第187話 『知らないナンバー』③

  二人が居なくなり、部屋にはマチとエイチだけになった。外はすっかり暗くなり、もう夜中の十二時を過ぎていた。

 エイチはいつまでもマチを見つめて何も出来ないまま目を覚ますのを待った。

  

 色々な事がショックだった。

 知らないナンバーだったのに気まぐれで取って良かった。取らないで事実を後から知ったら気が狂いそうな気がした。

 マチは自分の足首から大量出血しているのも気が付かないでロアンアの事を心配して泣きながら電話で叫んでいた。

 俺と話して電話を切った後、すぐに意識がなくなったんだろう。

 真っ青な顔をして倒れるマチを見て、我を忘れた。何も考えられなかった。恐怖で身体が急激に締め付けられた。心臓が誰かに握りつぶされたように悲鳴を上げた。


「マチ・・・」

 聞こえない程小さくかすれた声でベットで眠る彼女を呼んだ。

 明日は試合がある。こんな所にいつまでも居て時を忘れて目が覚めるまで待っていたいなんておかしい。分かっているけどそう思えない。ここを動きたくない。時間が止まれば良いのに。何もかもが苦しい。


 これじゃあロイと同じだ・・・・

 俺は兄貴と同じ事をしてる・・・

 たった一人の女の為に、ホッケーを二の次に考えている自分がいる。

 幼少の頃からずっと憎んで来たのに。そうなるなんておかしいとずっと言い聞かせてきたのに。結局、ハンドクルー家の血のままに俺は生きてしまってるじゃないか。

 エイチは胸が苦しくなった。思わず左胸を押さえた。

 

 ロイはどんな気持ちで五年間も彼女を探してるんだろう。

 ずっと話を聞いたことが無い。聞きたくないと思って来た。

 でも・・・・・・・

 今日、自分がマチの事を夢中で助けに行った事や、倒れて瀕死の彼女を見て感じた事を思い浮かべるとロイの事が辛い。



 そんな事を考えながら時は瞬く間に過ぎ去って行った。

 エイチはすやすやと眠るマチの寝顔を見つめながら初めて壁に掛かる時計を見た。

 明け方の四時だった。そして放ったままの携帯を見た。イワンから三回、マリアンヌから六十七回の着信履歴がある。

 アリーナを出て行った後、急に行方知れずになった俺を心配してるんだな。明日の試合に出れるのか出れないのか気にしてるんだろう。

 エイチは立ち上がって廊下に出た。

 マリアンヌに電話する。

『エイチ!あなた一体どこに居るの!いい加減にして頂戴!』

 彼女は寝ないでエイチからの連絡を待っていたようだった。直ぐに電話に出た。自分の担当してる選手が無断で試合を欠席するなど許されない。

「・・・・」エイチは現実の世界を感じた。

『飛行機の出発は朝の八時なのよ?来れるの?今どこに居るのよ!』

「間に合わせる。練習にも試合にもちゃんと出る。飛行機にも定刻通り乗る。だから何も調整しなくて良い」

 エイチはそう言って電話を切るとマチが眠る病室へ戻った。マチは相変わらず眠っていた。麻酔が切れていたとしても睡眠が続いているのだろう。

 医者は失血の他に異常は無いと言っていた。頬もだいぶ色を取り戻して穏やかに眠っている。

 本当は目が覚めるまで傍にいて、もう大丈夫だと自分が説明してやりたい。もう心配しなくて良いと言ってやりたいのに・・・・

 でも、もう時間が無い。

 俺はプロの選手だ。試合を欠場するわけには行かない。

 俺はロイじゃない・・・

 戻らないと現実の世界に。


 エイチは冷静な瞳に戻って大きく息を吸うと、モリエルに電話した。

 モリエルは寝ていたようだったがエイチからの電話を直ぐに取った。そして朝七時に病院へマチを迎えに行く事を快く請け負った。



 

 七時になる頃だった。

 まるでいつも通りの朝を迎えたようにマチは目が覚めた。いつもと同じ感覚だった。

「おはよう。気分はどうだ?」

「マチ、大丈夫?」

 目の前にモリエルとロアンナが居た。二人とも心配そうにマチを見ている。

 マチは何度も瞬きして、ゆっくりと昨日の事を思い出した。

「はぁっ・・・・!ロアンナ!大丈夫?」

 マチは上半身を起こしてすぐにロアンナの心配をした。

 二人は目を合わせてマチの事を笑った。

「ロアンナよりずっとお前の方が重症だったんだぞ?足首が切れて大量に出血して失神したんだ。麻酔でずっと一晩中眠っていたんだからな」

「エイチがね、明け方までずっと看病していてくれたのよ」

 マチはそう言えばエイチに電話して助けてと叫んだ事を思い出した。

 

 当時の状況をロアンナとモリエルが説明していると、看護婦と医者が入って来て目を覚ましたマチに問診した。そして、足の手術の経緯を見て包帯を巻き直し、松葉杖で今日の午後には帰宅しても良いと診断した。

 

 午後になってモリエルとロアンナが足を床に付けられないマチを手伝って肩を貸しながら病院を出ようとする時だった。看護師の一人が退院するマチを見つけて声を掛けた。

「ちょっと待って!あなた、もう退院して大丈夫になったのね?」

 ロアンナが先に振向いて看護師の顔を見た。

「あ!マチ、この人よ、マチを救急車で処置してくれた人!」

 マチは不自由な足をかばいながら振り向いて言った。

「本当に有難うございました。退院できるそうです。傷口も思ったほど深くないみたいで一ヶ月くらいで完全に歩けるようになるそうです」

「良かったわね!・・・・・ところで彼は?」看護師は辺りを見渡した。

「あ・・・・もう帰ったみたいです」

 エイチの事を言われたんだと思ってそう言った。エイチを知らないカナダ人は居ない。

「ねぇ、あなたは彼とはどう言う関係なの?」

看護師は大人しげで静かな目立たないマチを見て不思議そうに聞いた。

「どう言う関係・・・・昔の仲間なんです。彼は一旦仲間になると必ず守ってくれるんです。だから私の事なんかでも助けに来てくれたんです」

 看護師はゆっくり頷くとマチに言った。

「仲間・・・・ね。救急車で私が患者の到着に備えていたら、救急隊員じゃなくて彼があなたを抱えて一番に乗り込んできたの。ビックリしたわ。背が高い男で、物凄くハンサムで何か光っている物が舞い降りて来たんじゃないかと錯覚するほどだったわ。思わず仕事を一瞬忘れて見とれちゃった。直ぐにそれがあの有名なH・ハンドクルーだって気が付いたわ。「な、何であなたが?」って思わず声に出したら彼、なんて言ったと思う?大声で怒鳴られたの」

 情景が目に浮かぶ。

「「どうでも良いだろ!早く彼女を救ってくれ!早くどうにかしろ!助けてくれ!」って彼は必死で私に言ったわ。ハンドクルーと言えばいつも冷静で凶暴で、口も悪くて、ホッケーが上手い色男ってそんなイメージでしょ?とても意外だった。彼はあなたの事をずっと心配していたし、救おうと必死だった。本当にこれがあのハンドクルーなの?そう思うほど狼狽していて・・・・見せてあげたかったわ」

「そうですか・・・・・」

 アバディーンで迷子になった夜を思い出した。やっぱり助けに来てくれた。

 マチは胸が熱くなった。

「だから最近噂になっている女優との恋愛は嘘だろうなって確信したのよ」

 そう言って看護師はマチの事をじっと見つめた。マチにはその発言がピンと来なかった。

「彼は冷たく見えるんですけど本当は仲間思いなんです。だから私の事も助けてくれたんです」

 マチはそう言うと、何度も看護師にお礼を言って病院を後にした。

 


 看護師は去っていく彼女を見て思った。

 ハンドクルーは真面目な男じゃない。仲間?今はシーズン中よ。今日の夜にも試合を控えたプロの選手が顔色を変えて、なりふり構わずトロントからここまで救いにやって来て、自分の腕で救急車まで運び、早く手当するように怒鳴って暴れた。あげく明け方まで看病なんてするかしら?

 ありえないわよ。ふふ。

 そんな事を考えながら看護師は病院へ戻って行った。





 マチはモリエルとロアンアに支えられてバンクーバーに戻って来た。もともと予定していた飛行機で帰宅した。

 マチを家の玄関で迎えたジョンソンは彼女の松葉杖姿を見て驚いた。


 マチは自分の部屋に入ってベットに腰掛けると、助けてくれたお礼を言おうとエイチに電話した。緊急事態の続きだからしても怒られないと思って掛けた。

 登録先の項目から選ばず、暗記している彼の番号を一つ一つタッチした。何度かコールが続いて、機械的に留守録に切り替わった。移動中なのか仕事中なのか、電話は繋がらなかった。


 夜になり、マチが負傷した足をベットの上で伸ばして座っていると電話が鳴った。

 エイチからだった。時計を見ると丁度試合が終わった頃だった。

「もしもし?エイチ?」

 慌てて電話を取ったマチに

『足は?』

 と、彼はまたもいきなり話し始めた。

「うん、もう平気よ。忙しいのに助けに来てくれて本当にありがとう」

 エイチはマチの声を聞き彼女が平静を取り戻し、もう元気になったのを感じた。

 ホッとして口元が緩む。そして、すぐにからかいたくなった。

『お前、俺のことが誰か分かるか?』

 顔は見えていないのにエイチが笑っているような気がした。

「大丈夫よ、頭は打ってないって言ってたもの。お医者さんが」

『どうせなら頭を打って俺との過去を全部忘れた方が良かったんじゃないか?』

「どう言う意味?」

『お前は俺の事をずっと恨んでる。虐められた事を根に持ってる。だろ?』

「そんな事ないわ。別にあなたの事を恨んだりして無い。今回も助けてくれて本当に嬉しかったわ。有難う」

『いつ治る?』

「一ヶ月もしたら普通に歩けるようになるんですって」

『良かったじゃないか』

「今試合が終わったばっかり?勝ったの?私が迷惑かけちゃったからコンディションがとても悪かったでしょ?」

 心配そうに、そして申し訳無さそうにマチが聞く。

『ああ、お前のせいで最悪だった』

「・・・・」

 マチがしょんぼりしている顔が思い浮かぶ。

『俺が一点得点して、二対0で勝った』

エイチはふざけて楽しそうに言った。

「もう!じゃあ良かったけど。良く休んでね。お疲れ様」

 エイチはマチの元気そうな声を聞いて心底ホッとした。

 試合が終わるなりインタビューを全て断って廊下に出、ユニフォームを着たまま急いでマチに電話していた。

「もう会わない!二度と顔を見せるな!」

 そう言って喧嘩別れし連絡することなく過ぎた一ヶ月間だった。

 事故のお陰でほんの少しマチに近づけた気がした。錯覚かもしれない。でも、またマチに会えた。ただそれだけで気持ちが楽になった。

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