第20話 『無断欠席』

 朝の練習に行き、授業を受けて、放課後また練習に行く。いつもの日常が始まった。

カナダに来て一ヶ月半、そろそろ普通の子だったらホームシックになって母国へ帰りたいと思う頃だった。しかし、マチにはそんな事を考える余裕すらなかった。

 カナダに到着したその日に、エイチから寮を出て行けと言われ、3日後そうしなかったせいで真夜中に侵入されて首を絞め上げられた。マネージャー試験があり、ジャスパーに妬まれてエイチのロッカーに半裸で閉じ込められた。色々な経緯でなんとか合格するも毎日ものすごく忙しい。放課後はモリエルから指導を受けてマネージャーの仕事を猛スピードで覚える毎日だった。 

 そんな中、最悪な事にあのエイチとMRを組まされてしまった。

 故郷を懐かしんでいる余裕など一秒も無い。当然ホームシックなどにはかからなかった。

 目の前にある事を次々とこなしていかなくてはならない。マチは休まずに走り続けた。


 マチは休み時間もしばしばリンクに出かけ、練習用のスティックの数をチェックしたり、リンクシフトの件でコーチを訪ねたりでいつも大忙しだった。

 はっきり言って授業など受けている暇もない程だった。マネジャーの仕事でモリエルに迷惑をかけたくなかったのはもちろんの事、一番はSにいつの日か自分の存在価値を認めてもらえるようになりたいと強く願い努力していた。そんな必死のマチの姿を心配そうに優しく応援してくれる瞳があった。ロアンナだった。マチの唯一の親友で優しいロアンナ。

彼女はクラスで静かにしていてあまり目立たない。ロアンナにとってもマチは唯一の親友だった。親友があのメインチームのマネージャーになり、一生懸命働いている姿はロアンナにとってはとても誇らしい事だった。メインチームは北米一有名なチーム。今までロアンナにとっては縁遠い存在だった。あの部員に関わるなんてとんでもない。まして、Sや、あのエイチと話す事なんて想像も出来ない。むしろ恐ろしい事だった。それを親友のマチがやってのけているのが本当にすごい。ロアンナはマチに関心していた。遠くはるか彼方からやってきた小さく華奢な真面目な女の子が、メインチームのマネージャー、そして事もあろうにエイチとMRだなんて。何度考えても溜息が出てしまう。

 ロアンナは、休み時間にリンク行き慌てて戻って来て、チャイムに間に合うように着席したマチに先に配られていたプリントを渡した。

「ロアンナ、いつもありがとう。最近やる事が多くて放課後だけじゃ間に合わないの。私ってトロイから人より頑張らなきゃ」

「マチは毎日本当に頑張っているわ。偉いわ。私、あなたが親友でいてくれる事、誇りに思ってるから」

 ロアンナはいつもの優しい笑顔をマチに向けてくれた。

 数学の授業が始まりロアンナもマチもおしゃべりを止めた。授業は真面目に受けなくてはならない。単位が取れなければ進級出来ない。


 ロアンナが優しい目線を向けてくれる一方、校内には違う目線でマチを捉えている者達がいた。あのメインチームのマネージャー。華やかな世界。彼女にはふさわしくない。Sやエイチ、他の部員に近づくのが許せない。羨ましい、妬ましい存在。ずるいわ。あの子だけ。

 マチは国語の授業を終えると次の授業がロアンナと違うので、手を振って別れた。

「それじゃあ、また明日ね!」

 もう最後の授業なので夕方が近づいている。放課後が近づくにつれ、気が重い。

 今日はリンクに行ったらあの大嫌いなエイチに新しく届いたスティックを渡さねばならなかった。マネージャー始まって以来の最悪の仕事が待っていた。エイチはスティックをよく折った。 モリエルから引き継いだ帳簿の履歴を見ると誰よりも多く発注されている。理由がなんとなく想像できる。

 どうせ怒りに任せてスティックを壁に叩きつけるからだわ。私にマネージャー試験を受けろと凄んだ時にもその場で折って切っ先を私の喉に突きつけたものね。

長い廊下を抜けて、一階へ階段で下り、外の渡り廊下を通って理科室塔へ向かう途中、トイレがあったので立ち寄った。辺鄙なところにあるトイレなので誰もいず静かでゆっくり座り考えた。

 マチはエイチの事を考えた。この後、部活でエイチに話しかけるのが心底嫌だった。寮の廊下でも絶対会わないように階段で行き来しているし、マネージャーの日常業務もエイチにだけは出来るだけ近寄らないように、エイチの物にはなるべく触れないように、絶対に目が合わないように気配を消して来た。初めてかもしれない。部活中にあの男に話しかけるなんて。マチは考えただけでげっそりした。トイレに座ってもマチはあの男とのMRの事で頭が一杯だった。ここのところ、エイチは様々な事をやらかしてくれた。

 図書館脇の植木が無残に真っ二つに縦に割れていた。どうやったらそんな事が出来るのかむしろ不思議だと用務員が言っていた。昨日は国語の授業をさぼり、部室の天窓をスティックで割ったらしい。エイチがこれらの罪を起こすと、すぐさまMRが適応される。

 毎朝、マチは教務課へ立ち寄る事を義務付けられていた。

 そこで、MRのタグを見せて教務課の職員ダリルに端末をチェックしてもらう。

 エイチの不正が届いている度にオレンジのタグを渡されて枚数分補講やらボランティアに参加しなくてはならない。今日は3枚も渡された。内容は毎回違う。

 一体どうすればこんなに悪い事が出来るのだろう。真面目なマチには理解することが出来なかった。この授業が終わったら3枚分の補講を受けなくてはいけない。

 殆どの補講は一回が1時間から1時間半なので、3枚もあると単純計算して終了時間が十九時をまわってしまう。遅すぎると教師が自分の裁量で翌日にまわすこともあった。

 しかし、翌日にまわされてしまえば次の日にプラスされるのでどんどん在庫が増えてしまう。マチは今後の事が思いやられてどうすればいいのか思案していた。ついつい次の授業がある教室への移動も遅れた。


 マチが理科室塔へ向かう外廊下のトイレに入ったのを遠くからじっと見ている目があった。こっそり足音を忍ばせて、ゆっくりと近づいた。

 彼女は一人、個室に入った。ずっと機会を伺っていた。この面白い機会を。

 男達二人はこみ上げる笑いを抑えるのに必死だった。女子トイレの入り口に立ち、辺りを見回す。誰も見ていない。

今だ!

 二人は目配せをしてマチが入った個室目がけて突進した。そして手に持っていた物を思いっきり個室の中に投げ入れた。

「きゃあああああ!」

 マチの悲鳴が聞こえた。金属音が激しく床のタイルに叩きつけられて響いた。

「あははははは!」

 笑いが止まらない。男たちは大きな声で笑いながらトイレから逃げた。そして近くの茂みにしゃがんで隠れた。

「おい、良いことを考えたぞ!」

 一人の男が、もう一人の男の腕を掴んで引き戻し、もう一つの悪だくみを説明した。


 放心状態のマチが天井から投げ入れられた物がたっぷりインクが入ったペンキの缶だったのを確認できたのはずいぶん時間が経ってからだった。

 ペンキはマチの頭に命中して全身にまんべんなく掛かった。すごいインクの匂いだった。しかも色は「赤」。マチは久々にされた「イタズラ」にただただ驚くしかなかった。毎回そうだが、悲しみは後からやってくる。今はあまりの驚きに声も出ない。

 どうしたらいいの?

 このままでは外に出れない。まずはどうにか少しだけでも拭きとらなきゃ・・・

 マチは慌ててトイレットペーパーで顔を拭いた。鏡が無いからよくわからないが、きっとすごい様相になっているに違いない。

 このままでは絶対外に出られない。こんな姿を見られたら指を差されて笑われてしまう。

 学校の伝説になっちゃうわ!肥溜めに落とされたジャスパーの様に。

 マチは制服の上着に付いたインクを落とそうと一旦服を脱ぎ、扉に掛けた。

 そして持っていた教科書を先に拭いた。教科書は学校から貸し出されていて、汚したり破いたりすれば罰則がある。早く拭きとらなければ大変な事になってしまう。MRが適応されたらあの男に殺されてしまうわ!

 マチが便器の蓋の上で必死に拭き取っていると、ガタン!と扉が揺れる音がした。

急いで振り向いたが後の祭りだった。掛けていた服が上から取られてしまったのだ。

「返して!」

 マチが叫んだ時には二人組の男の笑い声が遠くへ聞こえて行くところだった。もう、完全にトイレから出れなくなってしまった。涙も出ない。声も出ない。服が無い。ひたすら途方に暮れるだけだった。

「どうしよう・・」





 最後の授業の鐘が鳴り部活の時間になった。空はだいぶうす暗く間もなくやってくる冬を予感させた。夕方は寒い風が吹いた。リンクのロッカーには次々と部員が集まり練習の支度を始める。

 練習と言えども激しいスポーツである為、プロテクターを全身に装着する。そしてその上にユニフォームを着用するので時間がかかる。エイチは到着すると着替える前にモリエルを探した。新しいメーカーのスティックがそろそろ届いている頃だった。

 モリエルはマチが発注して届いた物も彼女が管理していると答えた。エイチはいきなり機嫌が悪くなった。

「なんであのクソ女が、俺のスティックを管理してるんだよ」

 モリエルはエイチの機嫌が悪くなったのを見て溜息をつくと

「彼女がマネージャーだからだ。俺に当たらず彼女に直接文句言えよ」

 エイチはモリエルを冷ややかに睨むと、

「お前があの女の教育係だろ?練習にスティックを間に合わせないなんて指導が足りないからだ。自分で探すからいい」

 とモリエルを押しのけて去っていった。

 モリエルは溜息をついてリンクへ向かった。

 それにしてもなんで今日に限って到着が遅いんだ?彼女らしくないな。まぁ、今日も補講が何時間もあるのかもな。モリエルは時計を見ながら思った。

 モリエルはマチが到着していない事をさほど気にもしなかった。後でスティックの事は話せばいい。まずは練習に専念しないと。今日は監督が出張から戻って来てる。

 モリエルは背筋を伸ばすとこれから始まる厳しい特訓に気合を入れた。


「おい、お前彼女とMRだろ?」

 恐いもの知らずのライダーがエイチに言った。

「エイチが生活態度を改めないから彼女が毎日毎日補講で洗濯しに来れないじゃないか!靴下が足りない!」

 エイチは呆れて、

「なんでそれが俺のせいなんだよ?」とライダーを睨んだ。そして、

「あの女、マネージャーの仕事をさぼりやがって、首を絞めてやる!」と叫び、モリエルに言った。

「おい!マチはどこだ!」エイチの声は大きい。

「それが今日はまだ見かけてないんだ。いつもは補講の前に一度ここに来て、色々やってから行ってるのに。お前が手に負えない程補講を受けさせてるんじゃないのか?」

 モリエルもライダーに続けてエイチを責めた。

「俺は何もしてな・・・」

 ・・・くもない。思い当たる節が最低でも三つある。3時間の補講?すぐに止めさせて洗濯を優先させよう。補講なんて土曜日とか休みの日に学校へ来てまとめて受ければいい。洗濯をさぼるなんて許せない。





 今日の練習は七時に終わった。かなり早い方だった。出張から戻ったばかりの監督は用事があるとかでいつもより早めの解散になった。全員でシャワーを浴びてそれぞれ好きに解散した。エイチはリンクを出る前にランドリーへ立ち寄った。

 さっきから探しているのにあの女がいない。小さいけど目障りな存在だからかいつもならすぐ見つけられる。それなのにどこにもいない。

 エイチは大股で校舎の方へ戻り、普段は近づかない教務課の窓を叩いた。

 受付の職員のダリルは、あのハンドクルーがそこに立っている事にびっくりした。

 今日は一人で残業があり、静かにコーヒーを飲みながら仕事を片付けている途中だった。教務課の窓口業務は五時で終わる。いつもなら六時にはここを出れた。今日は片付けがはかどらずもうあと五分で七時半になるところだ。ガラスの扉を横に開いてダリルは言った。

「珍しい事も起こるのね?あなたがここへ来るなんて」

 何の要件かしら?とダリルはこの目の前の端正な顔立ちで校内一目立つ派手な男に話しかけた。

「MRの事かしら?」

 この学校でエイチの事を知らない職員はいない。そしてまたエイチがMRになった事も全職員が知っていた。こんなに器物破損する生徒はメイン始まって以来なんじゃないかと思う。担任の教師は怯えてエイチを諭すのを初日に諦めた。

 『MR』は学長の提案だと言うけれど、この男には全く意味の無いものだと同僚と何度も話した。少しは責任を感じる人間にならなければ社会に出たらこの男はどうやって生きて行くのだろう。ホッケー選手になったとしてもすぐに退団させられて行く末はマフィアかテロリストか。こんなに荒くれている大男に対して監督は何であんなにか弱い感じの小さい女の子を選んだのかしら?彼女は毎日憂鬱そうな顔でMRのタグを私に見せてくる。名前はマチ・カザマ。あれでも二百倍のマネージャー試験に通ったんだから何か能力があるのよね。凄い事だわ。普通の子じゃ無いのかも。今日も札を確か三枚渡したわ。

 ダリルは瞬時にそんな事を考えながら目の前のエイチを見た。

「マチはどこで補講を受けてる?」エイチはぶっきらぼうにダリルに聞いた。

 ダリルは仕方なく端末の前に座り、

「ちょっと待って、パソコンで検索するわ」と言った。

 ダリルは中年の職員でメインに転職してきて六年だった。そろそろベテランの域に入ってきた。数校を渡り歩き今はメインで落ち着いている。今までに何千、何万人の生徒を見て来たがここまでオーラのある生徒を見たことが無い。

 目鼻立ちがはっきりしていて、瞳に曇りが無くとても美しい。手足が長く、スリムで背が高く高校生には全然見えない大人びた青年である。しかも、このカナダでメインの一軍、ホッケーが出来てこのハンサムさ。中年の私でさえ、こんなに近くで見ると思わず見とれてしまうほどね。

 ダリルはマチの項目を探した。

「あら、おかしいわ。一番初めの補講も、次の回の補講も、六時からの最後の補講も全部出てない。その上、四時限目の生物の授業にも『無断欠席』となっているわ」

「あの女!サボりやがって!」

 エイチは頭に一気に血が上った。俺を試合に出さない為にわざとやったのか!

 そう思ったが、ふと『違う』と感じた。

 あの女にそんな度胸があるか?いつもは立ち寄る部活もなぜ来ない?俺にスティックを渡したくないからか?いや違う。必ずいつか渡す必要があるのに今日だけ休んでも意味が無い。 

 エイチは彼女の真面目な性格と、無断欠席する確率を頭の中で計算した。

 無断欠席?彼女はそんな事が平気でできる女だろうか?いや、出来無い。そんな事をすれば大好きなSに咎められて、それだけで泣き出しそうだ。じゃあなぜ来ない?いや来れないのか?何か来れない事を言えない状況?具合が悪くなったのか?

 エイチの頭に、寮に帰って寝てるんだろ。という安易な回答が浮かんだ。エイチはマチを探していると言うよりも自分の新しいスティックを探しているだけだった。

 あの女がどこかに持ってる。仕方ない。明日クソミソ言って二度と遅れないように怒鳴ってやる。

 エイチは教務課を後にして長い足で歩き出した。

「・・・・」

 探すのを諦めようとしたが、どこかすっきりしなかった。なぜか嫌な予感がする。

 穏やかで目立たず、正しい事をしようとする彼女が電話連絡一本も入れず大胆にも補講を全部無断で欠席し、おまけに最後の授業もサボるなんて本当に出来るだろうか?エイチは校舎を離れた。

 目が彼女を探した。もうすぐ門が閉まる校内に人がまばらになっている。部活帰りの学生が閉まりかけた門の間から少しずつ出て行く姿を遠くに見た。どこにいる?

 エイチはイーストケースの管理人室に電話をするとマチのIDが通った時間を聞いた。

 朝出て行ったきり、まだ寮へは戻っていない事が分かった。その間にもエイチの足はドクターのいる保健室へ向かっていた。扉を入るなりドクターに聞いた。

「マチが来たか?」目がベットを見た。ベットには誰も寝ていなかった。

「マチ?誰だ?」ドクターが物珍しい者でも見るようにエイチを見る。

「子供みたいに背が小さい黒い髪をしている不細工な女の事だ」

「ああ!この前お前に髪を投げつけたヤツか!」

 ドクターは、そう言えばMRをこいつと組まされたんだったな。世界一不幸な女だ。と思い出した。

「エイチ、あんまり彼女に迷惑かけるなよ?」

 ドクターは眼鏡の中からそう言うとかすれた声で笑った。

「うるさい。俺があいつに迷惑をかけられそうなんだ。見つけたらすぐに電話しろよ?」

 エイチはドクターを鋭く睨むと出て行った。

 エイチは保健室を去り、足早に各教室を見て回り、図書館、カフェテリアへ足を運んだ。

 いない。どこにも。

 不気味だった。




 

 こんな事なら電話番号を聞いておくんだった。今までその必要性を全く感じなかった。

 あのデブも夜だから校内に居ない。エイチはリカに電話した。

 彼女は、大好きなエイチからの電話だと分かって喜んで明るい声で出た。エイチはいきなり聞いた。

「ロアンナの電話番号を誰かに聞いてすぐに教えろ」

 エイチが急いでいるのが声の調子でわかり、リカは理由を聞くのは後にした。リカは長年彼に寄り添っているのでエイチの声色で彼の機嫌が正確に計れた。今は理由を聞く時では無いようだった。

 エイチは校内全てを探し終えて、校舎の外だったらどこへ行くのか考えた。

補講をさぼっただけなら俺への当て付けかもしれない。しかし、四時間目の授業をさぼっているのが腑に落ちなかった。

 何かおかしい。いや・・・・完全に何かに巻き込まれたんだ。

 立ち止った廊下の先にトイレのマークがなんとなく目に入った。

「まさか!」

 エイチは一か所ずつ近くにあるトイレから見て回った。女子トイレでも遠慮なく入った。

 誰もいない。もう放課後で人が極端に少ない。もうすぐ八時になる。外は真っ暗だった。

 直ぐに四時間目が生物の授業だったと気が付いた。生物は西の理科室棟で授業がある。選択科目だ。エイチは西の理科室棟に続く外廊下に面している女子トイレに入り個室を見た。真っ暗な中一か所、扉が閉まっていた。

「おい!マチいるのか?」

 エイチはマチを呼んだ。電気をつけた。そして床を見て血の気が引いた。タイルが真っ赤だった。

「なんだこれは!」

「マチ!」

 思わず叫んだ。血か?

 トイレの中から小さい声がした。

「誰・・・エイチ?」

 エイチはドアの前に走り、戸を掴んで揺らした。

「開けろ!何をされた?生きてるのか?」

 マチはドアを揺らされて怯えると同時に、エイチを鎮めなければと考えた。

「だ、大丈夫なの。これ、血じゃないの。何かのインク・・・ペンキね」

と答えた。

 エイチは開かない扉を凝視して、「怪我はしてないのか?」と聞いた。

「そう、大丈夫。怪我はしてないの」

 それを聞いたエイチは急にこの事態にフツフツと怒りが込み上げて来た。

「マチ、いいから開けて俺に顔を見せろ」エイチの低い声が恐ろしい。

「駄目よ、いいの。私に構わず先に帰って。一人で何とかするわ」

「さがれ。蹴破る」

 マチは慌てふためいた。

「やめて!開けられないの!」マチが慌てて阻止する。

「私、裸なの!」

「何だって?」暫く沈黙が流れた。

 扉の向こうでエイチの髪が怒りで逆立っているような気がした。

 エイチはあの日のロッカーを思い出した。

「お前は、裸にされるのが特技なのか?」と呆れた様に言うと、

「早く出て来い!事情を説明しろ!」と大声で怒鳴った。

 エイチは怒ると声が大きくて凄い迫力だった。トイレの中ではその声がタイルに反響してますます身体に響いた。

 部活帰りの二人の女の子が何も知らずにトイレに入って来た。そして、エイチの姿を見て小さな悲鳴を上げた。

「きゃぁ!」

 エイチは二人を恐ろしい形相で横目に睨むと

「取り込み中だ!他へ行け!」と追い払った。

 マチは短気なエイチに出来るだけ早く説明しようと、早口で説明した。

 トイレから出ようとしたら上からインクが入った缶が落ちて来て、頭からかぶった事。洋服が真っ赤になったので脱いで拭こうと思った事、脱いだ服を扉に掛けて、教科書を拭こうと後ろを向いていたらその隙に上から服を持って行かれた事。暗くなってからどうにか目立たない様に這い出して一人で帰ろうと思ってずっと隠れていた事を説明した。

「――――――・・・」エイチの短い溜息が聞こえた。

 もしかしたら、ため息なんかじゃないかもしれない。怒りで呼吸が荒くなっているのかも。

 扉が一枚エイチと自分を隔てている事で、何とか恐れずに事情を説明出来た。目の前だったらたぶんエイチの怒りに負けていたに違いない。 

エイチは肩から斜めに掛けていた自分の鞄からTシャツを取り出すとマチに投げた。

「それを着てすぐに出ろ」とても低い声だった。

「ありがとう」マチは素直にエイチの言う通りにした。

 もう何時間も裸のままトイレに居て身体がすっかり冷え切っていた。エイチが貸してくれたTシャツがとても暖かく感じられた。

扉が開いてマチが出て来た。

 全身真っ赤に染まったマチを見て、それが血では無くインクだと分かっていてもエイチはギョッとした。そして思いっきり不機嫌な顔になると、

「何でバカにされるんだ!しっかりしろ!」マチに向かって大声で叫んだ。


 エイチはペンキだらけのマチの腕を構わず掴み、トイレから乱暴に連れ出した。引きずるようにマチをどんどん引っ張って進んだ。

「ホッケー部を馬鹿にする奴は俺が許さない!」エイチは独り言のように低くつぶやいた。

 マチはそれを聞いて怒りの矛先が自分では無く違う誰かに向かっているのを感じた。

 どこに連れて行かれるのか分からないままマチは足がもつれそうになりながらどんどん歩くエイチに追いつこうと急いだ。

 途中で、教務課のダリルが歩いて来るのが見えた。

 エイチはそれを見るとすかさず赤一色のマチを背中に隠し廊下の柱に素早く身を隠した。

そして「いや・・・」と呟くと考えを変えて、ペンキまみれのマチをこっちへ向かってくるダリルの目の前に突き出した。ダリルは血まみれのマチを見て、

「ぎゃぁああああああああ!」とこの世のものとは思えない程の悲鳴を上げた。

 そしてすぐ横にエイチが居るのを見て、彼が刺したんだと確信して狼狽した。

「だっ、誰かぁっ!」助けを呼んだ。

「早まるな。ただのペンキだ」エイチはダリルに言った。青い冷たい目が燃えるように怒りを湛えている。

「俺は犯人を許さない。お前、教務課の職員だろ?犯人を探す協力をしろ」と言った。

 ダリルはマチに掛かっているのが、ただのインクだと分かると幾分落ち着いた。

 そして、どうやらエイチがやったのでは無い事にもほっとした。

 誰かの悪質なイタズラ・・・



「被害届を書きなさい」ダリルはマチに専用の用紙を渡した。

 マチは教務課の誰もいないフロントデスクで箇条書きで書いた。手がペンキだらけなのでベトベトして上手く書けなかった。

 エイチはマチが書き終わるまでずっと真横で待っていた。教務課での手続きが終了し、ダリルと別れると、エイチが再びマチの腕を強引に掴んだ。歩くのが遅いマチにイライラするのか無言で引っ張る。エイチは、校舎を抜けてどんどん歩いた。マチがまだ行った事の無い道を通って校舎の裏に回った。

 そこは大きな駐車場だった。メインの学生は車で登校が許可されている。あちこちから優秀な生徒がメインに登校して来る。車はどこでも自由に停めて良かった。

 こんな時間だったがまだ車がまばらに残っていた。駐車場の地面に書かれた『29』のところに大きな黒い車高の高い車が停まっていた。 

 メインの高校では暗黙のルールで『29』に駐車する馬鹿な生徒はいない。

 昔、うっかり停めた生徒の車が近くの川に沈められていたと言う伝説があった。犯人は未だに検挙されていない。

 エイチは黒い大きなランドクルーザーのトランクを開けた。

「ここに乗れ」と顎で言われてマチはたじろいた。

「わ、私、歩いて帰る・・・・」

「つべこべ言うんじゃない!」

 一括されて固まった。トランクに乗るなんて・・・・

 しかし、これだけペンキまみれだと座席には座れないと自分でも納得し、頷いてトランクに乗り込んだ。あまりにも高い位置にトランクがあるので、簡単に乗れずもがいているとエイチにTシャツの背中を掴まれて乱暴に中へ放り投げられた。

 トランクの中で転んで置き上がろうとするとトランクは乱暴に直ぐに閉められた。

 マチに言い知れぬ不安が襲ったが被害届は出したしダリルにも事情が知られているのだからこのまま僻地へ連れていかれて死体のように川に投げ込まれるはずは無いと思った。

 車が発進してマチは右へ、左に転がって捕まるところも無く、完全に目を回した。

 ほどなくして車が停まりトランクが開いた。外が見えて目の前に現れた建物は、良く知っているイーストケースだった。

 マチはベトベトのペンキをエイチの車の外壁に付けないようにそっと出て、一人でトランクから地面へ飛び降りた。着地の際によろけて地面に転がった。

 その瞬間、前方で悲鳴が聞こえた。

「うわぁあああああ!」男の悲鳴だった。

 血まみれで地面に転がるマチと、その傍らに立つ悪魔の様な恐い顔のエイチを見たのはスーパーから寮へ戻って来たライダーだった。

「エイチ!ついに殺ったのか!お前はいつかやると思ってた!ああ!なんてこった!」

 ライダーは持っていた荷物を全て地面に落として両手で頭を抱えた。

「うるさい!黙れ、血じゃない。ペンキだ」

「え?」ライダーは素に戻った。

「ホッケー部の恥だ!俺は犯人を絶対に許さないからな!」

 暗がりで怒りに燃えるエイチの姿は見慣れているライダーが見ても恐かった。

 最悪の夜だ。悪魔の様なエイチとペンキまみれの女と駐車場で会うなんて。

 ついてない・・・



 翌日、犯人は意外と簡単に見つかった。目撃者が何人かいて教務課に報告があった。女子トイレから走って出て来た二人を見たとか、片手に服を持って中庭に捨てていたなどの多数報告があった。

 今しがた捨てられていた服も用務員が拾って教務課へ届けに来た。間違いなくマチの物だった。赤いペンキに染まった制服のブラウスだった。

 用務員が服に付いたペンキを見て「これはペンキじゃ無く、植物用の腐食止めだ」と話した。秋に切り落とした樹木の切り株に塗るのだと言う。切り口が腐らないように塗布する粘着性のある薬品だとダリルに説明した。だからペンキの様な明るい赤ではなく、人の血の様な赤紫をしているんだと納得した。

 様々な証言から、その日の夕方には十グレードの二人組だとい言う事が分かり、彼らはすぐに指名手配された。担任が自分の生徒の犯行を責める為に教室に急いでやって来たが、そこに彼らの姿は無かった。二人は見つかるのを恐れて逃げ出したのではなく、すでに違う場所で制裁を受けているところだった。


 校舎の裏手に大きな楓の街路樹がある。そこにロープで縛りあげられた二人は顔に当たる刷毛のおぞましい感触と目の前に居る男の恐怖と闘っていた。

 さんざん腹部と顔を殴られ下半身を満遍なく蹴られ、身体中が痛かった。

 エイチとライダーは手に腐食止めの缶を持ち、たっぷりと刷毛に付けて彼らの顔に塗っていた。

「腐りかけてる顔に、腐食止めを塗ってやってるんだ。感謝しろよ」

 そう言うエイチの口元は不気味に笑い、目は一つも笑っていなかった。

 ライダーもエイチにならって笑いながら彼らの顔に塗りたくった。

「誰にやるように命令された?早く吐かないと鼻と口を腐食止めでふさぐぞ?」

 エイチが言うと、それは本当に実行されるように聞こえた。

 エイチはなかなか吐かない男の耳を刷毛で無表情になぞった。

 まさかこんな目に遭うなんて思いもしなかった二人は恐怖で頭が真っ白だった。

 同じクラスで好意を寄せるオリビアが「マチばっかりずるいわ!」と悪口を言っているのを聞いて、マチをいじめてやろうと友人とふざけただけだった。

マチをいじめたのにホッケー部の部員がなんでこんなに怒るのか分からない。エイチだって全校生徒の前であんなに彼女を馬鹿にしてたじゃないか!

「鼻血が出てるな、小便を掛けて洗い流してやろうか?」

 エイチがそう言い、ライダーが思わず笑う。

 当の本人達は震え上がって、黙ったまま目をつぶって泣きながら固まった。

「あの女を馬鹿にするのは、俺達を馬鹿にするのと同じだ。あいつがメインのマネージャーになった事は全校生徒が知ってる。その上、むかつく事に俺とMRになった」

 エイチは手を止めなかった。腐食止めが服の中まで染みて肌にへばりついた。

「あの女が裸で外をうろついてみろ?うちのチームが馬鹿にされる。そんなのは許さない」エイチは彼らの目の前に顔を近づけた。

「クラスに戻ったら言い振らせ。マチに手を出すとこうなるって」

 エイチは目でライダーに縄を解くように言って彼らを放った。

 ライダーは今回、なんで二人が半殺しにされて病院送りにならなかったのか不思議だった。でも今、理由が分かった。泣き叫ぶ犬を放って噂を広める為に生かしておいただけだ。

 エイチは計算高く残酷だ。ライダーはつくづく感心した。

 二人は震えて泣きながら、一目散に教室に掛け戻った。


 担任のフォックスは教室に勢いよく入って来た二人の姿を見て悲鳴を上げた。

「ぎゃあああああああああああ!」

 クラス中、総立ちになり授業どころでは無くなった。

 服には血の様なインクで文字が書かれてる。はっきり正面に『29』と。

 背中には大きな『×』が書きなぐられていた。顔は真っ赤に塗りたくられて恐怖で涙を流している。そんな二人は本当に悲惨な状態だった。

 生徒は『29』の文字を見て全てを悟った。彼らはエイチにこうされたのだと。エイチの背番号を知らない生徒は居なかった。一番危険で恐ろしい番号だ。

 この事は直ぐに噂となり、校内中にあっという間に広まった。噂が広がるのと同時にペンキと言う言葉はいつの間にかどこかへ行った。文字が鼻血で書かれたと広まった。噂は時に誇張され伝わり、事実とは少し違う形で残るものだ。この噂は「エイチの血の制裁」としてメインの新しい伝説となった。

 こうして、マチをいじめる者はぐっと減った。背後にエイチが居るとなると途端に被害は少なくなった。メインでは誰もがエイチを恐れていた。

 エイチは入学して以来、暴れるだけ暴れて来た。好きなようにやりたい事をしては教務課を困らせた。しかし、今まで退学にならなかったのはエイチがメインのエースだったからだ。

 ここカナダではホッケーの支持が厚い。自分の学校が勝つか負けるかは真面目で重要な事だった。OBも近隣の住民までメインの事を愛している。勝利を期待している。カナダ人にとってホッケーは人生の一部と言っても過言では無かった。それゆえ、校内でもホッケーは重視され、あの伝統イーストケースの最上階に住む事を許されている。メインはカナダでも有名な高校だった。NHLの選手を多数輩出している名門校なのだ。あの学長もホッケー部には少々甘かった。恐い監督が管理している。何か起きても大目に見ていた。しかし、エイチは歴代に例が無い程、生活態度が悪い。今回も他校の生徒を巻き込んで喧嘩し、6人に重軽傷を負わせて病院送りにした。本来なら間違いなく退学になるところを監督がエイチの身柄を引き受けた。首の皮一枚でなんとかメインに残って居られるのを当の本人はあまり気にしていない。エイチは反省ができない。人に謝れない。行いを改められない。そんな乱暴な男だった。

 監督は考えていた。彼女に何がどこまでどう出来るのか分からない。しかし、もうこうなったらSに掛けてみよう。今は見守るしかない。あいつは怒鳴っても、叱っても、殴っても全く効かない男だ。

 何か別の方法が必要な時が来たのだ。

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