第182話 『距離が縮まない』
エイチはそれ以来、度々暗い気持ちに襲われる様になった。その気持ちは立ち止まると直ぐに肩を叩いてエイチの傍に寄って来る。肩に重石の様にのしかかって自分の力ではどけることが出来ない。
マチに会って、ちゃんと自分の気持ちを伝えれば良いのに、エイチにはそれが難しかった。あまりにも嫌われていて「男として」近寄れない。一緒に居る事を拒まれているのに、どうやって近づけば良いのか方法が思いつかなかった。
縮むはずが無い。俺が近寄れば近寄るほどマチは遠ざかってしまう。理由が分からない。もともと嫌われてる。だからマイナスからのスタートだと割り切ってるからそれは別に良い。でも何かもっと別の理由があるみたいだ。違和感を感じた。マチ、なんで俺から離れようとする?今までだって俺の事が嫌いだったろ。それでも傍にいたじゃないか。それなのに今回は違う。離れようとするなんてなんでなんだ?お前は・・・お前だけは俺の事を諦めないと思ってた。どんなに俺が凶暴でも、悪い男でも、ずっと傍に居て、叱ってやろうとする最後の人間だと思っていたのに・・・
エイチは急に深い孤独を感じた。自分の中身が危険を知らせる。ざわざわする。また、昔の様に・・・
一人を感じると、あの感情が身体を支配し始める。誰かを傷つけたくて仕方なくなる。何かに当たって所構わず全ての物を破壊したい。怒りが込み上げてくる。
エイチの瞳は誰も見たことが無い程冷たい色に変って行った。
エイチがチームに入団してから早くも一年四ヶ月が過ぎようとしていた。
今日も遠征でチームの専用機の中だった。入団後、チームの仲間達は直ぐにエイチの事を認めるようになった。それはロイの弟だからでは無く、H・ハンドクルーが素晴らしい選手だったからだ。ロッカールームではキャプテンのイワンと意見が合わずよくもめる。七歳も年上のイワンに向かって平気で暴言を吐いて怒らせる。しかし、イワンが大人ぶりを発揮して何とか拳骨を食らわせたいところを押しとどめてエイチをなだめる。そんなエイチは凶暴で口は悪いがチームにとっては大切なポイントゲッターだった。彼はチームを盛り上げる役者でもあった。彼が出る試合は全て満員となった。女子供が大勢集まって試合が盛り上がる。
それにエイチは仲間思いだった。誰かがやられると、必ず報復に出た。それはホッケーで勝負する事もあったし、一対一での氷上の殴り合いでもあった。エイチはその全ての戦いに必ず勝った。信じられない程の負けず嫌いだった。
そんなエイチが最近おかしい。仲間は全員その事を敏感に感じていた。
中でもキャプテンのイワンは弟分であるエイチを人一倍心配した。エイチの事をじっと観察した。少し前にも彼の様子がおかしいと感じた事があった。少し痩せたような気がした。でもそれっきりシーズンが始まって、彼は食事をちゃんと取るし、仲間と話している時は楽しそうにしている。至って普通で生活はどこも変らない。だから心配しなくても大丈夫だと思っていた。しかし何かがおかしい。以前にも増して心を閉ざしているような気がする。
あの青すぎる瞳で本当は何を思ってるんだろう。イワンは考えた。
心の中では一体どんな事を考えているんだろう。エイチは素顔を見せない男だ。心を許せる親友には何か相談したりするのか?俺の事は兄と思って遠慮なく慕ってほしい。何かを悩んでいるなら話してくれればいいのに。無理だな、実の兄であるロイの事も「もう兄弟じゃない」と言って避けているほどだ。まだ若いはずなのに世の中の事が全部分かっていて、荒んだ目つきで人を上から見ているような感じだ。エイチ、お前は野生の狼と同じだ。森から連れてこられても一生、人に懐いたりしないんだ。そんな目をしてる。
お前は誰かに心を開いた事があるのか?本心を誰かに言ってみた事はあるのか?いつまでもそんな目をしていては駄目だ。ただでさえ凶暴な冷たい瞳なのに、これ以上心を閉ざしてどうするんだ?
イワンは飛行機の中で遠く雲の向こうを見つめる、冷たい眼差しをしたエイチを見た。
◆
マチとエイチがホテルで喧嘩別れしてから早くも一ヶ月ほどが過ぎた。
ここバンクーバーでは間もなくやって来る冬の肌寒さに木々が衣替えをしようと色づき始めていた。黄色、オレンジ、赤、風が吹くと葉が宙に舞って、道が黄金色に染まる。あまりにも美しいカナダの紅葉シーズンがやって来た。
マチは相変わらず大学に通いながら商社のアルバイトに通っていた。
ハジメは一旦日本に帰国したが、また直ぐにカナダに戻って来た。彼はあいかわらずマチに優しかったし、マチは変らず親切だった。
長い時間を共にする二人には段々と共通の話題が増え、仕事以外の場でも会う機会が増えた。ミュージカルのチケットが余ってるからとか、会社主催のイベントがあるからと言っては連れ立って出かけるようになった。マチは誘われると別に断らなかった。チケットが余っているからと言われて、それならと思っていつも同行した。ハジメといるといつも楽しい。懐かしい日本語で気楽に話せる。 色々なところへ二人で行った。どれも楽しい思い出だった。
でも、ただそれだけだった。
マチは心の中で葛藤していた。自分がハジメとどうなりたいのか良く分からない。
エイチが卒業してしばらくしてマチは自分の生活がとても寂しいものに変ったのを感じた。
周りから大騒ぎする男が居なくなり、面倒も見なくて済むようになった。悪い事をする前に注目しておいて、乱暴を働かないように見張らなくても良い。大声で喧嘩する必要も無い。
当時はそれが嫌だった。エイチの事を考えると心配で気苦労も多かった。あんなにハチャメチャな男はやっぱり他に居ない。大学に進学して周りを見回すと、実に静かなものだった。
誰もが皆、普通に登校し静かに授業を受けて静かに家に帰る。何も起きない。どうしてそんな普通の暮らしが当時は無かったんだろう。今、それを考えるととても不思議だった。そしてどこかつまらない。
エイチは全てが派手な男だった。見た目で言えば顔つきが飛びぬけてハンサムで道行く人がつい振り返って彼の事を見てしまう。見ほれるほど美しい端正な顔立ち、それでいて目に力があって野性的。真っ白で濁りの無いキラキラした白い眼球に見たことも無い程青い虹彩が光を放っていてそれが怖いほど美しい。どんな宝石も彼の瞳の輝きには勝てない。背も高く、肩幅があって男らしい身体。スリムでどんな服も似合う。でも、近寄るとしっかりと筋肉がついていてその身体が鍛えあげられているのが分かる。彼は誰もが憧れる完璧な男。性格も男らしい。大胆で乱暴で凶暴で、ワイルド。小さい事なんて何も気にしないような顔をして周りに仲間が大勢集まる。暴力でねじ伏せているのでは無く自然と集まってくる。仲間は皆、エイチの事が好きだった。あんなにおかしなヤツはいない。見ていて感心する。そして仲間達は口を揃えて言った。エイチは誰よりも仲間思いなんだと。
そんな人といざ別れてみるととても寂しい。私の場合他の仲間達とは境遇が違う。誰よりも酷い事を言われ、あれほど傷つけられて、もともとは大嫌いなはずだったのに。なんでそんな気分になるのかは分からない。エイチはあの日、私に別れを言って遠くへ行ってしまった。とても遠くへ。
マチはエイチと過ごした高校生活を早く忘れ、過去の物として思い出に変え、前進する必要を感じていた。
もういい加減、地味な現実に戻らなくては。
Sの事を諦めて目が覚めて一年が過ぎた。
新しい恋を探して良い人に巡り合いたい。今度こそ理想の恋をしてみたい。休みの日に腕を組んで街を一緒に歩いてみたり、食事をしながら笑ったり、公園のベンチに座って二人だけでささやきあったりしてみたい。大恋愛なんてしなくて良い。目立つ必要も無い。相手は真面目で穏やかで静かな人が良い。私の事を女性として大切にしてくれる人じゃなきゃ。
それは決してエイチみたいな人じゃない。エイチとは真逆の人を探してる。エイチの事がトラウマになってる。記憶から消し去ろうとしてもあまりにも強烈で拭い去れない。
私はエイチの事なんて好きじゃなかった。だから、今あの頃を懐かしく思い出して、今頃彼はどうしてるんだろうだなんて思うのはおかしいことなのに。
ハジメさんと一緒に初めて映画に行った時、ついエイチと比べてしまった。こんな時、エイチならこうしてくれるのにと変な想像が重なった。
エイチの暴力は好きじゃない。暴言も気に入らない。意地悪な顔も嫌い。でもそんなエイチには何故か優しいところがある。
寒くて凍えそうな私を何だかんだと条件をつけながら温めてくれて、迷子になった時も助けてくれた。まだほとんど話したことも無かった時代にキャンプフファイヤーの火の子から救ってくれた事もあった。私はそんなエイチを知っている。
どこかであの腕に、あの一瞬の優しさにもう一度抱きすくめられたいと思っている自分がいる。温かくて安心できる場所だった。どんなものからも守ってもらえるような気がして心の底からホッとした。他の人になんて出来ない。あの場所にはもう戻れず、手に入らないと分かっているんだから違う心地よさを求めて前進しないといけない。ちゃんと頭では分かってる。
私達は仲が悪い。会えば喧嘩せずにはいられない。それは一年半経った今も変らなかった。
一年ぶりに再会したのに、私達は変らない。もっと二人とも大人に成長していて、ようやく普通の人間同士話し合いが出来るのかと思ったら顔を見た途端、また怒鳴りあってた。つまり、この先どれだけ時間が経過しても私達は仲良くなんてなれないのよ。
エイチは私の事を嫌っている。昔からそうだった。その気持ちが一生変らないんだわ。
彼は今大きな世界で活躍するスター選手に成長した。私なんかとは生きる世界が違う。接点が一つも無い。ここはバンクーバーだし、あの人がいるのは東のトロントだわ。遠い。
それなのにどうした訳か同窓会を機に四度も立て続けに会う機会があった。不思議な再会だった。会うたびに馬鹿にされて、当時のように喧嘩した。そして強引にふざけてホテルに泊められて女扱いさえしてもらえない。
昔からそうだった。エイチは私の事を女性としてなんて一度も認めてくれたことが無い。ブスとかバカとか言って、私の事を必ず貶して責めた。同じホテルの部屋に泊めて隣のベットを好きに使えば良いと言うのは、女だと思われていない証拠だわ。
「はぁ・・・・」
マチ、どうしてため息なんて?あなたはエイチに女として認めてもらいたいの?
別にそういうわけじゃないけど・・・・・
何故かあの日、トロントのホテルの部屋に二人でいる時とても頭に来てしまった。どうしてあんなに怒っちゃったんだろう。今までならあれぐらいじゃ頭になんて来なかったのに。何故かあの日、エイチを突き放したくなった。遠くへ行って欲しいと思ってしまった。エイチを見るたびに思ってしまう。エイチが輝いてるからいけないのかな。私だって女の子なのにって・・・・・一体誰に対してのやきもちなんだろう・・・・それに何のためにやきもちなんてやいてるんだろう。自分が良くわからない・・・
マチは頭を激しく振って散漫で整理できない思いを放りだそうと努めた。
4回ぐらい偶然が重なることだってあるわよ。たまたま仕事が近くであっただけ。そして、たまたま私がトロントに行く機会があっただけだわ。「もう二度と会わない!」エイチから最後にそう言われた。私だってそうしたい。会わなければいずれ忘れられるもの。
前に進むのよマチ!エイチから離れなきゃ駄目。翻弄されては駄目よ!
マチはアルバイトからの帰り道、真剣な怖い顔をして国道沿いを歩いていた。
大きな広い道を大型トラックが何台も通る。そのたびに風が巻き起こって夕暮れの秋空にマチの髪がふわりと舞った。マチは突然立ち止まると振り返って一方向を睨みつけた。
「もう!忘れようとしてるんだからこっち見ないで!」
マチが振り返った先には大きな看板が立っていた。車の広告だった。車の横にはルーフに肘をついてH・ハンドクルーがこっちを見てる。笑っていない無表情を向けてマチの方を責めるように見ていた。
マチは頬を膨らませると再び正面に振り返って歩き出した。その姿を看板のエイチがあざ笑っている様な気がした。
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