第4話 『マネージャー試験申込み』
四時半になった。校内に鐘が鳴り響き、生徒たちはそれぞれの部活に散ってゆく。マチは小さな体で、小さな心臓をどきどきさせながらゆっくりとホッケー部が練習しているアリーナへ向かった。
H・ハンドクルーはあのリンクにいるはず。二度と顔を合わせたくなくても話さないとならない。何をすればあの寮に住むことを許してくれるんだろう。
マチがリンクに到着して右も左もわからないまま立ち尽くしていると、急にその場に冬がやって来た様な冷たい空気が流れた。冷気の中からH・ハンドクルーが現れた。
リンクの入り口にマチがうろついていることを聞いて出て来た。
エイチの機嫌が悪いのなんて誰が見ても分かる。眉間にしわを寄せ、冷酷な目つきをして大きな身体でゆっくりスケートをはいたままスティックを片手に通路を歩いて来た。
こっちに近づいてくる・・・・・
急に昨晩吊るし上げられた恐怖が思い出された。もうあんな目に遭いたくない。
マチの心臓はこれから起こる事に備えてフル活動体制に入った。
エイチは歩みを止めず、突然持っていたスティックを大きく天井に向かって振り上げた。
そして次の瞬間、通路の手すりにそれを勢い良く打ち付け真っ二つに折った。物凄い音が鳴った。
スティックは無残に折られ、片割れは通路を転がり、もう一方の握られた鋭利に尖った切っ先はマチの方に向けられた。
エイチは歩調を緩めずまっすぐ歩みよりマチの目の前で止まった。マチの柔らかい細い首にささくれ立ったカーボンのスティックがつきつけられた。
エイチはスティックでマチの顎を上げると、不気味に笑った。
「何しに来た?俺に喧嘩でも売りに来たのか?」
「そんな・・・」少しでも動けばスティックの切っ先が喉に突き刺さる。大きな声が出なかった。
「聞こえない。うっとおしい女が。背骨を折られたいのか?」
「――――!」
通路にいなくなったエイチを探しに出てきた他のホッケー部員が何かが起きている事に気が付いて一斉に大声を出した。
「やめろーっ!」「逃げろ!」と叫んでる。
部員達は一目散にこちらに向かって走って来た。
エイチの表情は変わらない。青く冷酷な瞳でじっとマチを見下し瞬きすらしない。
口元が歪んで、笑ったように見えた。
「逃げろーっ!」
「早く!」
向こうから部員達がスケートを履いたまま狭い通路に押しかけた。
怖い・・・
でも、寮から出ていけない事を告げなきゃ。
このぐちゃぐちゃの切っ先でのどを刺されるかもしれない。それでも、これは私の生活が掛かっている。命をかける価値があるでしょ?誰かが助けてくれるなんて期待してないわ。私は今、この人と向き合って一人で戦うのよ。ドクターが言ってた。
何もしないからイーストケースにいちゃいけないんでしょ?だったら・・・・
「どうすれば、どうすればあの寮に住んでもいいの?」
辿り着いた部員が一斉にエイチにつかみかかった。二人がエイチの腕にしがみつき、三人が胴体をがっちりと抑えた。しがみついた男達もエイチと同じくらい背の高い大男達ばかりだった。力いっぱいH・ハンドクルーにしがみつく。
「エイチ!落ち着け、いくらなんでもこんなチビをやったら本当に死ぬぞ!」
「なんとか俺達が寮から追い出すからとにかく落ち着くんだ!」
「もうすぐ秋の祭典があるのにその前に面倒は起こすなよ。また監督がうるさいだろ?二軍と戦わないと。勝たないと」
両腕、両足をつかまれたエイチはそのまま動かずに、
「秋の祭典?」と漏らした。
「そうだぞ。優勝を逃すわけには行かないんだ。お前が出ないと盛り上がらないだろ?」
エイチは彼らの必死の説得なんて聴いていなかった。
違う事を考えてる目・・・・何?
急に彼の表情が変わった。威嚇する恐ろしい目から、見た事もない様な意地悪な、そして面白がっているような目つきになった。そしてエイチはその青い目で刺す様にマチを睨みつけると低い声で言った。
「おもしろい。やってもらおうじゃないか」
部員達が冷や汗を流しながら、エイチが何を言うのかに集中した。
「そうだ。お前はなんの取り得もないのにあの寮に住もうとしてる。やっと分かったのか。いい度胸だ。お前みたいな出来そこないの女にしてはな」
エイチの目の色がまた変わる。マチはこんなに意地悪な目つきができる人間を見た事がなかった。
「マネージャーになってみろよ」
「なんだって?」部員達は何を言い出すんだ?と目を剥いた。
マネージャー?
「お、おい・・・・エイチ?」
「そうだ。メインのマネージャーに立候補して、実力で受かったら俺の隣に住んでも良い」
「?」
マネージャー?・・・・何の事?
エイチはリンクの通路に貼ってあるポスターをあごで指した。そして長い腕を伸ばすと壁からビリッと勢い良くそれをはがしてマチの手に押し付けた。
「良く読めよ。言っとくが簡単じゃないぜ?お前みたいなバカに最後まで残れる勇気があるかな?もしなれなかったら、学長がなんと言おうが俺はお前を必ず追い出す。その時はただじゃすまない。全身をタンカに縛り付けられて病院から日本に帰る羽目になる」
ニヤッと笑うとエイチは部員の手を乱暴に払いのけてロッカールームに帰って行った。
その場にいた一同に長い沈黙が走った。
誰もがこのメインのマネージャーになる事がどれほどの事か知っていた。考えられない倍率をかいくぐった選ばれし女になる。どれほど大変でどれほど難しいか、そして、なったらなったでいかに過酷なものかを知っていた。
何も知らなかったのはアイスホッケーも知らない、マネージャーがどんなものかも知らない、四日前に日本から転校して来たマチ一人だけだった。
エイチが見えなくなるとその場がざわめき始めた。
「エイチ何考えてるんだ?こんな子受かるわけないだろ?」
「不可能な課題を出して、とにかく追い出す気なんだろ・・・・」
その辺に集まった野次馬は口々に青い顔で言いながら全員マチの前から去って行った。
最後に出て行こうとした部員の一人がマチに言った。
「お前、エイチはあと少しでヤバイとこだった。殺されなくて良かったな。迷惑なんだ。あいつをこれ以上、怒らせるなよな」
マチはヘナヘナとその場に座りこんだ。
―――――大変な事になってしまった。何が起きたの?そんなに時間は経っていなかったが、マチは何年も彼と戦っていたかのような疲労を感じた。
私、エイチにどうすれば良いのか聞いたわ。
引き千切られたポスターが手の平の中で汗でしわくちゃになっていた。
手がまだ震えてる。何が書いてあるの?『募集要項』と言う文字が見えた。ポスターを広げて読みはじめた。
そして数秒後、広げなければ良かったと心から後悔した。
◆
黒地に白い文字で印刷されたこのポスターはメインの校章がエンボス印で押されている。これが公式に認められたポスターである事を証明していた。内容はこうだった。
秋の祭典『メインホッケー部マネージャー募集要項』
1、 テーマ『勇気』
2、 オーディション ・場所 B棟小講義室 テーマは随時披露可
・ 時間 放課後
・ 判定 十一月二十日
・ 募集要員 一名
備考欄には『参加者多数歓迎。仕事内容はメインホッケーチーム一軍の補佐全般。今年のテーマは『勇気』。体力、忍耐力、努力はマネージャーになるからには最低限持ち合わせて欲しい要素。あくまでも審査対象は『勇気』があるかということ。発表方法は自由。期限までに審査員を納得させる一番の勇気を見せた者がメインのマネージャーになれる。参加者は受付所で登録する事。応募者多数の場合、申込み時に一次面接にて審査を兼ねる場合がある』以上
◆
シーバス乗り場から近い大通りは、バンクーバーのダウンタウンへ行く人達でいつも賑やかだ。
ここ『ポート・カフェ』のコーヒーは他のお店より薄いコーヒーなのに香りが良いのが有名で、マイカップを持っていくと十%安くなった。
「・・・はぁ」
「・・・はぁ」
ロアンナもマチもこれで何度目のため息だろう。
何百回読んでもわからない、漠然としすぎてる募集要項にげんなりした。
『勇気』を見せるってどんなことなんだろう。
「マチ、何度読んだって答えはわからないわ。私はあなたがあのエイチに戦いを挑んだって聞くだけですごい事だと感心したの。よく彼が怒り狂わなかったわね、本当に運がいいのよ。マチ、希望を捨てちゃダメよ。あそこにはSも住んでるしね」
「うん・・・・」
「どんな恐ろしいことに挑戦する事になるかわからないけど、登録しなきゃ始まらないんだから、登録しましょ?」ロアンナが途方に暮れながらもそう提案した。
「うん・・・そうよね。自分の住む場所がかかってるんだもんね」
「そうよ。生活全てがね」
学長に言ってどうにかなる問題じゃない。女子寮はまだできていない。引っ越しさせてもらえない。教務課に告げ口してもエイチは見えないところで必ず目的を果たす。ボディーガードを雇える訳でもない。エイチはきっと諦めない。課題をクリアするしかない。
放課後、体育館からさほど遠くないB棟の三階にある小講義室は立候補者でごった返していた。登録に行くにも部屋に続く階段が生徒で一杯で、マチとロアンナは最後尾についた。
「す、すごい人数ね・・・・」
「うん、今年は三年に一度のマネージャーオーディションよ」
「三年に一度しかないの?変わってるわね」
「ええ、なんでも創設当初から三年ってくくりは縁起が良いからなんですって。彼らって勝負に対してゲンを担ぐのよ。プロの選手もリーグで勝ち続けてると髭を剃らないとか、そんな感じ。大昔の部員の風習のなごりね。今はそんな事誰も気にして無いと思うわ。確か、三年前選ばれた奇跡の女の子は過労で病院送りになってそれっきりって噂よ。その子がやめたのはオーディションに受かってからたったの三日だったから、今年までほとんどまる三年メインチームにはマネージャーはいなかったの。だからこそ今年の応募者は異常に多いのよ、この分だと二百人は集まってるわね」
「たった一人しかなれないのよね?二百倍って事よね」
コクッ。とロアンナが頷いた。
「なぜ?だっておかしいと思わない?三年前入った女の子は過労で倒れて辞めたんでしょ?考えるだけでぞっとするような事をやらされたのよ、睡眠時間もないような過酷な労働を課せられたんだわ。だったら、皆その事を承知で何故来るのかしら?なんでこんなに大勢が立候補するの?私だって生活がかかってなければ絶対こんなのに応募なんてしないのに」
「一つの理由は、カナダではホッケー選手が憧れだって言う事かな。それからもう一つは、選手かな。Sとか・・・」
ドキッ。その名前を聞いて、マチは身体が暖かくなった。
「キャプテンであるSのすぐ近くで働けるのよ?Sとも話せるし、いつも彼のプレーを間近に見れるわけだし、遠征にも一緒についていったりできるしね。ホッケー部のマネージャーなんてステイタスはメインで一番自慢できる事よ」
「そっかぁ、Sの魅力でこんなに集まっちゃったのね!」
そう言ったマチを見てロアンナは
「ふふ!マチには悪いけど、Sの魅力だけじゃないわ」と言った。
「どう言う意味?」
「つまり、その、あなたが悪魔だと言ってるエイチもお目当ての一人よ」
「え?なんなのそれ。嘘でしょ?そんなにいないわよ。エイチが目当てだなんて!」
マチは思わず素っ頓狂な声を出してロアンナに言った。
ロアンナは三階まで続く女子生徒の列を見ながら、
「多分、ここにいる半数以上はエイチ目当てね」と言った。
「うそよ?」
「残念ながら」
信じられない。何が良いの?あんな強暴男!口は悪いし、怖いし、意地悪だし、どれほどホッケーがうまくたって考えられないわ!
Sはどこをどう見たって、優しいし思いやりがあってカッコ良くて。誰もが憧れるって話しもうなずけるけど。そんなSと同じくらい人気があるって事?半数以上がエイチ目当てで集まるなんて。世の中何かが間違ってるわ。
――――そうよ、私なんかがこの列に並んでる事自体正しい事とは思えない。列に並んでるのはどの子も皆自信に満ちた表情をしている。もちろん登録は強制なんかじゃない。自分の意思でみんな参加してる。
自信もなく、困った顔でこの列に並んでるのなんてマチとロアンナだけだった。
小さな部屋に机が一つ、短い金髪をさっぱりさせて、端正なな顔立ちのホッケー部員モリエルは顔を上げて次の候補者を見た。
扉から入って来たマチを見て彼は目を疑った。
なんなんだこの冴えない子。始めて見るダサっ・・・・長い一本髪に眼鏡かよ・・・・どう考えても諦めた方が良いな。
モリエルは一瞬我を失ってマチの事を見つめた。
ここはメインのマネージャー登録会場だぜ?まさかこんな地味な子が応募してくるはずないよな?ここまでレベルがいきなり落ちるものなのか?いや、違う。こいつの前までは世紀の美女とは言えなくとも可愛いまあまあ上等な女の子達が応募して来ただろ?なんだよ、この女は。場違いもいいところだろ!
モリエルは念のため聞いた。
「ええと・・・ここはホッケーの会場だけど?」
マチは始めて見るモリエルに小さな声で言った。
「はい。知ってます。メインホッケー部のマネージャー試験に応募しに来たんです」
モリエルは聞かずにはおれなかった。
「君が?誰かの変わりでしょ?代理の応募?」
「・・・違います。私本人が登録しにきました。受け付けてください」
モリエルは目を見開いて、彼女に自分が驚いている事を見せた。
「っはは!笑えるな」
俺達もここまで馬鹿にされるとはな。
「はぁ・・・・じゃあ、仕方ないなぁ。名前は?」
「マチ・カザマです」
「グレードは?」
「10グレードです」
「まさかとは思うけど・・・・志望同期はSそれともエイチ?」
モリエルはふざけてそう聞いた。
「―――――そんなんじぁありません!『寮』です」
「寮?・・・・・マチ?」
変な名前だな。モリエルはふと昨日部員達がロッカーで言っていた事を思い出した。放課後の部活でもめごとがあったはず・・・モリエルは目を見開くとマチを指して立ち上がった。
「思い出したぞ!お前か?エイチに喧嘩を売ったって女は。おもしろいね。やってくれるじゃないか!アハハハハハ!バカだよなぁ!」
モリエルは両手で顔を覆うと笑い転げた。
「登録なんてしたって無駄だぜ?お前は絶対受からないよ」
「どうしてですか?」
「分かりきった事さ。審査員の中にエイチがいるからな」
「!」
「ま、それ以前の問題か、最終審査なんかには残らないよ。もう帰った方がいい」
身動きの取れなくなったマチの腕を後ろから優しくつかむ手があった。陰に隠れていたロアンナだった。マチよりも泣きそうな顔をして出口に導いた。
モリエルは短く切った金髪をくしゃくしゃっと掻きあげると名簿に×印を書き込み、失格の赤いハンコを押した。そして気を取り直して姿勢を伸ばすと、わざと明るい笑顔を作って言った。
「次、入って!」
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