第183話 『リタ・ヘンドリッジ』

 一方エイチは、暗い思いを抱えながらマチと最後に怒鳴りあった日々を思い返して過ごしていた。胸がザワザワする。


 そんな時だった、憂鬱な顔で眉間に皺を寄せているとシルトから突然電話があった。午後からは練習だったが、午前中は二時間ほど自由があった。

「エイチ、久しぶりだな。元気がなさそうだな」

 気まぐれなシルトが親友のところにふらりと様子を見に現れた。エイチはトロント空港までシルトを車で迎えに行き、人気の無い適当な公園で二人は車を降りて外を歩きながら話した。

 公園の中心にやって来ると、ビーナスの銅像が現れた。夏は噴水になっている。冬を前に水が止まっていた。突然、シルトが子供のようにふざけ始めた。

 右の肩に水がめを乗せたビーナスは左にやや視線を落として腰には小さな布を掛けている。あとはヌードのブロンズ像だった。

「ねぇエイチ、俺とこの子の写真撮ってよ」シルトは携帯を渡した。

「ああ」

 シルトは銅像に近づくといきなりビーナスに抱きついた。そして胸を両手で揉むように持つとビーナスに濃厚なキスをして見せた。

 その姿をエイチが笑いながら撮影する。

「口を開いてないからフレンチが出来ないよ」

 シルトが残念そうに言う。

「触り方も雑じゃないか?もっと本格的にやれよ」

 指示が出る。

「そう?」

 シルトはお尻と胸を同時に触ってまたポーズを取った。

「まぁまぁ良いのが撮れたな」

 エイチも満足そうな顔をした。

「やっぱり、銅像にはムラムラしないね」

 シルトがニヤッと笑った。散々ふざけてその場を去り、海岸線に向かって車に乗り込んだ。

 二人はいつまでも仲が良い親友だった。

 シルトには久しぶりに会った親友に沢山報告したい事があった。

「エイチ。俺、自分でも信じられないけどもう一年半以上女の子と付き合ってないんだ」

「付き合って無いって?まさか女を抱いてないって意味か?」

「そう」

 エイチは運転しながら驚いて親友の金色の目を覗いた。本当みたいだった。

「何があった?隠すなよ」

「隠してるわけじゃないよ。話すタイミングが無かっただけだよ。それに何か嬉しい進展があるわけでもないんだ」

「?」

 シルトはこの一年で起きたリカとの関係を細かく時系列にそって話した。リカがエイチを諦めた後、行ってくれる人が見つからないからと誕生日の恒例のレストランに誘われた事、そこで完璧過ぎたテーブルマナーを指摘されて困った事、夏のある日、友人の家に泊まれなくなったリカがふざけてあのトレーラーに来て酔っ払った自分のベットに潜り込んで一晩を明かしたこと、酔って手を出したと思って死にたい気分で芝生に転がっていたらリカの父親が彼女を連れ戻しに来た事。そんな事を話した。

「嘘だろ?そんな面白い事が起きてたなんて!俺をどうして呼ばないんだ!アハハ!」

 父親が乱入して来た様子を思い浮かべたのかエイチは大笑いした。

「お前は笑えるかもしれないけど、あの時は本当に大変だったんだ。リカは父親に怒鳴られて平手で殴られて・・・本当にかわいそうだった」

 自分の事よりも、いつもリカを思って同情するシルトにエイチは何も言わずに静かに頷いた。

 シルトは続けた。アルベルトが執事を辞めると書かれた手紙を読んで、仕方なくオーストリアに帰ったこと。夜な夜な続く退屈なパーティーと晩餐会を抜け出そうと会場を突っ切っていたらリカがそこに現れた事、トレーラーの中でパーティーの招待状を見つけて面白半分でオーストリアまでやって来た事を思い出しながら話した。

「あの女、やるな。こっちの迷惑も考えずにそこまでするなんて。行動力がありすぎる。性格もしつこいし俺はやっぱりあの女は嫌いだ」

 エイチはリカを思い出してそう言った。

「わかったよ、とにかくリカを悪く言うなよ。かわいそうだろ?」

「・・・・」

そして、シルトは詰問されて結局自分の生い立ちとブラウン家の血統を全てリカに話したこと、エイチと初めて会った時をリカに話したと伝えた。

「なんでそんな話を?余計な事をあの女に言うなよ」

「別にいいだろ。なんでカナダに来たのかとか話してたらエイチの事を思い出さずにはいられなかったよ」

 エイチは少し笑って当時の事を思い出した。やんちゃな少年時代だった。シルトは犬に追いかけられ助けてくれと叫んでた。俺は世界一自分が不幸だと思いながらリンクでずっとシュート練習してた。クリスマスの夜に自分とは違う理由で家にいたくないと叫ぶ目の前の金髪を見て笑ったのを思い出す。シルトも結局幸せじゃなかった。俺達は一体いつになったら思い通りの幸せをつかめるんだろうな。

「それで?リカとは?」

 エイチは核心を聞く。聞き流したり静かに見守るなんてしない。知りたい事は正面から聞いてくる。そしてそんなエイチの尋問にシルトは誰よりも慣れているので平気だった。

「・・・・別に。それだけだよ」

「それだけ?どうにかならないのか?その中途半端な関係は何なんだ?リカはお前を好きになったんじゃないのか?実家まで追いかけてくるような女だぞ?」

「俺に近づかないように父親が雇った覆面ガードマンみたいな奴らが大学に潜入して張り込んでるらしい。同じ教室でリカを見かけても話し掛けたり出来ないんだ」

「なんだよそれ」

「それに・・・・一度好きだって言って中学の時フラれてるだろ?また性懲りも無くもう一回言うのが本当に恐いんだ。あの時結構傷ついた。また断られたらもう立ち直れないかも」

 シルトは真面目な顔をしてフロントガラスの外を見ていた。

「それで?女には手を出さなくなったのは、まさかそのせいなのか?」

「そう。好きだなんて言えないけど、気持ちが本気になっちゃって、他の子には手出しする気になれないんだ。このままだと老人になるまで女の子を抱かないで片思いのまま棺おけに入っちゃうかも!どうしたらいいんだ!エイチ助けてくれ!」

「・・・・・」

 シルトの話を聞いて、エイチは自分の中にある悩みが説明されたような気がした。

 そして今度はエイチが話し出した。

「何日か前に・・・リタ・ヘンドリッチの家に行った。ベガスにある物凄いでかい家だ。ハリウッドの女優らしく本人もキラキラ輝いてた」

「ああ!その話聞きたいよ!夜中に家から出て来たのを激写されてたじゃないか!エイチ、それで?それでどうだった?彼女の太ももの内側に蝶のタトゥーがあるって本当?寝た男にしか見せないって。何匹の蝶がいるかは寝た男にしか分からないって有名な話だろ?」

 シルトが急に前のめりになって聞き始めた。

「知らない」

「は?」

 シルトはビックリした。寝てないのか?

「お前・・・・まさか・・・・・断っちゃったのか?」

「彼女が目の前で裸になった。だから裸は見た。でも・・・・何も本当に感じなかったんだ」

「ええええええええ!」

 シルトは驚愕してエイチの青い瞳を覗きこんだ。


 

 リタ・ヘンドリッヂは胸が大きい事で有名なセクシー女優だった。巨乳でお尻が出ていて腰がくびれて色っぽい唇をしている。プレイボーイの表紙を飾って一躍有名になった。 

 彼女が特集される雑誌は爆発的に売れた。

 あれはエイチが高校時代だった。

 ある日、イーストケース恒例のバルコニーの回覧があった。エロ本の付録に等身大のリタのヌード写真がついて来た。エイチはそれを取って校舎の自分のロッカーの内側に貼った。エイチはめんどくさがってロッカーに鍵は付けない。しかし、その怒りをぶつけられて何度も乱暴に蹴られたロッカーは彼以外の言う事を聞かなくなった。大きくゆがんだロッカーは他人には簡単に開けられない。

 そんな中、それをこじ開けてでもロッカーにプレゼントを入れようとする執念深い女がいる。そんな女がロッカーを開けた瞬間、不快な思いをするようにわざわざリタの裸を貼っていたのだ。

 それを見た女達は思う。「お前らなんかに用は無い。俺はセクシーな女が好きなんだ。悔しかったらリタみたいな身体になってみろ」そんな風に無言でエイチが言っているような気にさせた。



 NHLに入団してから知り合ったチームの関係者の紹介で、パーティー会場へ出かけた。一緒に来るはずだった仲間は急用が出来たからと一人で出向くことになった。エイチは家の中に入った。ガーデンパーティーのはずなのにひっそりと静かだった。

 大きな白い家の広大な庭には椰子の木がジャングルの様に植えられ、大きなプールと庭全体を照らす照明、カタールの豪邸を思い出させるような神秘的な空間だった。家具も調度品も全て高級で、何もかもが素晴らしい。

 夜の風の中に突然一人の女がエイチの前に現れた。暗闇の中に溢れるような豊満な胸の女の白い肌が浮き立つように見えて幻想的だった。

 彼女はエイチを見ると満足そうに微笑んだ。

 エイチは自分のロッカーに貼ってあった女優の顔を見て、青い瞳で彼女を見返した。

 パーティーなど元々なく、彼女が望んでエイチを自宅に招待したのだと気付いた。

「画面の中よりずっといい男ね」

 彼女は潤んだ瞳でキラキラと光る唇を妖艶に開きながらエイチに近づいた。

 彼女は薄いサテンのローブをかろうじて肩に引っかけて着ていた。腰を緩く紐で縛っている。たわわな胸元が今にもこぼれそうにローブの隙間から見えている。瑞々しい滑らかそうな肌が夜の庭の揺れる光に照らされている。

 リタはエイチの直ぐ目の前に来ると、肩をほんの少し動かしてローブを落とした。肩から落ちたローブはそのまま腰に落ち、緩く巻いた腰紐がまるで生きている蛇の様にスルスルと解けた。後は重力によってローブは床に完全に落ちて広がった。

 リタはローブの下に何も身につけていなかった。自慢の身体を惜しみなくエイチの前にさらした。全米の男達がヨダレを垂らして彼女の写真を見ては興奮する、そんな生身の身体がエイチの前に差し出された。頼んでもいないのに。

 リタは甘えるような瞳をしてエイチに近づいた。そして下から背の高い彼を見上げて言った。

「私、あなたがとっても気に入ったの。口が悪くて、恐い青い目をして。本当のあなたはどんな人なのかしら?知りたくなったの。だからわざわざここまで呼んだのよ。あなたみたいな悪い男に会った事がないわ。」

 リタがイタズラな表情でエイチを誘惑した。

「一緒に遊びましょ?」

 こんな風に誘惑されて断る男などいない。

「その冷たい青い瞳が好きよ。鍛えているその身体も大好きだわ」

 エイチは何も言わず、その場を動かなかった。リタは自分を見ても表情一つ変えない男を見て更に言った。

「それとも私じゃ何か不満なの?」

 リタは男が喜ぶような甘い声が出せる女だった。

 裸のままエイチの首に手を伸ばし熱い息をエイチの首にわざとかけた。

「・・・・」

 エイチはため息をついた。そのため息は彼女に感嘆して漏らしたものではない。

 抱きつこうとするリタの腕を両手で押さえて阻むと無表情にこう言った。

「お前は奇麗だ。最高のプロポーションなのも認める。胸がでかいし良い女だ。高校時代お前のヌードをロッカーに貼ってた」

 それを聞いてリタは満足そうに笑った。何よ、何も感じて無い様な顔をして、やっぱり私に興味があるんじゃない。

「女避けに貼ってた」

 エイチが古い記憶を思い出すような遠い目をしてリタを見た。

「?」

「俺はお前となんて寝たくない。何故なのかは分からない。でも、こんな風に裸を見せられても、世界一のヌードだと分かっていても、お前に何も感じないんだ」

 エイチは冷静に彼女の裸を上から下までもう一度全部見た。

「じゃあな。帰る」

 エイチはそう言うと唖然とする裸のリタをその場に残してあっさりと帰ってしまった。

 取り残されたリタはビックリしていた。自分の裸を見せて誘惑し、振られたことなどだの一度も無かった。

 家の扉を出たところを待ち伏せていたパパラッチが写真を撮った。翌日直ぐに書かれた。

『H・ハンドクルー、リタ・ヘンドリッヂの自宅から帰宅』

『リタの新しい恋人はH・ハンドクルー』『リタの蝶を見たのはハンドクルーだった』 

 好き放題書かれた。そして、リタは翌日、しつこいマスコミに対して、こんなコメントを出した。

「彼はやっぱり普通じゃないわ。また私の家に来て欲しい」

 そんな事を言った。自分が手を出されなかった事が信じられず許せなかったのかもしれない。まるで彼と楽しんだかの様なコメントだった。マスコミは過激に書き立てる。エイチはプロになってからそんな事がしょっちゅうで、どれもこれも放っておいた。

 誰が何を思っても別に良い。俺はホッケーさえしてれば良い。


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