金持ちになったエイチに指さして言った。
エイチは眉を上げて好きにしろよ、と返事した。
「飲み物を持っていくから先に上がってろ」
そう言うとロイはキッチンへ向かった。
父にも兄にも本当に沢山迷惑を掛けてきた。沢山弁償させた。そして数え切れないくらい頭を下げさせた。今考えても信じられない悪ガキだった。良い子でなんていたくなかった。優等生なんて最低だと思って来た。一番にホッケーが好きで、次に殴り合いが好きだった。人が悲しむ顔が好きで、やられたヤツが可哀想だなんて思った事は一度も無い。
二階にある兄の部屋に入ると、デスクに沢山の書類が散らばっていた。
目が良いエイチはすぐにその資料に書いてあるのが人の名前だと分かった。A4の用紙に上から下まで辞書の様にびっちり人の名前が記載されている。それが何十枚、何百枚とパソコンの隣に積み上げられていた。映画に出てくるようなサラリーマンか何かの机みたいだと思った。
こんなのロイの本来の姿じゃない・・・・
エイチはまた不愉快になった。目が自動的に書類を追う。そして、それが何のリストなのか見て分かるとハッとした。全て「墓標」のリストだった。寺院の名前が書かれた、ここ五年内に墓に埋葬された死者のリストだった。エイチは手でそのリストをめくって見た。
チェコ、オランダ、ベルギー、フィンランド、スイス、フランス・・・・ヨーロッパ中から取り寄せたリストだった。
ロイは彼女が生きている事を祈りながら、死んでいるかもしれない現実とも向き合っているのだ。
「・・・・・・・」
エイチは愕然として、ますます兄をどうにかしたいと思った。
兄は飲み物を両手に持って部屋に入って来た。
弟が自宅に来るのはとても珍しい。もう一生来無いかとも思っていた。それぐらい珍しい。
つまり、それ相応の理由があるからやって来たのだ。ロイは弟の青い目を覗くように見つめてその理由を探った。
エイチはベットにも椅子にも腰掛けずに立ったまま話し始めた。
「ロイ、もう怪我が治ってるなら戻れよ」
エイチは真剣な顔をしていた。突然話し始めた。
ロイはそれを聞いてしばらく黙ると、本当は優しいところがある弟を思って口元を緩めた。
「ありがとう、エイチ」
エイチは首を振った。
「そうじゃない。本当にNHLに復帰させたい。俺も兄貴もNHLの選手になるのが夢だった。俺はそれが叶って今がある。お前はNHLに戻れるのにそうしない。捜している女の事があるのは分かってる。でももう五年も捜しただろ?いい加減諦めて戻れよ。もうこれ以上は手遅れになる。まだ若いうちに復帰してもう一度夢を掴んで欲しい。人生は一度だけだ。そして思っているより短い。いつまでも不幸でなんているなよ。ホッケーに戻って幸せになって欲しい。一人の狭い世界にいないでくれ。彼女の妄想と闘っているなんてお前らしくない。見つからないんだろ?もう諦めるべきだ。もうこれ以上捜しても見つからない。だから諦めて戻って来いよ」
「・・・・」
ロイは静かにエイチの話を聞いた。
とても静かな夜だった。雪も降っていない。シンと静まりかえり何の物音も聞こえなかった。あまりにも静かで、カップから上がる紅茶の湯気の音が聞こえるのでは無いかと思うほどの静けさだった。
弟は若い。だから俺の話を今までちゃんと聞けなかった。でも今日、ここへ来たと言う事は聞く耳を持ったと言う事なのか?話が聞ける準備が出来たって事なのか?エイチ。
ロイは成長した弟を見つめた。そして、静かに弟に微笑むと遠い目をし、
「昔、言われたんだ」
ぽつりぽつりと彼女に初めて会った時の事を話し始めた。
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