第22話

白いスーツの女の独白




 私は、一生懸命、大学生になるまで育て上げた一人娘を、車の事故で失った。最初は、娘の不注意運転による単独事故だと思われたが、のちに、とある住宅の外に付けられた防犯カメラの記録から、煽り運転による事故死だと分かった。完全な殺人だった。警察に見せてもらった防犯カメラの映像には、狭い一方通行の車道を、娘の車にぶつかるぐらいの近さで、どう見ても80キロ以上は出ているスピードで追いかける黒い車が映っていた。

 その映像を見た時、壊れるかと思うぐらい心臓が激しく鼓動を打ち、足先から全身にかけて震えがきて、立っていられず私は側にあった机に手をついて、どうにか自分を落ち着かせた。追い回され、恐怖の中死んでいった娘のことを思うと、涙が止まらなかった。

 警察の捜査のかいあって、黒い車を運転していた男が捕まった。男の年齢は十九歳で、クスリの常習者だった。クスリによる幻覚のせいで、一方的に娘の車に嫌がらせを受けていると妄想し、やったのだと。

 不思議なことに、男は執行猶予で釈放された。

 何故、人一人殺しておいて、のうのうと自由に生きていられるの?全く、私には理解出来ない。

 気持ちを整理出来ない私は、男に直接会いに行った。娘の死に対して、謝罪の言葉一つでも聞ければ、納得できるかもしれない。突然、家を訪ねても、入れてもらえないかもしれないので、男が自宅を出てしばらく歩いたところで声をかけた。深夜、辺りは静かな住宅街で、人一人歩いていない。男は振り向いて、私を見た、その目は、焦点が合っていなかった。男の顔は、みるみる青ざめる。

 「お、お前…、何で生きてんだよ!」

 私と娘はよく似ていたし、暗がりで、さらにクスリをやっているせいで見間違えたのだろう。

 男は悲鳴を上げながら逃げ出した。突然のことに驚いたものの、ものすごい形相で走って逃げていく男を見て、少し溜飲が下がったのも事実だった。

 ……面白い。娘が追いかけ回されたのと同じ時間ぐらい、恐怖を味わえばいい。

 私は走って男を追いかけた。男は途中で振り返ると、さらに大きな悲鳴を上げ、足をもつらせながら逃げていく。

 ……どう?娘と同じような恐怖を味わってみて。娘は今のお前より何万倍も怖かったはず!

 男の行く先に、広い幹線道路が見えてきた。もうそこまでで十分だろう。私は足を止めた。だが、男は止まらなかった。車が猛スピードで通る交差点へ、飛び出した男。男の体は走ってきたトラックにぶつかり、数メートル弧を描いて飛ぶと、鈍い音を立てて道路に叩きつけられた。その姿は、まるで壊れた人形のようだった。 

 それを見た私は、足が震えた。怖くなった私は、踵を返してその場を離れた。家に帰り、布団にくるまっていつまでもブルブル震えていた。これじゃ、あの男と一緒じゃない。どうせ、どこかの防犯カメラに私の姿が映っていて、いずれ警察が来るだろう。だが、待てども待てども、警察は来なかった。新聞の隅に、男が事故で死亡したという記事が、小さく載っただけだった。

 私は、天罰だったのだ、と思うことにした。私があんなことをしなくても、いずれ男はクスリで体がボロボロになり、死んでいただろう。その死が、少し早まった、ただそれだけのことだ。不思議と、私の心は痛まなかった。

 いつものように、夫が職場である大学の研究室に寝泊まりしない日は晩御飯を作り、週三回働いているスーパーのパートにも出た。

 私にとって男の死は、世の中に害悪をなす存在が消えて、クリーンになっただけ。

 ただ、変わったことは、娘の存在がないこと、それだけだった。

 日々、職場のスーパーにやってくる、楽しそうな家族連れの姿を見ては、周りに聞こえないようにため息をついた。

 そんな日々を送っていた時だった。

 職場の休憩室に入ると、それまでそこそこ口をきいてくれていた同僚の敷石という女が、私と距離をとるようになっていた。

 こそこそと、他の同僚と、休憩室の隅で喋べっている。

 「ほーら、見て~。なんか、最近、この世の終わりでも来たかのような暗い顔しちゃって。一緒の空間にいると不幸が移りそう~」

 「聞こえているわよ」

 そちらを振り向いて睨み付けると、二人は体を寄せあってキャッキャキャッキャと休憩室を出て行こうとする。

 ……何がそんなに楽しいのよ。

 休憩室の部屋を出る間際、敷石が小さく呟いた。

「聞こえるように、言ってんのよ」

 二人はギャハハハと大声を上げ、廊下を去って行った。

 溜め息をつきつつ、二人が出て行ったことにホッとし、私は持参した弁当を食べようと自分のロッカーを開けトートバッグをまさぐった。

 だが、そこには何も無かった。

 あれ?おかしい。確かに、弁当を用意して持ってきたはずなのに。トートバッグを傾け中を確認した。空だった。

 え。まさか私、認知症にでもなったの?それか、最近酷いことばかり起きているので、自分では平気なつもりでいても気がおかしくなっているのか……。

 かすかに、どこからか卵焼きの匂いがした気がした。そうだ、私は今日、卵焼きを作って入れたはず。ミートソースの匂いもかすかにした。ミートソースのスパゲッティを、弁当箱に入れたはずだった。辺りを見回す。さっき、あの二人がいた近くに、ゴミ箱があった。私は恐る恐る近づいた。そこに、中身がぶちまけられた、私の弁当があった。

 私は、唖然とした。信じられない思いで、それを見つめた。ほんとに、世の中に、こんなことをする人間が存在するんだ……。

 私は思わず拳を握った。そしてその手が、震えた。

 カチャとドアの開く音がして振り向くと、最近入ったばかりの地味な同僚が休憩室に姿を現した。

 「矢浅さん」

 職場での休み時間、休憩室で、それまでろくに話したこともなかった同僚に話しかけられた。……なんだろう。私は何事も無かったかのようにゴミ箱から離れ、平静を装おうことにした。

 「何?」

 彼女は年は私と同じくらい、いつも髪はひっつめで、化粧けもなく、見た次の瞬間には忘れてしまうぐらい、これといった特徴のない人だった。

 彼女は、私の顔を覗きこんで言った、「最近、なんかあった?」

 一緒、あの男が壊れた人形のように宙を舞った、その光景がフラッシュバックした。 

 私は、ギュッと痛いぐらいに目を閉じ、男の残像を追い払った。

 私は、自分の娘が亡くなったことは、職場の人には言ってなかった。

 「いいえ、何も……」

 寂しいと思う私の心が、そんなに顔に出ていたのだろうか。勘のいい、女は嫌い。

 休憩室を出ようとしたその時、彼女が言った。

「初めての、殺人はどうだった?」

 私は握った休憩室のドアノブから、手を離した。

 振り返り、正面から彼女を見て対峙する。

「何?」

 彼女がクスッと笑う。

「そんなに、身構えないでよ。私は味方よ」

 味方であろうと、敵であろうと、私の人生にそんな存在はいらなかった。味方だと思っていた人間が、実は敵だった。そんな目には、この人生の中でもう何度も合っていた。再び誰かを信じて、また惨めな気持ちになるなどご免だった。

 「何が言いたいのよ」

 「私の家の玄関にはね、防犯カメラを取り付けてるの」

 彼女は、ペロリと舌なめずりをした。「そして、私の家の前の道路は、幹線道路に通じているのよ」

 足先が震え出すのを必死でこらえながら、私は応えた。

 「……、だから、何?」

 「別に私は、あなたから金をせびろうとかっていうんじゃない。ただ、あなたには、素質があると思って」

 女は、再び唇を舐めた。「殺人、のね」

 この女は、見たのだ、私が、あの男を追いかけるのを。

 一瞬焦った反面、心のどこかで、ホッとしている自分がいた。娘のこととは別として、やはり、私は、自分のした罪の償いを、しなければならないのだろう。

 「いいわよ、警察に言えば」

 「言ったわ、あの日、壊れてて、防犯カメラは作動してませんでした、ってね」

 女はテーブルに座り、ポケットからタバコを取り出すと火をつけた。思い出した、私はこの女がタバコを吸うのが嫌で、今までろくに口を利いてこなかったのだ。それにしても、この女は、一体何が言いたいのだろう。

 女は、ポケットから小さな紙片を取り出し、こちらに投げてよこした。それは、名刺サイズの紙で、ただ汚白とだけ印刷されていた。

 「私は、その組織の一員なの。あなたみたいに、人一人を消しさっても、平然と社会生活を送れる、そんな存在が必要なのよ」

 女は上を見上げ、タバコの煙を大量に吐いた。

 「組織に入れば、もっとたくさん、警察に捕まることなく人を殺せる方法を教えてあげる。そして、殺された人ちは、無念の思いが強ければ強いほど、その地に留まり、自分の生きた証を、せめて自分の死んだその場所を、守ろうとする。そうして、この社会は、安定を保てる」

 女は、タバコを灰皿に押し付け、火を消した。

 「どう?やってみない?答えは、ゆっくり考えた後でいいわ」

 そう言うと、女は私の横をすり抜け、休憩室を出て行った。

 

 その日、家に帰ると、私はその名刺をリビングのゴミ箱に放り投げた。何が汚白よ、馬鹿馬鹿しい。あの女は私がうろたえる様子を見て楽しんでおいて、今夜にでも警察に真実を話す気だろう。警察が、いつでも来るなら来ればいい。私は、夕食の支度を終え、ダイニングの椅子に座って夫の帰りを待った。

 いつもなら、夜9時頃に帰ってくるはずの、夫が帰ってこない。22時になっても、23時になっても。夜中になって、やっと一通のメールが来た。今日は、研究室に泊まる、と。

 ……娘が亡くなってから、いつもそればかりじゃない。娘が亡くなっても、夫は涙一つ流さなかったし、泣いてる私を慰めてくれようともせず、研究室に籠ってばかりいた。

 私は用意していた夕食を台所の隅の三角コーナーに投げ捨て、リビングに戻るとゴミ箱からあの名刺を拾った。もらった時には、気付かなかったが、よく触ってみると裏側の表面が凸凹していた。角度を変え、光の当たり方を変えてみると、そこに紙をへこませる形で数字の羅列が現れた。数からして、電話番号だと思った。

 ……へぇ。面白いじゃない。私は携帯をとり、番号を押した。

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