第18話 『凍った川』

 十二月の初めになるとカナダに完全な冬がやって来る。南国育ちのマチが今まで体験した事のない出来事が次々に起きた。

 朝、目が覚めてバルコニーに出ると息が白かった。なんで息が白いのか何度やっても不思議だった。それから洗濯物のせいで朝が早いマチは学校までの道のりイーストケースと学校の間にある公園で草木に霜が降りているのを見てびっくりした。

 朝早く学校へ向かうため、ここ最近、徒歩でこの公園の道を歩いて通学している。

メインには通学バスもある。授業に合わせて朝と夕方に集中して何本かやってくる。公園を大きく迂回して学校へ向かうので時間がかかる。そもそもマチが登校するこんなに早い時間にバスはまだ運行していない。すなわち歩くしかない。

 すっかり葉を落とした木々はこれからやってくる冬に向けて冬眠を始めたかのように静かに裸のまま佇んでいる。

 ロアンナに言わせるとカナダと言ってもバンクーバーは寒くない地方らしい。雪は時々降るが、カナダ東部にあるオンタリオ州や、国立公園で有名なアルバータ州に比べると積雪量が相当少ないそうで、そもそもバンクーバーは「世界一住みたいところ」ランキングで上位を獲得しているぐらい快適な気候の街らしい。しかしそれでも四季があり冬はそれなりに寒い。

 マチは公園の真ん中にある小さな川にかかる橋を渡った。マチはこの橋が大好きだった。赤毛のアンに出てくるような綺麗な石畳の橋で、自然豊かな公園に似合う佇まいで美しい。木々に囲まれた少し奥まったところに位置しているので誰も通らなくて静かで良かった。

 今日もリンクでは雑用と洗濯物が山の様に待っている。

 エイチは相変わらず遠慮なく色々な物を入れてくる。時々、嫌がらせなのかゴミが入っていて洗濯かごは「面倒くさいもの入れ」に代わって来ているようだった。

 昨日は全校生徒に配られたボランティアに関するアンケート用紙がぐちゃぐちゃに丸められて入っていた。結局広げてマチが代筆して教務課の回収箱にこっそり入れた。

 

 一体あの男はなんのつもりなんだろう!本当に生活態度がなってない。ホッケーが上手ければ何でも通ると思ってるんだわ。最低の男!マチは考えるだけでむかむかしてきた。いいかげんな学生生活、他の生徒に対する暴言と暴力、真面目なマチには信じられない事ばかりだった。毎回の事と分かっていても溜息が出る。そして今日、放課後の練習が終わった洗濯かごの中身にマチは悲鳴を上げた。

「きゃあ!!!」

 ついに下着まで入れ始めたのだ。マチは恥ずかしくてたまらなかった。

 男の下着になんて触れないわ!しかもどれが誰のものかも分からない!恥ずかしくて聞く事も出来ない。男兄弟のいないマチは色とりどりのボクサーパンツやトランクスを見て卒倒しそうだった。

 もう恥かしくて涙が出そう!

 しかし、いつまでも途方に暮れていても仕方がない。マチは見ないようにしてランドリーに突っ込んだ。そして、乾燥機にタイマーをセットし、入りきらなかったユニフォームを室内に綺麗に干すといつものように公園を通って帰宅した。

 今日はリンクシフトの関係で珍しく一軍の練習が早く終わった。まだほんの少し空が明るい。これももうすぐ真っ暗になるんだろうか。すっかり冬になっている。

 マチは公園を歩きながらやたらと寒い事に気が付いた。すっかり冬なのにマチはついつい薄着だった。今も制服のブラウスにベストのまま移動していた。もうセーターに切り替えなくてはいけない。カナダ人に限らず欧米人はアジア人より平均体温が高い。日本人は37度を超えれば高熱と診断されるのに、カナダ人にはこれが平熱だった。どうりで寒いのに半袖の人が多い訳である。

 マチは川の上の橋に差しかかって下を見て驚いた。川が凍っていた。川が凍るなんて物凄い事の様に感じられて感動した。

 きっと朝から凍っていたのにその時は違う事を考えていて気が付かなかったんだわ。

 動きの止まった川をよく見ようとマチは興奮して橋のヘリから顔を出して下を覗き込んだ。その瞬間だった。チャリン!と氷の上に何かが落ちる音がした。


 しまった!後悔しても遅かった。身を乗り出した時に鞄の隙間からアリーナの部室の鍵を川の上に落としてしまった。

「どうしよう!よりによってあの鍵を!」

 マチは慌てふためいて手に汗をかき、あっちへ行ったりこっちへ行ったりした。

 部室のカギを川に落としただなんてマネージャーにあるまじき行為だわ!明日、鍵を開けられなかったりしたら部員達に叱られてしまう。あのエイチが黙っていないわ。ああ!ダメ、絶対に鍵を取らなきゃ!

 マチはSが悲しい顔をするのを想像して気合を入れた。

「絶対に取らなきゃ!」


 マチは川の岸に回り土手を降りた。川に続く地面は大分湿っていて泥が多かった。滑りやすい地面を慎重に降りた。ぬるっとしたものがマチの足の裏を捉えバランスを崩した。あっと言う間にマチは泥の上に横倒しになった。べっとりとした泥が制服に付いてひどい様相になってしまった。これが朝じゃなくて良かった。と思いながらマチは急いで立ち上がった。

 問題は泥なんかじゃないわ。氷の上に落ちたあの鍵を取り戻さないと。

 一歩川に足を踏み入れた。ピリッと言う音と共にガラスにひびが入るのと同じ感覚で氷が裂けた。氷が薄い。そしてもう一歩マチは足を踏み入れた。次に足を乗せた箇所は意外と硬かった。もう一歩進む。大丈夫そうだ。さらにもう一歩進んだ。もう一歩、更に一歩、鍵へ近づく。何ともなかった。

「随分下の方まで凍っているんだわ!」

 マチは興奮と恐怖で眉をしかめて息を殺し、慎重に鍵のあるところまで来た。そして静かに手を伸ばして鍵を取った。

「やったわ!」マチは振り向いて岸に急いで戻ろうとした。その瞬間だった。

 グシャ!っと醜い音が鳴りマチは悲鳴と共に川の中に落ちた。

「きゃああっ!」

 そしてすぐに悲鳴を失った。息を呑む程の冷たさだった。氷の中の水はマチの心臓を突き刺した。あまりの冷たさに声を完全に失った。

「ひっ・・・・・・!」

 必死に残っている周りの氷にしがみついてこれ以上中に引き込まれないようにもがいた。亀裂が小さかったのが幸いし、流されずに済んでいる。しかし肩で留まってそれより下の身体は全て氷水の中につかっていた。もがいて重くなった下半身はマチの力では持ち上げる事が出来ず、外に這い出す事が出来なかった。

 助けて!死んでしまうわ!

 冷たい!流される!

 溺れて死ぬんだわ!

 

 急速に体温を奪われ、凍りつく身体を意識してマチは完全にパニックに陥った。もう冷静な判断など出来なかった。一人でもがき続けて力が抜けて来た。

 誰か!と叫んだところでこんなに遅い時間に公園を散歩している人なんていない。マチはかすむ目で岸の方を見た。すると、意外なことにそこには一人の男が立っていた。

「!」

 マチは神に感謝した。うれしくなって助けてと叫ぼうとしたその時だった。佇む男の顔が見えた。薄れゆく朦朧とした頭で思った。

 神は私を助けないつもりだわ!

 助けをよこしたのではなく、悪魔をよこしたからだった。

 そこに居たのはエイチだった。





 彼がマチを助けるはずが無かった。

 しかしパニックで頭が冷静に働かないマチはそこにいるのがエイチだと分かっていても助けを求めずにはいられない。エイチに向かって

「っ・・・・助けて!」とかすれる声で言った。

 返事はなかった。お前、何やってるんだ?と言う様な呆れた顔をしてマチを見ている。目の前で人が溺れかけているのに全く動じず、動こうともしない。

 マチは氷に浸かって両手を動かして暴れていた。

 しばらくして、エイチは氷が張った川の上を何の躊躇もなくそのまままっすぐマチに向かって歩いて来た。そしておもむろにマチの肩を両手で掴むと、いとも簡単に氷の穴からマチを引っ張り出した。

 マチは氷の上に引き上げられてからも興奮状態でカチカチと震える口びるでいつまでも「助けて!助けて!」とエイチに繰り返していた。

 濡れた髪の毛が首にまとわりつき服は全身びちょびちょで手も足も真っ白だった。

 そして混乱したマチはエイチの腕に掴みかかって

「私、もう死ぬのね、死ぬんだわ!身体が冷たくて・・・息が苦しい・・・・」

 とわめいた。浅い呼吸であえぐマチにエイチは無表情に言った。

「落ちつけよ」

 まるで感情が無かった。エイチはマチを冷ややかに見ていたが、マチはそんな事にも気が付かなかった。ここに居るのがエイチなのも分かっていないようなパニックぶりだった。目の前の意地悪な敵を敵と判断出来ないほど慌てふためいていた。

 エイチは周りを簡単に見回した。もちろん誰もいなかった。彼は急に面白い事を思いついた。一人、ニヤリと笑った。マチはそれにも気が付かなかった。

 マチは身体が凍るように冷たく立ちあがれず、いつまでもその場で慌てふためいていた。


 それは突然だった。

 マチの目の前が急に暗くなった。そして凍りついた真っ青な唇に、とても温かいものが重なった。エイチの唇だった。

「・・・・」

 マチは全ての動きを停止した。世界中の音が消えた様に静かになった。

 エイチは笑いもせず、平静な顔で固まるマチを見つめた。

「正気に戻ったか?」

 目を閉じるのを忘れたマチは硬直してその場に座り込んだ。エイチはすっと立ち上がると岸へ向かって何事もなかった様に歩いて行った。そしていつもの意地悪そうな目つきになると

「ファーストキスがSじゃなくて残念だったな?」

 そう言ってニヤッと笑った。マチは呼吸ができなかった。

 エイチは橋へ戻ると座り込むマチに上から言った。

「こんな浅い川でおぼれてる奴なんて見た事ない。本当にお前バカだな」

 と言ってどこかへジョギングしに行ってしまった。

 

 茫然自失で固まるマチはゆっくりと川を見た。そしてエイチが歩いて来た氷の道がエイチの体重で全部割れているのを見た。今、手をついているところも氷が割れている。川の底の土がマチの手を支えていた。手首のところに水が流れている。マチは自分が落ちた穴を見た。少し深くなっているだけだった。足をあの時もっと真下に伸ばしていれば全身浸かるなんて事はあり得ない程低い水深だった。周りの氷にしがみついて抵抗したせいで身体が無意味に浮き上がり、張った氷に一番近いところで浮いてもがいていただけだったのだ。

 しかし、今のマチにはそんなことはどうでもよかった。あんなに震えていたのに今はぴたりと震えが止まっている。

 マチは立ちあがり、もつれる足を奮い立たせて猛ダッシュで寮へ帰った。

 扉を閉めて鍵を掛けた。そしてベットへ行って顔を思いっきり布団に付けて大きな声で泣いた。涙が止まらなかった。

 夜中に部屋に侵入されて首を絞められた時より、ジャスパーに半裸にされてロッカーに閉じ込められた時より、大勢の生徒の前でけなされて笑い物になった時より何百倍も傷ついた。

 男の人と付き合った事なんて無い。手もつないだ事もないのに。ファーストキスがまだだと馬鹿にされてわざとされた。大切なファーストキスがあんな悪魔の様な男に奪われてしまった。悲しくて悲しくてもう涙が止まらなかった。悔しい気持ちと悲しい気持ちで胸が張り裂けそうだった。

 マチは一晩中、着替える事も忘れてベットで泣いた。



 


 翌朝、泥だらけの制服をもう一組の制服に着替え、よくもこんなに暗い顔ができると言うほど暗い顔でロアンナの前に登校した。

「マチ!顔が真っ青よ?大丈夫?」

 ロアンナはびっくりして開口一番そう言った。

 今日もバンクーバーの冬の日差しはガラスの窓から温かく教室に降り注いでいた。いつもと変わらない。違うのは真っ暗闇に突き落とされたマチの心だけだった。

 あの時、いっそのこと川でおぼれ死ねば良かったかもしれない。そうすればあんなひどい辱めは受けなかった。大嫌いな男にキスされた。考えただけで鳥肌がたった。

「ロアンナ・・・大丈夫よ」マチは小さな声でそう答えた。

 しかし、マチの顔色が悪いのは昨日のファーストキスのせいだけでは無かった。

 あの後、マチはベットで夜通し泣きはらした。あれだけ身体が冷えた後なのに何もしないでそのままずっとしゃがんでいたのだ。体調を崩さないはずは無かった。

 身体が寒い・・・ざわざわする。心が冷え切っちゃった証拠ね。

 一時間目が終了すると、断るマチを強引にロアンナが保健室に連れて行った。

「顔色が尋常じゃないわ。これから高熱が出そうよ。風邪をひいちゃったのかしら?」

 マチはだんだん耳が遠くなるのを感じた。顔が高熱で圧迫され、耳の中が腫れて聞き取りずらくなる。これは重い症状が出そうだとぼーっとする頭で思った。

 昨日のあの恥ずかしい出来事はロアンナにも話せない。悔しさがにじみ出てきて再び目に涙が溢れた。


 保健室にいたドクターが眼鏡のすき間からマチを見て少し笑うと

「またお前か。身体が弱いのか?」と聞いた。

 マチは日本に居た頃、風邪もほとんどひかない優良健康児だった。小学校の五年生と六年生は皆勤賞を受賞した。

 しかし、今はあの頃と周りの環境が違う。小さなマチには厳しすぎる劣悪な環境だった。

 ドクターに指示されてマチは午後までベットで眠る事にした。ここのベットにお世話になるのは二回目だった。マチは白い清潔なシーツがひいてあるベットに横になるとすぐに吸い込まれるかのように眠った。

 身体も心もそろそろ限界を迎えている。マチは自分がこれ以上マネージャーを続ける事に挫折しそうだった。Sと同じ部活にはいたい。でも、もうエイチと一秒たりとも関わりたくない。逃げ出したい。あんな男はもともと居なかったと思いたかった。

お昼まで眠るはずが、すっかり夕方まで眠ってしまった。体中にぐっしょり汗をかいて目が覚めた。丁度良いタイミングでロアンナが迎えに来てくれた。マチの鞄を預かってくれていて、担任の教師にも事情を全て話してくれたとの事だった。

 ロアンナがマチをベットから起こして立たせてくれた。まだ少し頭がぼーっとしたがさっきよりは体力が回復した。今日はすぐにでも寮に帰って休養すべきだった。

 マチとロアンナが保健室を出ようと支度を整えた時だった。運悪くそこへメインチームの三人が入って来た。

 シルトとモリエル、そしてあのエイチだった。

 エイチはすぐに二人を見つけた。目に入って来たロアンナと一緒にいるマチを見てニタっと笑った。ロアンナは間近で見るエイチにひるんで言葉を失った。マチは高熱で頭がぼーっとしていたが、エイチが昨日の事をおもしろがっているのがはっきり分かった。

 彼の顔を一瞬見ただけで、今まで感じた事の無い憎悪を感じた。

 マチとロアンナは入り口を大男達にふさがれ、身動きが取れなかった。いつもは広いと感じる保 健室も彼等三人がいると狭く感じられる。圧迫感がある。

 モリエルとシルトは、マチとロアンナの事は気にする事なく話していた。

「ドクター、いないな。せっかくシルトが帰って来たって言いに来たのに」

「また来ようぜ」二人がそう話して外へ出ようと向きを変えた。

 エイチは他の二人の話など全く聞いていなかった。

 気に障る獲物が目の前に二匹いるのだ。存在自体が背中を逆なでする。気に食わない女共だ。冷たい視線がロアンナとマチに注がれていた。エイチはロアンナに向かって突然暴言を吐いた。

「おい、何見てるんだブタ。近寄るな。早く出て行けよ。暑苦しい」

「!」マチは高熱の頭でびっくりした。

 な、なんてひどい事を言うの!

「ロアンナに失礼よ!」

 マチは心底頭に来て思わずエイチに言い返した。

 しかし頭に来ていたのはマチだけでは無かった。

「何だと?このクソ女!俺に向かって何を言っているんだ?」エイチの目が完全に戦闘モードに切り替わった。からかっているだけじゃない、攻撃色になる。

「見苦しい物を俺の前に見せるんじゃない!」

 再びロアンナの顔が凍りついた。

「本当の事だ何が悪い?」

「私に何を言おうと構わないけどロアンナにはやめて!」

 マチはきっぱり言った。熱があったのが幸いして恐怖心が大分麻痺している。

「お前はブスでそいつはデブだ。悔しかったら治してみろ」

「やめろよエイチ、行こうぜ」モリエルが溜息をついて言い、シルトがエイチの腕をつかんで促した。

 シルトはエイチの表情を見て、こいつ、本当にこの子が嫌いなんだな。と思った。

しかしエイチは簡単にはやめなかった。

「脂肪吸引してもらったらどうだ?」どんどん皮肉がエスカレートする。

 ロアンナは既に泣いていた。ぷっくりとしたピンク色の頬を大粒の涙がこぼれた。そして今度は矛先がマチへ向いた。

「お前もその面をどうにかしたらどうだ?整形しろよ。手術代がずいぶん掛かるんだろうな?治す場所が多すぎる」

 シルトは呆れてエイチの腕を引っ張って歩かせようとした。しかしエイチは動かなかった。

 更に意地悪な顔になるとマチの事を上から睨み、目を細めて聞いた。

「その、気持ち悪い程長い黒髪を売って手術代の足しにでもしたらどうだ?」

 マチは男の目をまっすぐ見つめた。しばらく凝視した。そして昨日の事が頭をよぎった。そしてついにマチは自分の中で何かが切れる音を聞いた。いつもと違う自分が居る。私のファースト キスをせせら笑いながら奪い、親友のロアンナをこんなに傷つけて泣かせた男。

 もう、許さない。

 今日は、あの日と違ってあなたの顔もよく見えるわ。

 目の前ではっきり言ってやる!


 マチは突然、近くにあった包帯が置いてあるシルバーのカートの上にハサミを見つけると勢いよくそれを握った。

「うわぁあああ!やめろ!」それを見たシルトが叫んだ。

 そして何をするのかと思うとマチは一本に結んだ長い自分の髪を首に近いところで強く握り勢いよくハサミを入れた。そして左手に握った髪の毛の束をエイチの顔めがけて投げつけた。

 髪の束はエイチの肩に当たりバラバラと床一面に広がった。

「あなたの事は絶対許さない!」

 はっきりと言った。

「何を言われても、どんな事をされても、もうひるんだりしないわ!あなたなんて大嫌い!私に近よらないで!」

 マチは大声でエイチにそう言うと走って保健室を後にした。

 廊下で戻ってきたドクターとすれ違った。ドクターは走って通り過ぎたのがさっきまで寝込んでいたマチとは気が付かなかった。髪も短くなっていた。

「なんの騒ぎだ?俺の保健室で・・・・」

 そう言いながら床に散らばった真っ黒な髪を見てドクターはびっくりした。

 ロアンナはしゃがんで泣きじゃくり、モリエルは頭を抱え、シルトは両手で口をふさいで床の髪を何度も見ていた。

 モリエルはまずい事になった・・・と思った。これはやりすぎだった。エイチは言い過ぎた、彼女はやり過ぎた。この二人を近づけつるのは危険だ。

 モリエルはショックだった。マチが心底傷ついているように見えた。そして今回の事がSや監督に知れればどうなるか。憂鬱になった。

 エイチは何も起きなかったような顔をしてドクターを見ると、

「なんて猟奇的な女なんだ?」と無表情につぶやいた。


「あああ!もう!」

 シルトは外に出ると嘆いた。まさかこんな事になるならエイチのあの口をふさいでおけばよかったと心底後悔していた。エイチが彼女を嫌っているのなんて分かってた。

 あんなに綺麗で黒くて長い髪をなんであんな風に切っちゃうんだよ!

 シルトは自分の長い髪を自慢にしていた。マチの髪の事も本当に綺麗だと思っていた。色素の薄い自分のブロンドに比べて光が当たるとこげ茶に光輝くとても綺麗で深い色の良い髪だと思っていた。

「エイチへの腹いせに切っちゃうなんて!」

 シルトは自分がやったわけでは無かったがあまりの出来ごとにヘコんだ。




 

 一方マチは一気にアドレナリンでも注射されたかのようにシャキッとしていた。頭がなんだか軽かった。大切に伸ばしてきた髪をほとんど切ってしまったのだから実際に軽くなっていた。

 肩のあたりでばさばさと散らかる髪をどうにかしなくてはならない。マチは街のヘアサロンへ向かうためバスに乗った。誰かが自分を見ていても気にしなかった。ヘアサロンに着くと驚く美容師に切り揃えてもらえるように頼んだ。超ロングだったマチの髪は肩に届くか届かないかのボブに変わった。

 そして、帰り道、先日作ったコンタクトレンズを店で受け取った。

 眼鏡も無くなった。長い髪も切った。マチは今までの古い自分を捨て去ったかの様な錯覚に陥った。

 違う自分になった。もうエイチになんて臆さない。怖がりなんてしないわ。私がイジイジして臆病だからキスをされたり、馬鹿にされたりするんだわ。

 私はあの男と戦う!

 マチは恐い顔をして再びバスに乗り、寮へ戻った。

 着いた時、既に夜だった。今日は部活にも行かなかった。モリエルが全てを知っているからそれで良かった。明日、部活に行ってSに話してマネージャーを辞める。 

 一ヶ月ともたなかったマネージャー、と皆に馬鹿にされても構わない。

 もうすぐ女子寮も出来る。部員ともエイチともイーストケースとも関係ない生活環境を手に入れて新しいまともな高校生活を送りたい。マチは硬く決心していた。

 階段を使うのももう止める。EVで八階へ向かった。不思議と怖くなかった。扉が開いて目の前にジョギングへ出かけようとするエイチに出くわした。

 彼と目が合った。エイチの目が一瞬マチの切り揃えられた髪の毛を見たのが分かった。

二人は無言ですれ違い、一人はEVを降り、一人はEVに乗った。

 エイチは片方の眉を上げてシラッとした表情で扉を閉めた。

 マチは振り向きもせずまっすぐ自分の部屋に帰った。

 戦いは始まっていた。

 私はエイチに絶対負けない。絶対に許さない!



 ジョギングに出かけエイチは公園を横切り、北へ向かい住宅街がある西側を通り南の海へ抜けるコースをハイペースで走っていた。エイチはジョギングが好きだった。ホッケーの練習が終わっても、身体をもう少し動かしたいと思う事があった。仲間は皆、信じられない!と驚いたが、エイチは朝でも夜でも時間と体力がある時はいつでもジョギングへ出かけた。早いペースで走ると頭が整理される。そして暫くすると無心になれた。

 エイチはマチの短くなった髪の毛を見ても何とも思わなかった。髪を投げつけられたのはショッキングな出来事だったが、別に傷ついて反省するような男ではなかった。

エキセントリックな行為で呆れた。この俺に髪を投げつけるんなんて何を考えているんだあの馬鹿。

 エイチは自分がいつものペースよりだいぶ早く走っている事に気が付いていなかった。

ずいぶん長い時間走ったのに何故か無心になれなかった。何度も繰り返し今日の出来事を考えていた。

 シルトが俺に「女が大切な髪を切って投げつけるなんて尋常じゃない!謝れよ!」と叫んでいた。謝る?何で俺が?意味が分からない。

 知らない内に、いつもは来ない場所へ走って来てしまった。

街灯が少ない暗い地区だった。すっかり夜も遅くなり人気も無い。交通量も少ない海沿いの線路付近だった。沢山の貨物車が並ぶ寂しい場所に人影が見えた。暗がりの中、一人、誰かが立っている。

 エイチは走るのをやめた。霧のような雨が降り始めていた。

 一人だと思っていたのに二人、三人と人影が貨物車の間から増えた。全部で六人の男が珍しい男の来訪を遠くから観察していた。タバコの火がオレンジに光る。

 何でも無い日だったらエイチはそのままジョギングをして通り過ぎていた。ところが、今日は立ち止った。めんどくさい事になると分かっていたのに。

 一人の男が貨物車の脇から前に出て来た。暗闇から月明かりに浮かびあがったその男はまだ若かった。髪の毛を全部レッドに染め、身長は170センチ、もう冬でだいぶ寒いのに半袖のチェックのシャツをはおり、中には黒いTシャツを着ている。だぶだぶのジーンズをはいてスニーカーの出立ち。左の二の腕には月桂樹の王冠を模したタトゥーがぐるりと一周入っていた。

 見るからに性質の悪そうな男だった。地元のどこかの高校生で、仲間とつるむ事しか能が無いチンピラだった。彼らは徒党を組んで生活してる。自分より低学年の生徒から金を巻き上げたり、暴力沙汰で学校を退学になったりそんな奴らの縄張りにエイチは知らずに近づいたのだ。

 赤い髪の男は煙草を咥えながら手にはアーミーナイフを回して遊んでいた。


 六人がじわじわとエイチの傍に群がった。そして彼らは近づけば近づくほど目の前に居る男が思いのほかデカいのに気が付いた。

 エイチはジョギング用のパーカーに身を包んでいた。頭から被ったフードから覗くあごのラインで端正な顔立ちなのが分かった。しかし目が見えなかった。そのせいで、この男がどれほど凶暴な目つきをしているのか誰も気が付かなかった。既に瞳孔が小さくなり身体は燃えるように熱くなっていた。既に戦闘モードに切り替わっている。

 この俺から金でも巻き上げようと思ってるのか?今日の俺はいつも以上にイライラいしている。エイチは不気味に口角を上げて笑った。

 彼らは人数の多さでエイチに勝てると確信していた。こっちは6人もいるんだからとニタニタしながら仲間同士目配せしながら近づいてきた。

「おい、ジョギング野郎、持ってるものを全部出しな」

 ジョギング中の男から奪い取れるものなんてたかが知れている。彼らの目的は金では無かった。縄張りに侵入した者への報復。

 エイチはその場から動かなかった。それが、彼らに誤解を生んだ。怯えて動けなくなっていると。

「怖気づいて動けなくなったか?」

 一番近くまで来た一人の男がエイチの顔を覗こうと正面に顔を出したその時だった。

 男はエイチに思いっきり殴られた。右ストレートが顎にめり込みその男は簡単に気絶して地面に動かなくなった。完全なKOだった。エイチは確実に相手をノックダウンさせる術を心得ている。それに加え日々の鍛錬で筋肉が仕上がっている。全てホッケーの為だったが、それ以外の使い道もある。仲間が簡単に倒されたのを見て少し怯んだ男達はナイフをエイチに突きつけた。エイチは顔色も変えず長い脚を振り上げて男が持つナイフを簡単に蹴り落とすと、

「運が悪かったな。俺は今猛烈にイライラしてるんだ!」

 と低い声で言ってフードを取った。

 次の瞬間、近づく男を肘で殴った。鼻血が勢いよく宙を舞う。男達の叫び声と悲鳴が次々に聞こえ、数秒後、全員が血だらけで地面に顔を付けて呻きながら喘いでいた。

 エイチは彼らを全滅させたのにこのイライラが収まる事がなく更にムカムカした。大した手ごたえもない。顔に付いた相手の血を手の甲でゆっくりぬぐう姿はさながら悪魔のようだった。ただ、今晩運が悪かったのは急ブレーキですぐそこの道路に停まった車から、メインの教務課の主任が出て来た事だった。ダウンタウンを徘徊してる生徒を抜き打ちで見つける為にパトロールに出発してすぐ、まさかあのH・ハンドクルーが他校の生徒をコテンパンにやっつけているのに遭遇するなんて考えられなかった。

「何て事をしたんだ!」主任は血相を変えて走って来た。


 この件はまずい事になった。

 6人は直ぐに救急車で運ばれ、警察沙汰になり、エイチは夜中に教務課へ連行されると始末書を書かされた。この事件は相手の高校が絡んでいただけに学長にまで知られる事になった。

それは簡単に言うと『退学』を意味していた。


 真夜中、学長のデスクから監督の自宅に電話が入り学長室に呼び出された。

 そしてそこには教務課の主任、そしてドクターも呼び出されていた。監督はそろった顔ぶれを見て部員の一人に何かまずい事が起きたのだとすぐに分かった。そしてそれは恐らくあの男の事に違いないと確信した。

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