3:少女の隣人とその劣情

 そうこうしているうちに西の空が朱色になり、少し冷たい風が吹き始めた。二人はベンチから立ち上がった。

「もうだいぶ暗くなったな。早く帰らねぇと親に心配されるんじゃねぇのか?」

「あ、それは大丈夫。お父さん仕事だから帰ってくるのいっつも遅いし、もしわたしが帰るの遅くても、いつもは塾で自習してるから怪しまれないし……」

 佳奈は何か言いたげな顔で桔梗のことを見ていたので、桔梗は疑問に思った。

「どうした?」

「いや、えっと……。じ、実はね……なんか最近、帰り道で誰かにつけられてる気がして。なんか怖くって……それで……」

「怖いから家まで送って欲しいって?」

「う、うん……だめ?」

 佳奈はもじもじしながら、なんとなく申し訳なさそうに聞き返した。桔梗はふっと笑って、

「そんなんお安い御用だ。だいたい、お前が困ってんのに、見過ごすなんてできねぇよ」

 と言った。佳奈は「ありがとう」と微笑みを浮かべながら言った。


 二人は並んで歩いていた。黄昏時の暗い道を。時々蛍光灯があって、電柱足元を照らしていた。道の途中で、佳奈は桔梗の腕に抱きついて、彼女に寄りかかった。桔梗は驚いて、

「どうした? やっぱオレがいても不安か?」

 と尋ねた。彼女は首を振った。

「違うんだ。桔梗がいると、頼もしいなって。それに、こうしてるとなんだか安心して……」

「そうか……。それなら良かった──」

 そう言い終わる前に、桔梗は背後に人の気配を感じた。

(いるな。後ろに。視線を感じる。多分こいつのこと見てるな)

 彼女は佳奈をもう片方の手で自分の方へと抱き寄せた。突然の事だったので、さすがの佳奈も驚いたらしい。

「ちょっ、急にどうしたの!?」

「……いいか。今、オレたちの後ろに誰かがいる」

「え!?」と驚く佳奈に人差し指を立てて「静かに」と伝えたたあと、桔梗は続けた。

「多分、お前がさっき言ってた奴だ。でも、距離があるし、この会話は聞かれてねぇ。このまま無視して帰るぞ」

「う、うん……」

「大丈夫だ。オレがついてる」

 二人は少しだけ急ぎ足で佳奈の家へと歩き続けた。


 二人はなんとか団地の前にたどり着いた。桔梗は先程の気配を感じなくなったことから、とりあえず今回は諦めたんだろうと考えた。佳奈は安堵のため息をついた。

「ごめんね桔梗。わたしのわがまま聞いてもらっちゃって……」

「いいよいいよ。別にわがままだろうとなんだろうと、なんでも聞いてやる。いつでも頼ってくれよ」

 桔梗は佳奈を安心させようと笑ってみせた。それを見た佳奈は「ありがとう」と言って笑みを浮かべた。佳奈が家へと帰っていったことを確認した桔梗は、自分の家へと帰って行った。


 夜も更けた頃、桔梗はマスターの店を訪れた。

「よ、マスター。今日はなんかお前の酒が飲みたい気分でなぁ」

 ここは夜ではバーである。知る人ぞ知る名店で、閉店一時間前だと言うのに、結構な人がいる。よくマスター一人で切り盛りできるものだ、と桔梗はいつも感心する。

「いらっしゃい桔梗、今日は何にするんだい?」

「んー。じゃあいつもので頼むよ」

「ああ、いつものね」

 軽く答えたマスターは砂糖とライムジュースと酒をシェイカーに入れた。

「なんだっけ、その酒は」

「シップスミスだよ。いい加減覚えてやっておくれ。三回に一回はオーダーしてるじゃないか」

 自分から聞いたのに桔梗は「はあ」と間の抜けた声を出した。マスターはできたカクテルをグラスに注ぎ、ライムを添えた。

「できたよ」

「お、できたか。いつもの……えーっと……シップなんちゃら?」

「……」


 ジュークボックスからジャズが鳴り止んだ頃、桔梗は未だに店内に残っていた。

「閉店してても残ってるってことは、人がいちゃ話せないことがあるんだね」

「あぁ、その……佳奈のことだ」

 桔梗は何となく気まずそうに言った。

「あぁ、君の友達の。確か半年くらいは一緒だよね」

 マスターは落ち着いた口調で言った。

「そいつ、ストーカー被害にあってるみたいでな。しばらくは会った時に一緒に帰ってやろうかなって」

「それがいいんじゃないかな。そっちの方がきっと彼女も安心するよ」

 その後、妙な間があって、また桔梗が話し始めた。

「……ほんとに話したいことはその事じゃなくてな。あいつ、オレの事好きって言ってたんだよ……」

 マスターは「ほんとに?」というような顔をした。

「疑うのも無理ないよ。俺だって驚いたさ。ただ、いつも言われてたけど、今度のは本気みたいだ。まあ、いつからそうだったのかは知らねぇけどな」

「なんだよ、何かと思えば恋バナに付き合わされるとはね……」

 マスターは後片付けをしながら、少しの間考えて、口を開いた。

「……たしか彼女には、言ってないんだよね? 『正体鬼ってこと』を。僕は手遅れになる前に正体を明かすべきだと思う」

 桔梗はうつむいた。確かに、正体は明かすべきだ。そして彼女の前から姿を消すべきだ。それは彼女のためである。しかし、そうしてしまえばきっと、自分の存在が露呈することになってしまう。

(奴らはまだ活動している……それは鬼が居ようが居まいが関係ない事だ。あの手の仕事は今でも多少需要があるからな……)

「まあ、そこら辺どうするかは君次第だよ桔梗。あんまり深く考えない方がいいかもしれない。取り敢えずは様子を見てみてはどうだろうか」

「……ああ。そうだな」

 桔梗は納得いかないような面持ちで答えた。


「はぁ……はぁ……」

 ゴミやちり紙の散らばった生臭く薄暗い部屋で、一人の男が息を荒くしながら液晶画面を見つめていた。その画面には二人の人影が映っていた。

「あぁ……佳奈ちゃん……お前はもうボクのものだと思ってたのに……あぁ……なんなんだ……なんなんだよあの女はァ!」

 突如として男は両手を机に叩き付けた。乱雑にものが置かれていたため、同時に様々な音が鳴り、雑音が部屋に響く。

「あぁ……ちくしょう。こうなったら……こうなったら早く……急がないと……あぁ……」

 男が何かを決心して眠った後、部屋には電子機器が発する音と光だけが静かに充満していた。

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