4:隣人への鬼の報復

 次の日、桔梗はやはりどこか納得いかないような顔で朝を迎えた。結局、何考えても仕方ないと寝てしまったが、それでも朝起きていざ考えると悩ましく思えた。またいつも通り仕事に向かった。

(佳奈には、早いとこ言うべきなんだろうか……。だとしたら、それこそ今日言うべきか……?)

 元々、彼女との待ち合わせは毎週の木曜日である。今日は会う予定ではない。しかし、桔梗は今日言わねば、と心に決めていた。彼女は悩むことを好まない。大体すぐに行動をする性質タチである。いつものように淡々と雑用をこなし……傍から見るとそうであるが、行動すると決めていても、桔梗は未だに悩んでいた。とはいえ、悩んでいたのは本当に正体を明かすべきかではなく、その後どのようにそれを乗り切るかだ。(鬼だと伝えれば、最初こそ冗談だと思われる。でもそこで終わる訳にはいかない。それこそ、気味悪がってあちらから離れてくれるんならそれが一番だ。でも、信じられちまえばこの街にはいられない。警察なんかは問題ないが、奴らの耳に入るまでそう長くはかからない……)

「はああぁ………」

 桔梗はとてつもなく大きな溜息をついたので、工場員からすこし驚かれてしまった。


 午後の三時にさしかかろうとする頃、男は狭いベランダからアスファルトを見下ろしていた。

「あぁ……もうすぐだ……佳奈ちゃんはいつもここを通って帰ってくる。見えなくなったら待ち伏せして……」

 何やらボソボソとそんなことを呟いていた。低く籠った声で。

するとすぐに、男の言った通り佳奈が自転車に乗って道路を走っていった。男は少し昂るのを抑えながら準備を始めた。


 佳奈は昨日のことが忘れられずにいた。自分のことを守ってくれた桔梗に、より一層強い感情を抱いていた。勉強なんて手につかないくらいには、昨日の余韻に浸っていた。

(昨日は怖かったけど、嬉しかったなぁ。桔梗が守ってくれたし。結局答えは聞けなかったけど、嫌われてはないんじゃないかな……)

 そう考えると佳奈は急に不安になった。性の多様性が叫ばれるようになっても、この世界は水面下では少しも変わっていない。だからこそ、桔梗でさえそれを受け入れてはくれないんだろう。もし受け入れて貰えたとしても、それもまたいい結果を産まないのかもしれない。他人から白い目で見られるのかもしれない。実の父親にさえも……。そう思うと、急に不安が膨れ上がり、恐ろしさに変わった。

「……そんなこと考えちゃいけない。ダメだよそれは。怖いけど。嫌われたっていいから、答えを聞かなきゃ……」

 佳奈は再び昨日のことを考えながら気持ちを落ち着かせようとした。そのまま階段を登って、鍵を開けようとした。

 しかしその時、突然誰かに腕を掴まれてしまった。

「え」

 彼女はそのまま口を押さえつけられ、隣の部屋に連れていかれ、無造作に床に突き飛ばされた。何が起こったか、彼女は起き上がっても恐怖のようなものに駆られていた。後ろには、背の高い男が立っていることは分かっていた。そして、この後自分に起こることは想像できなかったが、それが少なくともいいことではないということだけは、整理できない頭でも理解していた。

「あぁ……佳奈ちゃん。やっと……」

 男はカチャリと鍵を閉めると、低く、湿った声でそう言った。



 仕事が終わり、桔梗は佳奈の住むマンションを訪れた。のはいいのだが

「……これ、そういうタイプかよ」

 どうやら自由に出入りはできないらしく、桔梗はどうしようかと頭を抱えていた。

「はあぁ……。今日言いてぇのに……そうじゃなきゃダメなのになぁ……」

 彼女は仕方なく出直そうと団地を後にしようとしたが、何となく違和感のような、不安のようなものを感じた。それは「勘」とも言えるもの。彼女の直感である。

(窓が開いている……)

 それだけなら別にそこまでおかしくもない。しかし桔梗は、そこから微かながら異様な雰囲気を感じ取ったのだ。


 佳奈は恐怖で頭が真っ白だった。昼下がり、薄暗い湿っているとすら感じる部屋で、大人の男に片手で両腕を掴まれ、押し倒されている。床にはそこら中にちり紙やゴミが捨てられている。得体の知れない奇妙な匂いが立ち込めていた。

「ねぇ……佳奈ちゃん。ボクのこと、覚えてる……?」

 覚えてない

「そうか。あぁ……首を振るってことはそういうことなんだね……。ボクはね、キミに、挨拶されて……笑いかけてもらったあの日から、君 キミのことが忘れられないんだ……」

 知らないよ

「あぁ……思い出すなぁ。あの輝くような笑顔。あんな天使みたいな娘がいるんだなった思ったよ……あぁ……あぁ……思い出すだけで興奮してきたなぁ……!」

 気持ち悪い。なんで私なんか……

 佳奈は声が出ていないことにすら気がついていなかった。シャツのボタンを無理やりに開けられ首筋を舐められた時に、初めて小さく恐怖心が声を上げた。

「あぁ。いい匂いがするよ……。綺麗な身体だね……。とってもかわいいよ」

 顔を自分の身体に近づけられ、気味悪く口角を上げながら、さも純情そうに男は呟いていた。鼻息がかかっている。佳奈はもはや諦めかけていた。

(もう、いいや。どうなっても。きっと死なないから。桔梗が居れば、きっとこれもいつかは忘れられるし……)

 男は昂っていた。息は段々と荒くなり、声も少しづつ、奇妙に高くなっていた。

「さあ、お待ちかねの時間だよ……ボクと、もっと楽しいことをしようねぇ……! あああ……! キミに初めてをあげられるなんて、幸せ──」

「誰に何をあげるって?」

 男が後ろからの声に気がついた頃にはもう遅かった。振り返ると同時に左頬を殴られ、壁の方へと吹っ飛んでいった。男はそのまま少し唸って気絶してしまった。

「よ、佳奈。悪いな、急に来て」

「……え?」

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