第一節 桔梗という鬼

1:桔梗という鬼とその日常

 微妙に活気がない明朝の繁華街。いや、いつも通りか。鬼はそんなことを考えながら、いつものように繁華街の一角にあるバーのような店の裏口へと入っていった。

「よう、マスター。夜の散歩ついでに『食事』してきたよ」

 マスターと呼ばれた四十代前半ほどの背の高い男は、声の方へ振り返り微笑んだ。

「お帰り、桔梗キキョウ。夜の散歩はどうだった?」

「それが、相手がヤク中でな。末期だったし女の人が襲われそうだったからちょうど良かったよ。食える部分は少なかったが、まあ二、三週間はもつかな」

 桔梗と呼ばれたその鬼は、欠伸混じりにそう言った。

「ふーん。最近多いよね」

 マスターはその後ろに「暴力団かなんかでもいるのかな」とつけ加えた。

「さあ、どうなんだろうな。とりあえず、客がいねぇうちにいつものように散歩帰りのコーヒーを淹れておくれよ。金は払うし」

 そう言って、彼女は少し窮屈なキッチンの奥にある丸椅子に座った。

「えぇ……。まだ営業前なのになぁ」

 文句を言いながらも、マスターはキリマンジャロを挽き始めた。


「いやー。やっぱり朝はこれだなぁ……」

 桔梗はなんとも心地がいいというような顔でコーヒーに口をつけた。

「まったく、君はそこばっかり人間臭いなぁ」

「なんだよ、別にいいじゃねぇか。鬼だってコーヒーの旨さくらいわかるんだぞ」

 時々バーに寄って、朝からコーヒーを飲みながら、別にこれといった中身のない会話をする。それは桔梗にとって数少ない楽しみのひとつであった。

「そういえば、今月分の水光熱費、立て替えておいたよ」

「おう、悪ぃなマスター。いつも金ばっかり払わせて。孤児院とアパートの管理人、それにカフェ兼バーの店主ときた。大変なんじゃねぇのか?」

「それ何回目だい桔梗? 何度も言ってるだろう? 孤児院は国からの補助が出るからそれで足りない分は何とかなるし、そもそも義理の両親がお金のことは何とかしてくれる。人助けは逝ってしまった紗英サエの目標だったし、僕が妻のためにできる唯一のことだからね……」

 何となく重苦しい空気が流れる。マスターは「そこら辺の心配なんていらないからさ、じゃんじゃん使ってよ」と、冗談交じりに言った。

「まあ、そうだな。……ったくよぉ、朝から気分重くさせるんじゃねえよマスター。他の奴の楽しい時間に水を差しちゃあ、奥さん残念がるぞ?」

「あはは、ごめんごめん。でも君がその話始めたんじゃないか」

 それから、またしばらく雑談が続いた。


「お、もうこんな時間か。長居しすぎたかもな。仕事の準備とかしなきゃだろ? オレ家に帰るわ。それじゃまた」

 六時頃、桔梗は急ぎ足で裏口から出ていった。開店時間前のカフェには、マスターだけになった。

「……まったく。せめて洗い場にカップを置いて欲しいものだね。」

 店を出た桔梗は帰途についた。彼女の家は郊外の小さな町の外れにあるアパートの一室である。マスターが管理しているかなり年季の入った小さなアパートで、なんでも10年代からあるものらしい。近年、政府によって子育て世代や介護を必要とする家族をもつ家庭を支援するためのマンション郡が建てられるようになってから、住む人間がだんだんと減っていったそうだが、桔梗にはその方が都合が良かった。

 若干軋むドアを開けて、使い古した靴を脱ぎ、部屋へと入っていった桔梗は、ゴチャついたテーブルから煙草の箱とライターを取り、ソファーに座って煙草に火をつけた。そして一吸いして灰色の煙を吐いた。

(オレはいつまで生き延びられるんだろうか……。いつになったら人間として生活できるようになるんだろうか……。その前にどうせ死ぬんだろう。あいつには悪いけど)

 黙っていた桔梗は、そのようなことを考えては、何となく虚しい気分になった。彼女は急に一人で陰気な雰囲気になり、大きな溜め息をついた。

「さて、そろそろ仕事にでも行くかぁ」

 しばらくして桔梗はそう言って灰皿に火を押し付け、仕事着に着替え、鏡を見た。その陰鬱な顔の頬を両手で思い切り叩き、気合を入れ直す。

「……よし!今日も一日『人間らしく』だ」

 彼女は鏡の前で自分にそう言い聞かせ、洗面所を出て玄関で底の擦り切れた靴を履き、キィと小さく呻くドアを開けて部屋を後にした。

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