第19話 『最低のMR』

 マチは朝起きて鏡の前に立ち、とても寂しい気分に襲われた。

 長かった髪の毛が無くなっていたからだった。鏡の中の人物はまるで別人のようだった。

 その別人は映画に出てくるような新しい未来を自分で切り開いていく快活なヒロインでもなんでも無く、ただ眉を下げて悲しそうに佇むいつも以上に弱そうな自分だった。


 リンクに向かい、最後の洗濯物をたたんでロッカーに入れる作業を進めた。この作業も今日で終わり。そう思うと色々思い出される。もともとおかしな理由で入部して、Sや他の部員たちに後ろめたい気持ちを持ったまま続けていた。練習で忙しいのにモリエルは本当に色々教えてくれた。お陰でマネージャーの仕事はもちろん、全く知らなかったホッケーのルールも少しは詳しくなった。チームには最低何人必要で、ゴールキーパーが何人いて、どう言う事が反則で、ペナルティーとは何なのかも分かるようになった。複雑だったリンクシフトにもだいぶ慣れてモリエルを手伝えるようになった。誰のか分からなかった洗濯物も今ではほとんど間違えずにそれぞれのロッカーに入れられるようになった。仲間達の話を聞くことが多くなり部員がどんな女の子が好みで、誰と付き合っているのかも分かるようになった。部員の性格も徐々に把握できるようになって来た。Sが生徒会で忙しい時期は、部活には途中からしか参加できない事や一軍が学校の優待生として活動費と言う名のおこずかいをもらっている事や、アルバイトを禁止されている事、色々な事が分かった。

 しかし、これら全てがマチには関係が無くなる事だった。今たたんでいるTシャツが誰の物かも覚えなくて良い。今日の放課後Sがリンクに来たら、きちんと言って辞める。

 マチの決心は固かった。

 この部室やリンクとも今日でお別れ。でも全然名残惜しくないわ。後は女子寮が早く出来上がるのを待って引っ越しをするだけ。ただの普通の目立たない高校生に戻りたい。部員に関わらない何でもない普通の女の子に戻って静かに生活するの。そうなれば、もう誰も私に注目しない。いじめる価値もない何の変哲も無いただの空気の様な女の子に戻るのよ。


 マチは教室でロアンナの登校を待っていた。昨日は保健室から飛び出したままヘアサロンへ行き、それっきりロアンナと連絡が途絶えていた。父からの仕送りが少ないマチは資金不足で携帯を買えない。今どき持っていないのは自分だけだと分かりつつ、遠くアマゾンで研究を続ける貧しい父にもっとお小遣いが欲しいなどとは言えなかった。

 マチは沖縄に居る時から貧しい暮らしに慣れていた。カナダでも落ち着いたらアルバイトをして自分でお小遣いを稼ごうと考えていた。しかし、これもメインチームのマネージャーをやっていると忙しすぎて叶わない。

 今晩部活を辞めれば生活も落ち着くわ。ちゃんと自分の将来を見据えて頑張ろう。

 そろそろロアンナが登校してくる。昨日のエイチの罵声に何とか耐えて登校してくれる事をマチは祈った。ロアンナは普通の女の子で、あんな事を言われれば傷つくに決まっている。

予鈴が鳴ってロアンナが現れた。やはり優れない顔色をしている。ロアンナはマチを見ると涙を浮かべた。昨日から泣き続けているせいなのか少し思い出すだけで簡単に涙腺が緩む。

「マチ・・・髪が短くなってる。本当にかわいそうだわ、私、昨日からずっと考えていたの。 あんな人たちの傍にいちゃ駄目よ、マチの身体が壊れちゃう。精神が病んでおかしくなっちゃうわ。お願い、マネージャーは辞めた方がいいわ。今すぐに」

 訴えるロアンナの手をマチは抱きしめるように握ると

「ありがとう、ロアンナ。私もそう思ってるの。今日の放課後Sに事情を説明して辞めさせてもらうわ。短かすぎたけど、自分の平和な生活を取り戻す事が優先だわ。私のせいでロアンナまであんなひどい事を言われたんだもの。本当にごめんね」

 謝るマチにロアンナは首をぶんぶん振って否定した。

「あなたのせいなんかじゃない、全部あの男のせいよ!」


 その日はとても静かに過ぎて行った。まるで嵐の前の静けさとでも言おうか不気味な程の静かさだった。

 最後の授業が終了してマチはしっかりとした足取りでリンクへ向かった。そしてSを目で探した。リンクにはまだ来ていないようだった。


 エイチは昨夜から続くイライラを未だに解消していなかった。そこへマチが現れた。彼女の短くなった髪の毛を見るなり、昨日の保健室を思い出して更にむかついた。マチはエイチと目が合っても挨拶もしなければ、怯えもせず、無視した。それがエイチのささくれ立った心を逆なでし、怒りに火を着けた。

「おいクソ女、待てよ」

 エイチはマチを低い声で呼びとめた。その呼びとめた声の調子で他の部員が全員黙った。

 エイチが怒っているのが分かった。シルトは昨日の今日でマチが何をされるか分からないと判断すると、すぐにマチの傍へ寄った。モリエルも同じようにマチの後方に陣取った。

 全員、昨日保健室で気がふれた彼女が自分の髪をエイチに投げつけたのを噂で知っていた。しかし、あの惨憺たる状況を実際に見たのはモリエルとシルトだけだった。

 あれと同じ事がまた起こったら本当にまずい。シルトは

「エイチ、落ち着けよ。早くリンクへ行こうぜ?」と誘った。

 エイチは全く聞いていなかった。マチはエイチに呼びとめられているのを更に無視して早歩きで廊下へ出た。そして廊下を出たところで誰かの胸に顔面から激突した。

「イタっ!す、すいません!」マチは自分の不注意をすぐに謝った。

「大丈夫?」優しい声の主は探していたSだった。

 きゃぁああああ!大変、Sにぶつかっちゃうなんて!

「本当にすみません、Sこそ大丈夫ですか?」

 Sはマチの短くなった髪の毛を凝視して眉間に皺を寄せると

「髪を切ったの本当だったんだね・・・」と言った。

 マチはそう言われてSが昨日の事件の事を誰かから聞いて知っていたと分かり恥ずかしくなった。自分が短気だったのがとても悪い事のように感じられた。マチのすぐ後ろからエイチが追いかけて来た。そしてSの前に居るマチを見ると、

「S、その女を甘やかすんじゃない!俺の代わりに殴れ!」と怒鳴った。

 Sは怒り狂うエイチを見ると呆れて眉をしかめた。Sはすかさずマチを自分の背中にかばうといつもの優しいSとは違い男らしく、きっぱりとエイチに言った。

「いい加減にしろよエイチ!一体、何でこんなに腹を立てているのか知らないが、そんな剣幕で女の子を追い回すなんて男として最低だぞ!」

 エイチはSの発言にうんざりだ、と言う顔をして

「何だと?」とその冷たい青い目を細めて責めた。

 先程燃え始めた炎にガソリンが注がれたように頭に血が上った。

 部員が全員廊下の会話に集中した。そして、ロッカーから覗いていたライダーの指示で全員が急いで廊下に集合した。犬猿の仲のSとエイチが言い合っている。部員の気持ちは一つだった。エイチが切れる前に全員で飛びかかってこの猛獣を床に倒さなくてはならない。ヤングはホッケー用のプロテクターを改めてしっかり着用した。

「男らしくないって言ったんだ。聞こえなかったか?」Sには珍しい。エイチを挑発した。

「お前、誰に向かって言ってるのか分かっているのか?」

 エイチの下の瞼がぴくっと動いた。瞳孔が小さくなり照準がマチからSへと切り替わる。しかし、獲物が二匹いる場合どちらとも諦めないのがエイチだった。

「俺は女を殴らない。何故か分かるか?手加減が分からないからだ。本当に殺すかもしれない」エイチはSの後ろに隠れるマチを鋭くにらんだ。

「だからお前が俺の代わりに殴れよ。その頭の悪い出来そこないで役立たずのマネージャーの顔を殴って分からせろ。この女はそうでもしないと覚えられない。脳味噌が頭に入ってないのか?その小さな頭には何が入ってるんだ?牛のクソでも詰まってるのか?」

 思わず後ろで待機していたヤングが笑った。

 Sは何を言われても冷静だった。

「エイチ、マチを悪く言うのを止めろ。仲間だろ?」

「仲間!?」エイチの声がひっくり返った。

「この女が?何を考えているんだ?こんな奴をいつ仲間にしたんだ?お前まで頭がおかしいのか?」

 エイチはためらいも無くSの胸倉に腕を延ばして掴んだ。首元を絞め上げる。

 Sは片手でそんなエイチの手を掴むと冷静に言った。

「エイチ、お前に話があるそうだ。監督が呼んでいる。行くんだ」

 風向きが急に変わった。

「監督?」

 エイチは考えを巡らせた。そして、あぁ、昨日の夜の事でまた咎める気だな。しつこいな、めんどくさい。と思った。

 Sはエイチの手を自分から外すといつもの凛々しいリーダーの顔になり、後方で冷や汗を流しておどおどしている小さなマチを見た。そして

「マチ、君も呼ばれているよ」と言った。

「え?」

 エイチはそれを聞いてとても嫌な予感がした。何かは分からないが自分と何の接点も無いマチが『同時』に呼ばれる意味が分からない。しかも『監督』から。第六感が良くない事が起きると警告した。

「おい、何の話だ?」エイチは低い声でSに聞いた。

「行けば分かる。他の部員は練習を中止してロッカーに集合してくれ。話がある」

 エイチはSとマチを交互に見てMTGルームで待つ監督の元へ進んだ。


 広いMTGルームには監督の他に二人のコーチも一緒に座っていた。エイチとマチが来るのを待っていた。

 監督は目の前の扉を乱暴に開けて無言で入って来て席に座ったエイチのふてぶてしい態度を見て思わず笑った。しかし薄いサングラスから覗くその眼は笑っていなかった。

「お前が察している通りの悪い知らせだ。マチにとってはもっと嫌な話かもしれん。でも決まったもんは仕方が無い。2人とも近くに座れ」

 マチはエイチから離れたところに座ろうとしたが監督からエイチの横を指されて仕方なく席を一つだけ空けてその横に座った。

 マチは手に汗をかいていた。監督に呼び出されるなんて尋常じゃない。

 きっと私が保健室でエイチに髪を投げつけた事を咎められるんだわ。でも何故監督が?マチは色々考えを巡らせたが、まともな回答が思いつかなかった。

 何を言われるのか聞くのが怖い。何だろう、なんで私がこんな男と?叱られるの?

「まさか・・・」

 エイチがいきなりピンと来た様に、ついていた頬杖から顔を離して目を見開いた。

「おお、気が付いたか?そうだ『MR』だ」

「なっ!」

 エイチが歯を食いしばったのが見えた。そして勢いよく立ち上がると机の上に足を踏み出して監督の方へ向かった。

「殺してやる!」

 すごい剣幕だった。

「やめるんだ!」

「落ち着け!」

 コーチ二人が全力でエイチの脇に駆け寄って監督に殴りかからないように捕まえた。マチはエイチの切れっぷりにびっくりして思わず仰け反り、真っ青になった。

 この男に髪を投げつけたなんて・・・・と今更ながら後悔した。

 その姿はあまりにも恐ろしく今にも監督をボコボコにし、挙句喉元に食いついて食いちぎるんじゃないかと想像させた。マチはびっくりすると共に疑問を抱いていた。

 『MR』って一体何なんだろう。聞いた事の無い略称。こんな時ロアンナがいてくれたら教えてくれるのにと頭の隅で思った。

「ハンドクルー、お前は気性が荒い。俺が長年メインの監督を勤めた中で歴代ナンバーワンの気の短さと荒さだ。その上、凶暴で人に対してためらいも容赦もない。その性格は時には試合で有利に働く事もあるだろう。しかし日常生活では全く役に立たん。ただ人を怯えさせるだけで何も良い事が無い。Sに聞けば部員もお前の動向にいつも注意を払わねばならず迷惑が掛かっているそうじゃないか。もうグレードが上がったんだから少しは自制を覚えるべきだ。自分の行動に責任を持ち、他人への迷惑を反省する事をお前に分からせる事にした。学長にも許可を取った」

監督はエイチにそう言うとチラッと眼鏡の中からマチを見た。

 大丈夫なのか?本当にこんなか細い子で。と言う顔をした。

「相手はそこのマネージャーだ」

 エイチはマチの方を一度も見なかった。はらわたが煮えくりかえりそうな顔をしている。

「誰がこの女に決めたんだ?」エイチは怒りに震える声で監督に聞いた。

「関係無いだろ?それよりルールは分かっているな?お前が負う責任はマチが。彼女が負う責任はお前がだ」

 マチは不安になって小さな声で聞いた。

「あ、あの・・・すみません。『MR』って何なんですか?知らないんです」

 そう言えばこの子は転校生だった、と気が付いた一人のコーチが話し始めた。

「君は転校してきたばかりだから知らないね。我が校には昔から「相互学習制度」というものがあるんだ。種類は何種類かあるんだが基本は互いが持っている能力をそれぞれ生かし相手の足りないところを補い合う学習制度なんだ。一般的には学力の順位で導入されている。例えば数学で一位の子がその年の期末に最低点だった生徒をある一定の期間マンツーマンで指導して成績を上げさせると言うような制度だ。その制度の一環に『MR』と言うのがある。さっき話した相互学習とこれの何が違うかと言うと学習面でのサポートでは無く生活面に適応されるという点だ。主に生活態度の事だ。例えばハンドクルーが授業をさぼるとしよう。すると翌朝、君は教務課からオレンジ色の札を渡される。補講の入場券だ。放課後、補講に出る事になる」

「わ、わ、私がですか?この人が授業をさぼったのにですか?」

 マチはびっくりして聞き返した。

「そうだ。相互責任とはそういう事だ。因みに君が何か仕出かせばエイチが罰を受ける事になるわけだ」

「お前の場合は補講は受けさせん。次の試合に出さない」監督が言った。

「!」エイチは口を開けて呆れた顔をした。

「それぞれの罰は教務課と俺が決める。エイチの罰は俺が。マチの罰は教務課が決めるわけだ」

「何でだ!ホッケーには関係ないだろ?」

「お前に補講などやらせても意味が無い。お前の罰になるような事を俺が考える。つべこべ言うんじゃない。文句をいくら言ってももう変わらない。普段の生活態度が悪いからこんな目に遭うんだ。今回はやり過ぎだ。例え相手が武器を持っていたとしても6人も病院送りにするなんて。学長からお前の首を預かった。退学になるはずだったんだぞ。俺に感謝しろ」

 マチは監督が最後に言った意味が分からなかった。6人を病院送り?退学?首を預かる?何の事?

「うるさい!こんな事許さない!絶対にやらないからな!」エイチは大声で監督に迫った。

 しかし監督は冷静に足を組んだままの姿勢で、

「学位に影響する事ぐらいお前も知っているはずだ。単位を獲得するつもりで自制しろ。放棄すれば二人とも学位は取れん。卒業できないからな。それからマネージャー。お前は自分の為にエイチを監視するんだ。『MR』が解除になるまでマネージャーを勝手に辞めることも禁止する。目が届くようにお前ら二人を一緒にリンクに置いておく。いいな?」

 エイチの食いしばった歯からギリギリと音が聞こえそうだった。そしてエイチは監督に一言聞いた。さっきから気になっている事を。

「誰が俺のMRの相手をこの女に指名した?」

 低い声がマチには怖かった。

 どうしよう、このままだと本当に監督に殴りかかるかもしれない。たぶん、このコーチ二人じゃ止められない。監督はマチの心配をよそに、いつもと変わらぬ調子で短く答えた。

「Sだ」

 エイチはそれを聞くと頭に血が上って怒りが頂点に達した。

 腕を抑えるコーチを乱暴に振り切ってたぐいまれなる運動神経で机をいとも簡単に飛び越えMTGルームの扉を開けて廊下に飛び出した。そこには部員全員がエイチが出てくるのを待ち構えていて一斉に怒り狂うエイチに飛びかかった。エイチは手当たり次第掴み掛かってくる仲間を殴って倒すと絡まる仲間の身体の隙間から廊下の端に立っているSを見つけて物凄い目でにらんだ。 

「きさま!覚えておけよ!」どなり声が響き渡った。

 部員たちはエイチに殴られ鼻血を流し、自分を犠牲にしながら暴れ狂うエイチを引きずって別の部屋に連れて行った。

「ぎゃあああああ!」

 廊下に断末魔の様な悲鳴が聞こえ、また一人がエイチの餌食になったのが分かった。

「皆、ありがとう」Sは小さくつぶやいた。

 Sは先ほどロッカーに皆を集めてこの件を全員に報告した。エイチが怒り狂って自分に襲いかかって来るだろうから皆で協力して止めてほしいと頼んでいたのだった。

 理由を聞いた部員は全員溜息をついた。これから始まるエイチの怒りに満ちた日々に自分達が付き合うのかと思うとげんなりした。


 昨晩の事だった。夜中に学長の部屋に呼ばれた監督は、エイチが今晩起こした事件を聞いた。

学長は直ぐに退学処分にすると言った。特に学長の隣に座る教務課の主任はエイチの退学処分に強く同意した。彼は昔からエイチが起こす数々の悪行にうんざりしている。大勢の教師の中で誰よりも腹を立てていた。監督は話を聞いて呆れながらも、ハンドクルーは今のチームには欠かせない選手であると説明し学長に頭を下げた。真夜中の会議はいつまでも続き、何度も退学させる、させないの押し問答の末、エイチの事を責任持って「更生させる」事を監督が学長に約束する形で終了した。しかし、ただでは終わらなかった。学長の提案で『MR』を決行する事が決定した。監督は内心反対だったが怒り心頭の学長に口答えするのを諦め、仕方なく受諾した。エイチが退学処分になるよりはましだ。

 しかし、監督は思った。そんな事をしてもあいつは更生など出来ない。それにあの厄介な男の相手を誰にするのだ?と悩んだ。そして考えが煮詰まり翌朝Sを呼んだ。

「生徒会長であり部長のお前に聞く。あの猛獣を少しでも黙らせる事が出来る相手を全校生徒の中から選んでくれ」

 するとSは即答した。

「マネージャーのマチが最適です。彼女が彼を変えるでしょう」

 と言った。

 Sは確信していた。エイチは手強い男で、力も強い上に頭の回転がやたらと早く勘が良い。悪事を思いつく事に関しては天才的だ。あの男を黙らせるにはあの男に立ち向かえる「女の子」が必要だ。彼は男には容赦なく手を出して殴る癖がある。しかしさすがに女の子には手を出さないだろう。全校生徒の中でたった一人彼に立ち向かった実績を持つ女の子がいる。彼女はその勇気を買われてマネージャーになった。好都合な事にマチはエイチの隣に住んでいる。監視しやすい。彼女は彼を嫌っている。エイチを男として見ずに「人として」正しい事を教えられる素質がある。彼女しかいない。

 Sはそう思った。


 マチはとぼとぼとMTGルームからゆっくり出て来た。

 エイチは既に他の部員に連れ去られ監督とコーチも去り、彼女一人で廊下に佇んでいた。

 未だに事情が呑み込めず、困り果てて一人で色々考えていた。

 本当は今日、マネージャーを辞めるはずだったのに。なんて事に巻き込まれてしまったんだろう。マネージャーはMRが解除されるまで辞めてはいけないと監督に釘を刺されてしまった。マチは途方に暮れて廊下を見るとそこにはSが立っていた。

「S・・・・」

 マチは困った顔で、いつも通り優しそうなSの顔をぼーっと見た。

 Sは少し微笑むとマチに言った。

「マチ、大変な荷を負わせてしまってごめんね。でも、マチが適任だと思ったんだ。君はエイチに負けないであんなスチュエーションだったのに自分の意見を言いに来たね。それが買われてマネージャーになった」

 マチは心臓がチクリと痛んだ。違うんですS・・・

「あ・・・あのそれは・・・」

「それにマチの様な子にいつまでも洗濯や掃除だけをやらせておきたくない。そんな事だけで何も掴まず部員との生活を終わらせて欲しくないんだ。一人の部員を管理すると言う大きな意味のある仕事をしてみてほしい。君にとっても意味のある事だと思うんだ。そして部員達は全員君に助けられる事になる。僕の言っている意味が分かってくれるかな?」

 Sはマチに真剣なまなざしで語った。

「・・・はい。でもそんな大役私に務まるか・・・」

「君を見込んでの事だよ」Sは静かに微笑んだ。そして

「ただし、条件を出しているんだ。無理だと思ったら僕に言って欲しい。そうすればすぐに君をMRから解放する。その権限を僕は監督から預かっている。学長も承知している。だから安心して欲しい。マチ、君は本当に「勇気」があってこのメインのマネージャーに選ばれたんだと言う事をもう一度見せて欲しい」Sは軽く左目でウインクした。

 マチはSに本当は目が見えなかったから裸の男でもあんな事が言えたんです。不正だったんです!と大声で謝罪したかった。しかし、これは第二回目の入部試験なのかもしれないと思った。

「メインホッケー部に協力してくれるかい?」

 大好きなSに見込まれて依頼された。断れるはずが無かった。

 マネージャーとしての新しい役割。洗濯やリンクシフトやスティックの発注だけじゃない意味のある仕事?やれるだけやる?彼はMRを私と組むと何か変わるのかしら?

 マチは不安でいっぱいの顔をSに向けながら小さく頷いた。

「それから・・・今はまだ分からないと思うけど。この制度のお陰で君は必ず守られる事になる。いつの日か必ず分かってくれると思う。覚えておいてね」

 Sは謎めいた事を言い残してマチと硬い握手をし、じっと彼女を見ると明るい笑顔になってこう言った。

「黒い素敵な髪がこんなに短くなってしまったのは残念だけど、その長さもとっても似合ってるよ」

 Sはそう言ってマチに微笑みながら去って行った。

 マチは雲の上にも登るようだった。顔が真っ赤になって嬉しさで呼吸困難になりそうだった。マチはMRの事をしばし忘れ、Sから言われたセリフを頭の中でエンドレスに流した。 

 Sが髪形が似合ってるって言ってくれた。

 頭から煙が出てないかしら・・

 ここ数日で一番のハッピーな出来事だった。


 その日の帰り、洗濯を終えてマチは寮へ急いだ。もう送迎のバスは無い時間なので薄暗くて怖くてもあの公園を通らなくてはならなかった。公園の中を通らずに公園の周りからぐるっと大回りして大通り沿いを帰ることもできたが、それは時間がかかって嫌だった。

マチはとぼとぼと一人道を歩いていた。見えるのは地面ばかりだった。上を向いて歩くような心境じゃなかった。そして、いつもの橋のところにたどり着いた。丁度公園の道の半分あたりだった。マチは橋の傍により今日は凍っていない事を確認した。浅いところは白っぽくなっていたが深いところは水の流れが見えた。

 あの日、溺れていた私を引き上げて、エイチは嫌がらせにキスをした。初めてのキスだったのに悪魔のイタズラに奪われてしまった。胸が痛くなった。本当に最悪な出来事った。

 橋にもたれかかって周りを見渡した。カナダの自然は本当に美しい。深い森、高い山、四季の移ろいを艶やかに彩る楓の葉。周りにある世界はこんなにも輝いていて美しく、晴れやかなのにどうして自分の身の回りで起きている事はこんなにも複雑で恐怖に満ちているのかしら。深いため息が出た。

 全部あの男がいけないのよ。

 マチはあの日、『不正な理由で入部した事をSが聞いたらどう思うかな?』とエイチに言われた事を思い出した。Sに心底悪いと思った。部員の皆にもいつか言うべきなのに機会を失っている。『MR』これは信頼を回復する良い機会なのかもしれない。チャンスなのかもしれない。でも、まったく自信が沸いてこなかった。相手がエイチなのだから。

暫く橋にもたれかかって考え事をしていると自分の横顔に影を感じた。振り向くとそこに居たのはエイチだった。

 マチはギョッとした。会いたくない。しかもさっきまであんなに暴れ狂っていたのを見た後で一対一で人気のない公園でなんて出くわしたくなかった。

 そこにいるエイチは無表情だった。

 さっきの頭に血が上って抑えられない時の表情では無かった。しかし、マチは彼の眼の奥に今も怒りに満ちた青い炎が消えていない事をちゃんと見つけた。

 エイチは何故かマチの前で立ち止まり、手に持っていた何かをマチに向かって見せた。

 良く見るとブロンズで出来たチェーンで、軍人が首から下げるドックタブの様なものだった。

エイチはそれをマチに投げた。マチは受け取りそこない落とすと、それを地面から急いで拾い上げた。

「絶対に失くすなよ。紛失も破損も罰になる。解除される日に監督に返す」

 エイチはぶっきらぼうにそう言った。

 マチは訳が分からず手の平にそれを持ち直し、刻印されている文字を読んだ。

『マチ・カザマ MR H・ハンドクルー カナダ・メイン』

 と4行で押印されてあった。マチはこっくっと頷いた。

 エイチは橋の向こうを見ると突然手に持っていた自分のタグを力いっぱい川の方へ向かって遠くに投げた。

「あっ!」

「絶対に止めさせてやる!こんな制度!」シャウトした。

「罰を受けたくなければ拾ってこい!ああ!ムカつく!」

 エイチは大声でそう吐き捨てると行ってしまった。

「あ・・・・あの、ちょっと!」

 ウソでしょ?失くすなってたった今、自分で言っておいて川に投げちゃうなんて、あの人なんてバカなのかしら!

 

 

 マチはもう怒る気さえしなかった。そして心の中にフツフツと、

 この人・・・・本当にダメな人なんだわ・・・

 どうにかしなきゃ・・・

 私が・・・・

 私なんかに

 出来るかしら・・・・

 私に・・・





 翌日、マチは意を決して昼休みに『毒蛇の巣』へ向かった。

 メインチームの部員とチア達がカフェテリアの一角で大勢でたむろして食事をとっている。普段だったら決して近づかない危険なエリア。

「あはは!やだぁ、シルトったら!」と大きな笑い声が聞こえてくる。

 華やかなメンツ。大勢で集まっている。いつもだったら近づかない。絶対に。

 その輪に静かに近づくとモリエルが一番始めにマチに気が付いた。

「どうしたんだ?マチ」

 その声を合図に全員が彼女の方を向いて黙った。マチは周りの人間など見ていなかった。中央に座る悪魔に向かって来た。今日も鋭く冷たい目線で自分を見上げてる。

 マチは詩を朗読しようとしたあの日を思い出した。バカにされて頭が真っ白になり世界の果てに追放されたかのような気がした。でももう、めげてはいられない。やらなくてはならない事だった。

「エイチ、これを」

 マチは昨日エイチが川に投げ捨てたタグを渡した。

 エイチは表情を変えなかった。マチはエイチの前に進みタグを手に渡した。

 部員は一斉に動ける体制に座りなおした。またエイチが暴れるかもしれない。何も事情を知らないチア達が「ねぇ、あのチェーンなにかしら?」とコソコソ言った。

 エイチはチェーンをひったくると両手で簡単に引き千切り、カフェテリアの窓に乱暴に投げた。タグが窓に当たり、激しい音を立てて床に落ちた。

 モリエルはチア達に言った。「今のうちに逃げろ。ここからいなくなれ!危ない」チア達は少しずつ席を立った。エイチはマチを無表情に睨んだ。

「試合に出れなくなりたいの?」

 急にエイチの顔色が変わる。戦闘態勢に切り替わった。

「何だと、このクソ女」

「あなたが切ったチェーン、あれは私のよ。私のチェーンが破損したんだからあなたが責任をとるんでしょ?」

「この女!」

 エイチは目の前の机と椅子を足で蹴り飛ばして、行く手を空けるとマチの前に来た。

「殴ればいいわ。きっと次の試合も出れなくなるから」

 エイチはマチを窓際に追い立てた。ガラスに背中がぶつかったマチの制服の胸倉を掴むと自分の腕をマチの顎の下に入れて喉を圧迫した。

「二度としてみろ?あのブタがどうなるかわからないぞ」

 マチは苦しくて息が出来ない中、エイチを睨んだ。

 そんな事許さないわ!

 エイチはマチの首に掛かっている自分のチェーンを無理やり取ると冷たい目つきでマチを睨みつけて出て行った。


 マチとエイチが『MR』になった事はあっという間に校内中に広まった。

 彼女にとっては史上最悪な事態なのに『マネージャーである上、エイチとMR』と言うのは一部の女子にとってはとても羨ましい事だった。部員達といつも一緒に居られる上、あのカッコいいエイチといつも一緒に居られるなんて!と校内が一時騒がしくなる程だった。

 これは悪い事が起こる前兆だった。マチには分かった。嫉妬と妬み、恨みの目線が毎日あちこちで痛い。もう慣れたが廊下やトイレでコソコソ、マチの事を見ながら指を差してくる。無視しようと考えないようにしようと思っても馬鹿にされるとそれなりに傷ついた。

 MRが早く切り上げられてマチが部活を辞めない限り永久に続く嫌がらせだ。しかし、厳しい監督の指令のせいで普通の生徒には簡単に戻れなくなってしまった。

 そして、メインはマチにめげている余裕を与えなかった。

 良くない事は次々と起る。

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