第190話 『ジャスミン』①

 ある日、親友のイワンに言われたんだ。

「外見が綺麗な女なんていくらでもいる。もうそんなの見飽きただろ?そろそろ本気になれる女を探せよ、ロイ」

 俺達は遠征先で試合に勝ってしこたま飲んだ。ふらふらしながら二件目のバーに向かった。珍しく遠征先で時間が余る変なスケジュールだったんだ。二人とも気が抜けてた。 

 その帰り道だった。イワンがふざけてホテルがすぐそこに見えてるのに自分だけ途中でタクシーを止めて乗って帰ったんだ。俺は暗い夜道を一人置き去りにされて、目の前に見えているホテルを目指して住宅街をさまよい歩いた。激しい試合の後に酒を飲み過ぎて本当にべろべろに酔ってた。歩いてたのも不思議なぐらいだった。

 ジャスミンに会ったのはそんな夜だった。

 

 ホテルがすぐそこに見えているのに尿意を催して間に合わないと思った俺は、ふらふらしながら街路樹で用を足した。

 ほっとしたところを突然、後ろからゴルフクラブで背中を思いっきり殴られた。

 俺は膝を折って倒れた。今でもあの痛みは忘れない。呻いてそのまま芝生に仰向けになったんだ。

「うちの植木に何するのよ!この酔っ払い!」

 すごい剣幕で怒ってる女がかすかに見えた。そしてそのまま俺は意識を失った。ただ酔ってて眠っただけだったけど。そうしたら今度はバケツ一杯の冷水を全身に掛けられたんだ。

 真冬だ。あまりの冷たさに目が覚めて俺も怒鳴った。

「何するんだよ!」

 間髪入れずに言われた。

「うちの敷地から出なさい!」

 酔ってる頭でも、なんて気の強い女だと思った。それがジャスミンだった。

 急になんだか笑えて来て

「分かった今すぐ出て行くよ。君、ホッケー知ってる?」って聞いた。

 その頃人気があった俺は酔いに任せて聞いたんだ。

「今度、試合見に来いよ。ロイ・ハンドクルーだ」

 握手を求めたけど、もちろんしてくれなかった。

「あなたが出ている試合?見に行くわけないわ」そう言われた。

 


 そして、その後、俺は彼女の名前も聞かずにホテルに帰り、翌日本拠地に戻った。

 シラフになって、彼女が俺の名前を聞いたのに顔色を変えなかったのを思い出して、彼女がカナダ人じゃないとすぐに分かった。それに、あの家に住んでいてもカナダに来てまだ間もないんだなとも思った。 

 あの頃、ホッケー好きもそうじゃなくてもカナダ人だったら俺の名前を一度も聞いたことが無いなんてありえなかったからだ。それほど、俺は当時は有名な選手だった。今のお前ぐらい有名だった。


 翌日、練習があってアリーナへ行くとチームのIDカードがどこにも無い事に気が付いた。

 思い当たる節は一つだった。あの芝生で殴られた後、仰向けになって寝転んだ時にズボンのポケットから落ちたんだ。

 マリアンヌを呼んで直ぐに探しに行ってもらうようにあの家の位置を教えた。

 夕方、マリアンヌが帰って来て、誰かが家にいる気配があるのにノックしても誰も出てこないと説明した。仕方なく諦めた俺は彼女に新しいIDを作成してもらうように依頼した。


 しばらくして次の遠征がすぐにやって来た。

 試合が終わった後、何故か気になってあの家に行ったんだ。バカだろ?

 そしたら、二階の窓に彼女が居た。慌てて呼び鈴を鳴らした。それなのに彼女は出てこなかった。居るのに出てこない。つい、探究心に火がついて裏に回ると事もあろうに物置小屋に足を掛けて登って二階の窓をノックした。

 今思うとあの頃は本当にバカだった。若かったし、俺もNHLのスター選手で何でも手に入ると思って自信過剰だったんだ。

 彼女はすぐに俺の奇行に気が付いて慌てて窓のところへ来た。

「またあなたなの!静かにして!父に見つかったら殺されるわ!」

 そう言って叱られた。彼女は裏の庭の木に隠れて待つように言って暫くして外に出て来た。

 顔が怒っていた。初めて会ったあの日は暗かったし、酔っていたから彼女の顔を良く見るのはこれが始めてだった。日に焼けた黄金色の美しい肌に、目が薄い茶色で輝いていた。眉も髪も焦げ茶で、髪の毛は天然なのか全部がカールしている。当時は、肩のところまで伸ばしていた。

 うす暗い場所にある家にひっそりと住んでいるにはもったいない快活で明るそうな女だった。そして、あの晩思い知らされた通り、物凄く気が強かった。

「何しに来たわけ?」いきなり喧嘩腰だった。

「IDを君の家の芝生の上に落としたみたいなんだ。落ちてなかったか?」

「いいえ」そう言ってから「いえ、落ちてたけど捨てたわ」と言った。

「大事なものなのに何で拾って届けてくれないんだよ!」

 俺もカチンと来て問い詰めた。すると彼女は家の方を気にしながら言った。

「父さんに見つかるとまずい事になるわ。さっさと消えて」

 そう言って来た。もういい大人なのにどれだけ父親を怖がってるんだ?と思いながら彼女が何者なのか興味を持った。


 今思うと、もうあの時、俺は彼女の事が好きになっていたんだと思う。謎めいたところ、気が強いところ、当時の俺はそんな扱いに慣れていなくて新鮮に感じたんだ。

「分かった。でもこの前君の家の植木に失礼を働いたお詫びに、一杯おごらせてよ」

彼女を誘った。もちろん断られた。でもまたしつこく誘った。

「一杯ぐらい良いだろ?ダメなら次の遠征の時も二階の窓を叩く。一杯付き合ってくれるまで。俺はしつこいぞ」

 半分脅して、呆れる彼女を無理やりホテルのバーに連れて行った。幸い空いていて誰からも近寄られずに済んだ。

 俺は彼女に色々話した。なぜなら彼女が全然しゃべらないからだ。

 彼女は自分の事は一切話そうとしなかった。無理やり連れて来たし、嫌われているだろうとも思った。本当にたわいもない話をした。俺がホッケーをやっている事、カナダでは少しは有名なのに知られていないなんて残念だとか、ハンドクルー家の男達は全員「H」から始まる名前を代々付けられていてミドルネームが歴代の男達の名前の連続だからどんどん長くなってるんだとか、エイチと言う可愛い憎めない弟が居る事とか、そう言う普通の会話をしたんだ。彼女は静かに聞いていたけど、俺の家族の話には少し笑った。日に焼けた肌に笑うとみえる白い歯が綺麗で見とれた。

 彼女が笑ったのを見て嬉しくなった。そして帰り道、彼女にもう一度名前を聞いた。

「もう会わないから言う必要無いわ。さよなら。植木の事は許してあげる」

 そう言うと彼女はうす暗い、古い一軒家の中に消えてしまった。

 もう会わないと言われると会いたくなるものだろ?次の遠征の時もまた同じ事をした。 

 彼女は一回目の時より怒ってた。道路に俺を引っ張って行って、

「いい加減にして!」と俺に張り手をくらわしてきた。

 つい条件反射で腕を掴んで阻止した。その行為が彼女を更に怒らせた。

 怒り狂って「もう二度と来ないで!このならず者!」そう暴言を吐く彼女に構わず「俺と付き合ってくれないか?」と頼んだ。

 彼女は気が強いのにその時だけは顔を真っ赤にして恥ずかしがった。その顔がとても可愛かった。そして耐えられない様子で家に戻って行った。


 後は想像がつくだろう?毎回、懲りずに遠征とわずかにあった休暇の度に彼女の家の二階をノックして会いに行った。

 今でも覚えている。五度目だった。

「ジャスミンよ。あなたとは付き合えないわ。父が怒るから」

 と始めて名前を教えてくれた。

「ジャスミン。綺麗な名前だな。俺は諦めない。なぜなら、ジャスミンの目が俺を嫌ってないから」

 そう言ってジャスミンを困らせた。今考えると、彼女を本当に困らせていたのかもしれないと反省する。

 俺が簡単に考えているような、普通の家庭じゃなかったんだ。

 あの日、俺をゴルフクラブで殴ってきたのにも意味があった。彼女は自分の敷地に侵入する者から父親を守ろうと必死だったんだ。

 暗い背景が彼女を取り巻いていたんだ。でもそれを知るのはもっと後で、その頃俺はミステリアスな彼女に夢中だった。名前を教えてくれた後、ジャスミンは俺に少しずつ心を許すようになった。時間を見つけては会いに行き、ほんの短い時間を人目に付かない場所や俺のホテルで二人で過ごした。彼女が時々見せる明るい笑顔が見たくて楽しい話ばかりしていた。彼女を喜ばせたかった。もっと話していたいのに彼女は夜までに家に帰らねばならなかった。その理由を「父が怒るから」といつも言った。


 ジャスミンと関係を深める内に分かった事は、あの暗い家の中に彼女の大切な父親が一緒に住んでいる事。昼間は近くのレストランで働いてお金を少し稼いでいる事。遠く離れたヨーロッパに家族がいた事、そして今は父と自分の二人だけになった事。彼女が「私が父を守らなければいけないの」と謎のセリフを繰り返し言う事、そう言う不思議なところがいつ会っても飽きないんだと思った。

 

 隠れた場所で、隠れた存在で、俺とジャスミンが付き合っているのを誰も知らなかった。 

 ジャスミンが俺とは付き合っていると肯定しなかったせいで親友のイワンにも言いそびれていた。

 遠征が終わって帰っても、彼女に電話した。元気にしてるのかとか、レストランでの仕事は辛くないのかとか。本当は一緒に暮らしたいと思ったけど、彼女はかたくなに俺の存在を父親に隠していたし、あの家から出ようとは思っていないようだった。

 いつも最後には「私が父を守らなければいけないの」と言っていた。

 何から守るのか聞いた事があったが彼女は首を振って悲しそうな顔をするばかりで真相を教えてくれなかった。

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