第3話 『何もしていないから』

 寮の部屋に着くとマチは考えた。

 エイチはもし私が出ていかなかったらどうするつもり?

 静かな部屋に秒針が進む音だけがかすかに聞こえた。

 今は丁度、九時半。

 今日があと二時間半で終わってしまう。三日間のタイムリミット。

 でもどんな事を言われたって出ていけない。沖縄にはもう住める家は無いし帰れない、アマゾンのお父さんとも約束の日まで連絡が取れない。ここで面倒を見てくれるのはあの忙しそうで厳格な学長だけ。そもそも、親切でこんな居候の私を立派な寮に入れてくれているんだし余計な迷惑はかけたくない。反対してるのは隣の住民エイチだけよ。だいたい単身寮なんだし朝も夜も顔を合わせるわけでも、ずっと一緒にいなきゃいけないわけでも無いのに何でこんなに反対するんだろう。我慢してくれればいいじゃない。とにかく出て行けないわ。そうよ、無視してればいいわ。まさか何かされるわけでも無いだろうし。私はここに住むんだから、多分女子寮ができるまで。

 

 マチは寝る支度を全て整えて寝巻に着替え、玄関のカギを確かめるとベットに入って布団にくるまった。

 階下に広がる深い公園の森に、フクロウなのか聞きなれない鳥の鳴き声が時々聞こえた。雲ひとつ無い夜空には満月が浮かぶそんな美しい静かな夜だった。

 マチが眠りにいざなわれた頃、突然窓の外で物音がした。

 何か大きなものがバルコニーに舞い降りたような音だった。

 鳥・・・・?何?

 急激に眠りから引き戻される。マチの心臓は早鐘の様に鳴り、ベットの上で身動きが取れないまま音のするベランダを凝視した。

 慌てて直ぐ横に置いた眼鏡を掛けて時計の方を見ると十二時過ぎだった。

 ここは八階で最上階。真っ暗な部屋に閉めたと思っていたはずの窓から突如風が吹きこんで来た。

 サッシに鍵を掛け忘れたわ!誰かいる。人だわ!泥棒・・・・誰?

 マチはあまりの恐怖に全身に力が入らず全く動けなかった。次の瞬間、勢い良くサッシが開けられた。続いて、ずかずかと勢いよく誰かがマチのベットに向かってくる。

 マチは恐怖で固まったまま瞬きもしないで何も見えない暗闇に失神しそうだった。

 窓に鍵を掛けていなかった自分を責めた。平和な沖縄では窓の鍵など無頓着で過ごしてきた。その習慣がアダとなった。しかしもう後悔しても遅かった。

「きゃぁぁぁぁっ!」

 マチは叫んだが、あまりの恐怖に声が引きつって助けを呼ぶには小さ過ぎた。

 突然マチは大きな手で口をふさがれ、寝巻きの胸倉をつかまれると乱暴にベットからひきずり出された。

「おいブス。出てけって言われたのが聞こえなかったのか?」

 それはエイチだった。

 隣の部屋からバルコニーを伝って乱入して来たのだ。

「――――――んんんんっっ!」

 喉元を寝間着ごと掴まれているので苦しくて声が出せない。

「のんびり寝てる場合じゃないだろ?俺が冗談を言うように見えたなら、それは大きな間違いだ。さっさと出ていけ!俺の隣にタダで住ませるわけにはいかないからな!」

 マチの心臓は恐怖でリズムを失っていた。彼の声は低くて大きい。目の前でシャウトされて、爆弾を浴びたような錯覚がした。マチの指先は小刻みに震え、もはや声は一つも出なかった。

 開け放たれたカーテンの隙間から月が顔をのぞかせると、怒りに燃えたエイチの顔が浮かびあがった。

 こげ茶の髪が黒い影を目元に落し、水を湛えた様に光を反射する真っ白な白目に紺碧に光る青い瞳が月明かりで残酷なまでに輝いている。瞳孔は燃え上がる怒りで極端に小さくなって黒い点の様になっていた。次から次に恐ろしい言葉を吐き出す唇に覗く歯は真っ白な牙に見え今にも猛獣のごとくマチの首に食いつきそうだった。

「一刻も早くここを立ち去れ。お前の友人にデブがいるだろ?そいつの家に転がるなり、なんなりしろ。どんな手を使ってもいい。明日から俺の前にその面を見せるんじゃない!いいな?」

 エイチの顔が怒りに歪む。 

「・・・・」マチは何も言えなかった。

「もし、この約束を守れなかったらどうなるか分かるか?二度と起き上がれない身体にしてやるからな。いいか?これは脅しなんかじゃない」

 エイチはマチを宙に吊るし上げながら、足でベットを思いっきり乱暴に蹴った。あまりの暴力にベットに裂け目が入る音が響いた。

 マチは震え上がって、かろうじてうなずいた。

 エイチは手の力を緩めると、マチを捨てるようにベットに落とした。そして来た様にしてベランダに消えた。

 吊るし上げられていた身体が雑に落とされ、恐怖で全身から力が抜けて立ち上がれないマチは、ずるずると床に落ちて放心した。震えが止まらない。


 マチは我に返ると大粒の涙を流した。ただただ無性に恐くて悲しかった。こんな恐ろしいところに来てしまった自分が憎かった。こんな悲惨な運命をたどらねばならない自分が悔しくてたまらなかった。日本にいれば絶対に味あわ無い恐怖。

 マチは床からベットに戻る事さえ出来ずにそのまま一晩を明かした。


 ◆


 マチの身体は弱っていた。沖縄からカナダについて四日目。十六歳の小さな女の子にとってカナダ・メインはあまりに過酷だった。 

 教室までは登校した。しかしその後の記憶が無かった。


 目が覚めるとぼーっとする意識の中でマチは何が起きたのか考えた。

 ここは保健室ね。モスグリーンのカーテンでベットがぐるりと囲まれていた。エイチに胸倉をつかまれて怒鳴られたのはいつの話?朝だった?それとも夜だった?

 悲しみが再び込み上げて来て白い清潔なベットに涙がこぼれた。

 ロアンナと話しがしたい。どこ?ロアンナ?

 起きあがろうとするマチにカーテンの向こうから声がした。

「目がさめても勢いよく起きるなよ。お前は疲れてる」

 しゃがれた年配の男性の声がした。カーテンを開けたマチが見たのは白い白衣に身を包んだ保健室の先生ならぬお医者さんだった。髪はグレーがかった白髪で頑固そうなふさふさの眉毛。目尻がくっきりとしわで覆われ、口元はへの字に固く結ばれている。怖そうで頑固者。そんな印象の先生だった。

 ドクターはマチの疲れきった顔を見て

「何があった?見かけない顔だ」と机で書き物をしながらぶっきらぼうに聞いた。

「転校して来たんです。日本から」

 眼鏡を鼻近くに下げて、裸眼でマチを見る。

「日本?ははっ!随分遠い所から来たもんだ。来てまだ日が浅いんだろ?お前のような気弱な子はメインにはあまりいない。めずらしいな」

「仕方なく入ることになってしまったんです」

「だろうな。倒れちまうぐらいお前は弱い」

 この先生もやっぱり優しく無い。カナダに来て優しいと思ったのがロアンナとSだけだなんてなんて寂しいのかしら。マチはドクターの方を見ないでベットから立ちあがろうとした。

「何があった?わしは医者だ。なぜ倒れたのかを聞かなきゃここから帰す事は出来ん」

「あの・・・ロアンナは?」

「帰したさ。彼女の勉強時間までお前が奪う権利は無かろう?」

 確かにそうだ。

「あんたの友達はここまであんたを運んできた。背負ってだ。人間は意識が無いと体の力が抜けて重くなる。いくらお前でも相当重かっただろう。一人で汗だくで運んできた」

 ロアンナ・・・・

「このまま何も話さずにまたあの子に迷惑をかける気か?わしはそうゆう友情が嫌いだ、さっさと話してみろ。お前はわしの友人でも無いのに今わしの時間まで奪ってる」

 マチはこのぶっきらぼうで失礼なドクターに真実を話すべきかどうか迷ったが、仕方なく今までの事を話し始めた。

 この学校に入らなくてはならなくなった父の仕事の理由、男子寮に住む事になった訳、隣がH・ハンドクルーと言う男だった事。エイチと聞いてドクターの眉が動いたのが分かった。エイチはやっぱり有名らしい。そしてそのエイチが夜中にバルコニーから乱入して来て、出ていかないと手を施すと言ったこと、そして今日の朝、ふらふらしながら登校した事を説明した。

 ドクターは顎を片手でなでながら暫く考えると

「――――なるほどな。どうやらただで倒れたんじゃ無いらしい」

 ドクターはため息をついた。マチはしょんぼりした。

「どうして、何もしてないのに私だけこんな目に遭わなきゃいけないんでしょうか?」

 消えそうな声でそう言うマチを見つめてドクターは眉を上げると、当たり前のようにこう言った。

「何もして無いからさ」

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